年表|毛利元就に関わる出来事
1947年 | 安芸の国人領土主・毛利弘元の次男として、吉田郡山城で生まれる。 |
1500年 | 父の弘元が隠居を決意する。長男の毛利興元が家督を継承。父と一緒に多治比猿掛城に移住する。 |
1506年 | 5歳で母親を亡くしたあと、10歳で父の弘元が死去。父の継室であった杉大方が養母になる。 |
1516年 | 毛利家の家督だった兄の毛利興元の死去により、甥の幸松丸が家督を継承し、叔父である元就は後見人となる。 |
1517年 | 有田中井手の戦いが初陣。佐東銀山城の主である武田元繁と武田勢の熊谷元直を討ち取る。 |
1523年 | 毛利家の家督だった甥の毛利幸松丸が死去したため、27歳で家督を継承。 |
1525年 | 尼子氏との関係を断ち切り、大内義興氏の傘下に入る。 |
1529年 | 尼子側の高橋一族を討ち、安芸から石見に至るまで、広大な領土を手に入れる。 |
1540年 | 吉田郡山城の戦い。30,000人の兵を率いた尼子晴久に攻められるが、撃破する。 |
1542年 | 第1次月山富田城の戦い。大敗をし、窮地を逃れて安芸に帰還する。 |
1546年 | 長男の毛利隆元が家督を継承。 |
1555年 | 厳島の戦い。陶晴賢を敗る。 |
1557年 | 毛利両川体制を確立させる。 |
1565年 | 第2次月山富田城の戦い。尼子軍を打ち破り、中国地方を統一する大名となる。 |
1571年 | 吉田郡山城で死去。享年75歳。 |
歴史|毛利元就の生涯
貧しい幼少期
毛利元就は、安芸の国領土主だった毛利弘元の次男として、吉田郡山城で誕生します。元就が3歳のときに父が家督をやめて隠居し、多治比猿掛城に移住しました。その後、5歳のときに母親を、10歳のときに父親を亡くし、家臣によって城を追放されてしまいます。
孤児となり困窮した生活を支えて、養母として育ててくれたのが、父である弘元の継室であった杉大方です。
杉大方が元就に与えた影響はとても大きく、後々半生を振り返った元就は、まだ若かったのに自分のために実家に帰らず留まって育ててくれたことに、感謝の言葉を残しています。
27歳のときに家督を継ぐ
父の弘元が隠居したあと、兄である毛利興元が家督を継承していましたが、元就が20歳の時に病気によって亡くなりました。甥である幸松丸が、2歳で家督を継承し、元就が後見人になります。
幸松丸に代わって出陣した「有田中井手の戦い」は、毛利元就の初陣で勝利をおさめた戦いです。この戦いによって、毛利元就の名前が広く知られることになりました。
そのあとも後見人として尽くしますが、幼少にもかかわらず戦いに参加していた幸松丸の体調は悪化し、9歳で亡くなります。これにより、元就が27歳のときに、毛利家の家督を継承することになったのです。
毛利両川体制の確立
毛利両川体制とは、中国地方を制覇した戦国大名であった毛利元就の政治組織の呼び名です。長男の隆元は、次男の元春と三男の隆景が毛利の運営に参画して、自分を補佐する事を条件に家督継承を承諾しました。
安芸国に大きな勢力を持っていた吉川には元春を、小早川に隆景を養子に出したあと、二人は当主となっていたため、毛利家の分家として勢力を強めます。毛利家を中心として、吉川と小早川両氏がこれを支える「毛利両川体制」が確立しました。
中国地方の制覇
大内義隆が、家臣の陶晴賢に討ち取られました。元就とは、ともに戦火に赴いていた仲でしたが「三本松城の戦い」で陶晴賢が、元就に出陣を打診するも断ります。
陶晴賢が苦戦中に、元就は大内氏の元から離れることを決意し、安芸の城を次々と征服していくのです。有名な戦いである、「厳島の戦い」で陶晴賢と争うことになりますが、撃破します。
その後、大内氏を討ち尼子家の居城・月山富田城を囲んで尼子氏を降伏させ、それぞれが治めていた領土を手に入れ、中国地方の制覇を成し遂げた戦国大名となりました。
家系図|毛利元就の一族
毛利元就には、3人の息子である、長男の隆元・次男の元春・三男の隆景がいました。
長男の隆元は、元就が突然隠居を決意したため、家督を相続することになります。元春は、母の妙玖の従兄である吉川興経の養子に出て、三男の隆景は、竹原小早川の養子に出されました。
相関図|毛利元就と関わりが深い人物
大内義隆
毛利元就は、大内家の傘下に入り、彼は家臣として安芸と備後の軍事指揮を担当していました。「吉田郡山城の戦い」では、大内氏の援軍に助けてもらい「月山富田城の戦い」でも元就が従軍した、関わりの深い人物です。
陶晴賢
陶晴賢は、大内氏傘下の毛利軍と「吉田郡山城の戦い」に出陣します。この戦いで尼子氏を撃退し、勝利をおさめました。ですが、勢力拡大していく元就に危機感を抱き、関係性も悪くなったため、元就と決別します。その後「厳島の戦い」で、元就に敗北したあと、自害した人物です。
尼子晴久
尼子晴久は、3万の尼子軍を率いて毛利元就の居城・吉田郡山城を攻めた人物です。毛利軍は約3,000人の兵と少なかったのですが、家臣や大内義隆の援軍と陶晴賢の活躍で勝利しました。尼子家とは何度も戦い、元就にとって関わりの深い人物です。
合戦|毛利元就にまつわる戦い
毛利元就の代表的な合戦を、一覧にしました。
有名な「厳島の戦い」以外にも知っておきたい戦いです。
有田中井手の戦い | 1517年 | 毛利元就の初陣となった戦いです。兄の興元が死去したことで、佐東銀山城の当主である武田元繁が、吉川氏の有田城に攻め込みました。有田城救援のため、元就は幸松丸に代わって出陣します。武田元繁を討ち取って、大勝利を収めました。 |
鏡山城の戦い | 1521年 | 鏡山城で起きた尼子氏と大内氏の戦いです。まだ9歳だった毛利家当主の毛利幸松丸の後見人であった元就は、城を攻めます。元就は、鏡山城代の蔵田房信の叔父で、実質的な鏡山の城代である蔵田直信に家督を継がせることを条件に策略をめぐらし、鏡山城を攻略しました。 |
吉田郡山城の戦い | 1541年 | 尼子晴久が、3万人の大軍で郡山城を取り囲んだ戦いです。対して、毛利軍は約3,000人ほどでしたが、農民や女性と子どもを守備兵に見せかけて城の随所に立たせて、守りが堅固であるように見せかけ時間をかけます。その後、大内氏の援軍とともに奇襲し、勝利をおさめました。 |
第一次月山富田城の戦い | 1542年 | 大内義隆が、毛利元就などの諸勢力を率いて、尼子氏の本拠・出雲の月山富田城へ攻め込んだ戦いです。 |
第二次月山富田城の戦い | 1565年 | 大内氏滅亡後に、毛利元就が攻めた戦いです。兵糧攻めで戦闘力を弱めて降参させ、第二次の合戦で尼子氏は滅亡しました。 |
厳島の戦い | 1555年 | 安芸国の厳島で、毛利元就と陶晴賢との間で行われた有名な戦いです。のちに、日本三大奇襲戦と呼ばれるうちのひとつになりました。 |
家紋|毛利元就が相手や状況で使い分けた3種類
一文字三星紋
毛利家の家紋で、一番有名な家紋です。3つの丸は、オリオン座の中央に並ぶ3つの星と言われています。また、星は将軍星とも言われており、一文字は最も高い品位の一品(いっぽん)を示したものです。
長門沢新潟紋
沢潟は、葉が矢尻の形に似ていることから勝ち草と呼ばれ、水田や池に自生する水草です。元就が出陣の際、トンボが沢潟に止まったのを見て勝利したことから、沢潟とトンボを福紋として使用するようになりました。
五七桐紋
五桐紋は、桐の葉と花でできた家紋です。3枚の葉の上に3枚の花が描かれています。豊臣秀吉が家臣に与えたもので、西日本を中心に多く用いられているため、秀吉の家紋と似ています。
名言|後世に残る毛利元就の言葉
子供たちに、協力することの大切さを説いた「三本の矢」の言葉が有名ですが、部下への思いやりがあり、向上心がある名言も多く存在します。
- この矢一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし
- 道を歩いてつまづくのはありがちなことだ。少しも気にすることはない。
- 部下の命を守るのにこれしきのことをするのは当然だ。
- 中国地方の全部とは愚かなことだ。天下を全部持つようにと祈れば良いものを。天下を取ろうとすれば、だんだん中国地方は取れる。中国地方だけを取ろうと思えば、どうして取れるだろうか。
性格|毛利元就の人物像が見えるエピソード
毛利元就のエピソードで有名なのは「三本の矢」です。一致団結を大切にした人物でした。
三本の矢
元就が、矢を3兄弟にたとえて、3人で協力していく大切さを説いたエピソードが「三本の矢」です。
息子たち3人は、毛利元就に集められて、それぞれに1本ずつ矢を渡され折るように言われます。そのあとに、3本の矢を渡されましたが、だれも折ることができません。1本なら折れるのに、3本一緒には折れなかったのです。
「この矢のように、1人の力では成し遂げられないことも、3人が力を合わせれば困難を乗り越えて成し遂げられる」
拠点|毛利元就のゆかりの城
多比治猿掛城 | 広島県安芸高田市 | 父の毛利弘元が隠居後に、一緒に移住した城。 |
吉田郡山城 | 広島県安芸高田市 | 毛利家代々が居住とした城。3万の尼子軍に包囲された「郡山城の戦い」がおこなわれた。 |
佐東銀山城 | 広島県広島市 | 毛利元就が、初陣で戦った武田家の本拠地の城。 |
鏡山城 | 広島県東広島市 | 大内氏と尼子氏の戦いが行われた「鏡山城の戦い」の城。 |
月山富田城 | 広島県安来市 | 尼子家の本拠の城。2度攻めており、2度目の攻めで勝利する。 |