毛利元就は、安芸国(現在の広島県西部)の小さな国の領主から始まり、その後中国地方全域を統一した戦国時代の武将です。

郡山城を拠点として中国地方のほぼ全域を手中に収め、たった一代で大国を築き上げた「戦国の雄」と称されました。

そんな毛利元就の性格として挙げられるのは、非常に戦略家・謀略家だったということです。

戦国時代最高の智将として『謀神』とも呼ばれ、その戦略の素晴らしさは現在にも語り継がれています。

毛利元就のそういった性格を形作った環境はどういったものだったのでしょうか。

毛利元就はどんな人?幼少期から初陣までの性格

先に述べた通り、毛利元就は戦術の天才として知られています。

一代で成り上がった名武将の毛利元就は、実は不遇な幼少期を送っていますが、その逆境が力を与えたのでしょうか。

ちなみに毛利元就の初陣は21歳の時で、他の武将に比べて表舞台に登場するのが遅かったようです。

しかし、初陣ながら毛利元就は立派な成果を上げ、戦国武将としての第一歩を踏み出したのです。

中国地方を制覇するに至るまでの毛利元就にはどういった経歴があるのでしょうか。

毛利元就の出自

毛利元就は、1497年(明応6年)に安芸国領主の毛利弘元の次男として生まれます。

彼の生まれた時代は、「応仁の乱」を発端に戦国時代が幕を開けた真っ最中でした。

戦国時代の中でもやや初期に生まれたということになります。

当時、現在の広島県にあたる位置では、安芸国(現在の広島県西部)と備後国(現在の広島県東部)の2つの国が存在していました。

国それぞれに毛利家のような小さな領主が複数存在している状態でした。

その周辺で勢力を拡大していたのが、大内氏、そして尼子氏です。

いくつかの勢力に囲まれた状態という不安定な状況の中生まれたのが毛利元就でした。

どんな幼少期を過ごしたか

毛利元就がまだ幼いころ、安芸・備後の小領主達は、大内氏に付くか尼子氏に付くかで生き残りをかけていました。

毛利氏が従属していたのは大内氏です。

1500年(明応9年)頃になると、大内氏が室町幕府将軍の足利義植に従ったことで、安芸・備後以外の勢力も領地争いが激化していきました。

こうした状況の中で、毛利元就の父・毛利弘元は隠居をすることに決め、領主を毛利興元に譲ります。

そしてまだ幼い毛利元就と共に、鈴尾城から多治比猿掛城へ居住地を移しました。

しかし、毛利元就が4歳の時、1501年(明応10年)に母が死去します。

さらに毛利元就が10歳の時、1506年(永正3年)には父も死去してしまいます。

さらに領主と家臣に城までも奪われた毛利元就は、城を追い出されてしまい孤児となってしまいました。

そして、「乞食若様」と呼ばれるほど貧しい生活を強いられました。

そんな毛利元就を見ていて可哀そうに思った、父の継室の杉大方は彼を引き取り、育てることになります。

初陣、そして家督を継ぐまで

杉大方のもとで成長した毛利元就は、1511年(永正8年)に元服を終えますが、ここでまた事件が起こります。

本来家督を継ぐはずだった兄の毛利興元も急逝してしまったのです。

毛利興元の息子に幸松丸がいましたが、まだ2歳で後見人が必要な状況でした。

本来、兄の跡継ぎであった幸松丸の後見人として、名前が挙がったのが毛利元就です。

次々と代替わりをする毛利氏の不安定な状況を好機とみなす勢力もあり、1517年(永正14年)には武田元繁が、吉川領の有田城を攻め落とそうとしました。

吉川氏は毛利元就の妻の家系であり、毛利氏と吉川氏はなんらかの同盟を組んでいたとされます。

これにより、毛利元就は吉川氏の援助をするために出陣しました。

これがのちに語られる「有田中井手の戦い」で、毛利元就の初陣となります。

毛利元就は初陣にもかかわらず安芸武田氏の熊谷元直、武田元繁を討ち、大勝利を収めます。

この戦は、毛利元就の圧倒的な戦力の功績として「西国の桶狭間」と言われるようになりました

戦い方から見る毛利元就の性格

毛利元就は、様々な策略を駆使して、たった一代にして中国地方を制覇しました。

初陣の際にも大勝利を収めた通り、毛利元就の戦力には圧倒的なものがあります。

毛利元就の有名な戦としては、「吉田郡山城の戦い」「月山富田城の戦い」「厳島の戦い」などがあります。

それに関連付けながら毛利元就が「戦国の雄」と呼ばれるまでの流れを見ていきます。

中国地方の覇者となり「戦国の雄」と称される

  • 吉田郡山城の戦い

この戦いでは、毛利元就の戦局を見極めるという慎重な性格を見ることができます。

当時、安芸国の周辺では、大内氏と尼子氏が勢力を争っていました。

安芸の武将たちは、自分の領地を守っていくためにどちらにつくか不安定な状況でした。

毛利元就は元々は尼子氏でしたが、戦局を見て大内氏の配下となり安芸国内で勢力を広げます。

毛利元就が大内氏側で勢力を拡大したことに危機感を覚えた尼子氏は、およそ3万の兵を率いて毛利元就の郡山城へ攻撃を仕掛けました。

しかし自分の戦力に加え大内氏の援助を得て、尼子氏の軍を撃退させます。

この戦いの勝利によりに毛利元就は更に勢力を拡大し、安芸国周辺の領主となりました。

  • 月山富田城の戦い

月山富田城の戦いは、第一次、第二次に分かれています。

この戦いでは毛利元就が慎重かつ冷静に物事を考える性格が見えてきます。

どちらも大内氏と尼子氏の勢力争いですが、大内氏につく毛利元就も参戦していました。

尼子氏の月山富田城は、別名「天空の城」と呼ばれるほどの難城であり、大内氏はあえなく敗退してしまいます。

尼子氏の追撃により毛利元就も討ち取られる寸前へと追い込まれ、家臣が身代わりにならなければ助かりませんでした。

大敗を食らってしまった毛利元就は策略を巡らせ、衰退するであろう大内氏の配下を抜けることにします。

実際に大内氏は陶晴賢の攻撃によって、大内義隆親子ともに敗死しました。

ターニングポイントとなった厳島の戦い

この戦いでは、毛利元就が巡らせた緻密な策略により勝利を収めました。

次に倒すべきは陶晴賢ですが、毛利元就が懸念したのは圧倒的な戦力の差でした。

陶晴賢が3万人の軍を率いていることに対し、毛利元就の軍は5千人程度でした

そこで毛利元就が考えた策略が、陶晴賢の戦力を大きく減らすことです。

陶晴賢の家臣、江良房栄が「謀反を企てている」という噓の情報を流し、筆跡さえも真似て内通を約束した書状を偽造します。

これにより、陶晴賢側で内乱を起こすことに成功し、江良房栄は謀反の疑いを晴らせず陶晴賢に殺害されました。

加えて毛利元就はわざと狭い厳島に宮尾城を建てて「あそこに城を建てたのは失敗だった、あの城がとられたら毛利家は終わりだ」と嘆くふりをします。

そして陶晴賢側のスパイを利用して陶晴賢軍が侵攻を始めるようにおびき寄せ、厳島上陸を待ちました。

陶晴賢が上陸すると、毛利元就の軍はひそかに陶晴賢軍の背後の尾根に陣取り、夜明けとともに襲い掛かります。

逃げる陶晴賢軍の前には別動隊1500人が待ち構えており、陶晴賢軍は大混乱に陥って大敗しました。

陶晴賢は厳島を脱出するための船を探しますがそれは叶わず、間もなく自害します。

この戦いにより大きな勢力を持っていた陶晴賢を倒し、毛利元就の勢力は絶対的なものになりました。

毛利元就のエピソード

毛利元就には様々なエピソードが残っています。

特に有名なのは「三本の矢」の話だと思います。

これらの話は毛利元就が一族や子孫のことを想って残したものでした。

兄弟間の争いなど、毛利元就には懸念することが残されており、それにまつわるエピソードです。

数々の策で戦を勝ち抜いてきた毛利元就ですが、家臣への気遣いを忘れず、身分の低い者にも声をかける優しい側面がありました。

毛利元就の思いやりある人物像が伝わるエピソードを紹介していきます。

「三本の矢」

毛利元就は一族同士の争いで家が滅ぶことを心配していました。

当時毛利元就の3人の息子、毛利隆元、毛利元春、毛利隆景の仲が悪化しており、それを咎めるためにしたことが「三本の矢」の発端です。

毛利元就はそれぞれ息子に一本ずつ矢を渡して、「折ってみなさい」と促しました。

当然一本の矢は簡単に折ることができます。

その様子を見て毛利元就は、次に3本の矢を手渡しました。

3本の矢をまとめるとなかなか折ることができません。

その様子を見せて、毛利元就は「一人では弱くても、兄弟3人で力を合わせればどんなに難しい局面をも乗り越えることができる」と説きました。

これが「3本の矢」のエピソードです。

フィクションだという説もありますが、現代社会でも生かしていける考え方です。

一族の団結を大事にした姿

毛利元就は三本の矢の他にも様々な言葉を息子たちに残しています。

毛利元就が書いたとされる三子教訓状3mにもわたる書状)には、14つの心構えが書かれていました。

その心構えというのが、家族で一致団結して支え合っていくことが一番必要であるという内容です。

戦国時代は弱い者が強い者へと成り上がる下剋上の時代でした。

多くの大名が一族内の争いも含め、戦により滅亡していった中、毛利元就はそうあってはならないと考えたようです。

その教えが代々続いていったのかはわかりませんが、その血筋は現在も継承、繁栄し続けています。

毛利元就の晩年から最期

数々の戦を勝ち抜き、領地を拡大してきた「戦国の雄」毛利元就ですが、晩年はどういった様子だったのでしょうか。

一戦から退き、家の主を子孫へと継がせた後、毛利元就は体調不良と回復を繰り返している状態でした。

亡くなる1年ほど前から重病を患っていたとされ、病名は食道がんといわれています。

1571年(元亀2年)6月14日、孫の毛利輝元や息子の小早川隆景に囲まれて毛利元就は亡くなりました。

毛利元就が亡くなる3ヶ月前に詠んだ辞世の句が以下になります。

「友を得て なおぞ嬉しき桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」

3ヶ月前にはまだ容体も安定しており、友人と花見を楽しんだ様子を表現したとされています。

これが辞世の句となるということは、心情的には穏やかな晩年を過ごしていたのかもしれません。

一代で中国地方のほぼ全域を手中に収めた毛利元就は、病気を患いながらも友人に恵まれ、子孫に見守られ、この世を旅立ちました。