中国地方を統一した戦国武将である毛利元就には、亡くなるまで側室をもたなかったほど、愛した妻である正室の妙玖がいました。

戦国時代には、大名たちは自国の安泰のために政略結婚を行い、自らの娘を他の勢力の強い大名家に嫁がせたり、息子に他家の娘を迎え入れたりしていました。

そのため、側室がいることは重要で、多くの子供をもつことのメリットは大きかったのです。そんな時代であったのにも関わらず、毛利元就は側室をもたなかった珍しい武将でした。

毛利元就に一途に愛された妙玖は、のちに妙玖が毛利家にもたらした功績と言われる子供たちを生みます

この記事では、その功績とともに、毛利元就に愛された妙玖の人物像をご紹介します。

毛利元就が愛した妻はどんな人?|正室・妙玖

妙玖は吉川の12代当主であった吉川国経の娘として、安芸国で生まれました。

妙玖とは法名の妙玖寺殿成室玖公大姉の2文字を取ったもので、本名は不詳です。しかし、大河ドラマでの名前は「美伊の方」とされ、特徴的な口癖は「勝ったようなもの」でした。

父である吉川国経は、尼子経久が勢力を拡大するため、大内義興と戦いを始めると尼子氏の味方となり、大内氏の動向を伝えていました。

そして、毛利氏を味方に引き入れることを図った吉川経久の命令で、妙玖は毛利元就に政略結婚で嫁ぎ正室となります。この政略結婚に関して、大河ドラマでは、毛利元就に嫁ぐことに反発する物語が描かれました。

妙玖と毛利元就は政略結婚により結ばれましたが、子宝に恵まれ、生涯を通じて毛利元就を支え、毛利家に貢献します。また、ふたりはとても仲が良く、毛利元就は妙玖を亡くすまで側室をもたず、妙玖だけを深く愛しました

妙玖が47歳で死去すると、毛利元就は郡山城の麓にある、毛利家の吉田館の近くに妙玖をまつり、その場所を妙玖庵と名付けます。しかし、妙玖庵の跡は残っていますが、墓所は確認されていません。

妙玖の死後、妙玖の血筋は毛利家・宍戸家・吉川家・小早川家によって、色濃く受け継がれていくことになります

毛利元就と妙玖の間に生まれた子供は何人?|妙玖の功績

妙玖と毛利元就の間に生まれた子供は、何人いたのでしょうか。

ふたりは、息子3人と娘2人の合わせて5人の子供に恵まれます。この子供たちは、母親の妙玖の功績と言えるほど、大いに活躍しました。

どのような活躍をしたのか、以下でご紹介します。

毛利元就の勢力拡大に貢献した3人の息子

毛利元就と妙玖の間に生まれた息子は3人で、長男の隆元、次男の元春、三男の隆景です。

長男の毛利隆元は、毛利元就が隠居後に家督を継承し、次男の元春は妙玖の従兄である吉川興経の養子に出て、吉川元春となりました。また、三男の隆景も竹原小早川の養子に出され、小早川隆景となります。

吉川元春と小早川隆景は、吉川と小早川の当主となり勢力を拡大し、毛利家を中心として吉川と小早川が支える「毛利両川体制」を確立させました

吉川元春は政治と軍事を、小早川隆景は政務と外交を担当し、毛利家の発展に尽力します。有名な戦いで知られる厳島の戦いでも、息子たちは大いに活躍し、毛利元就を支えました

このように、毛利元就の勢力拡大に貢献した3人の息子たちの活躍は、妙玖の功績の証とされています

命を奪われた長女と溺愛された次女の五龍局

毛利元就と妙玖の間には、ふたりの娘が生まれました。命を奪われた長女と溺愛された次女の五龍局です。

長女は幼いときに、安芸国・石見国の国人である高橋氏の人質となり、のちに高橋氏によって殺害されました。そのため、五龍局は毛利元就と妙玖から溺愛されたと言われています。

五龍局は安芸国の宍戸隆家と政略結婚し、宍戸隆家は毛利元就に忠実に仕え、毛利家の発展に貢献しました

五龍局の次女である春木大方は、弟の吉川元春の長男である吉川元長の正室となります。さらに、三女の南の大方は五龍局の甥である毛利輝元の正室となりました。

息子たちと同様、五龍局も毛利一族の結束を固める上で重要な役割を果たし、活躍したといえます。

毛利元就の側室は何人?|妙玖の死後

妙玖の生前、毛利元就は側室をもちませんでしたが、妙玖の死後に側室を迎えました。

それでは、毛利元就の側室は何人いたのでしょうか。以下、ご紹介します。

小早川一族の乃美大方

小早川一族の乃美大方は、毛利元就の正室である妙玖の死後、継室として迎えられました。同時に、側室とも言われています。

父は安芸国茶臼山城主であり、小早川氏の重臣である乃美隆興です。毛利元就が血族を継室に迎えたことからわかるとおり、かなり早い時期から毛利氏との関係が深かったことがうかがえます。

毛利元就と乃美大方の間には、3人の息子が生まれました。

七男の元政は安芸国の天野家に養子に出されましたが、毛利氏の一門として多くの戦いに出陣し、毛利家の重要な存在として功績を挙げます。

九男の元包は、異母兄弟である小早川隆景の養子となり、小早川の名を汚すことなく、毛利一族として活躍しました。

乃美大方は、関ヶ原の戦いの後に移住した長門国で疫病にかかり、その地で亡くなります。

小幡氏一族の中の丸

安芸国の小幡氏一族の中の丸は、毛利元就の継室であり側室です。毛利元就の居城である吉田郡山城の中の丸に住んだことから「中の丸」と呼ばれていました。

毛利元就との間に子供はいませんでしたが、妙玖が亡くなった後の毛利家の家庭内をまとめる役割を果たしたとされています。

また、毛利元就と他の側室との子供や家臣たちに対しても、細やかな気配りができた女性でした。

特に毛利元就の孫である毛利輝元を、実の子供のように愛情を持って育て、教育に尽力しました。さらに、毛利元就に毛利輝元の元服式を提案するなど、中の丸の配慮が記録として残っています。

そんな中の丸に、毛利元就から送った書状が6通残っており、毛利元就が中の丸を頼りにしていたことがうかがえます

三吉家系の三吉氏

三吉氏は、国比叡尾山城を本拠とする三吉家の当主である三好隆亮の妹で、毛利元就の側室となりました。

三吉隆亮は父である三好致高とともに、毛利元就と毛利隆元に会い、忠勤を誓う起請文を提出し、毛利家の家臣となります

毛利元就との間には、息子3人と娘1人の合わせて4人の子供が生まれました。三吉氏について、これ以上の詳細は不明ですが、息子たちの記録は残っています。

五男の元秋は周防国の椙杜隆康に、六男の元倶は石見国の出羽元祐の養子となります。八男の末次は、父である毛利元就から出雲国の末次庄2400貫の所領と末次城を与えられ、名字を毛利から「末次」としました。

備前国の矢田氏

備後国の矢田氏は矢田元通の娘で、おそらく毛利元就の側室だったと考えられています。

矢田氏の息子である二宮就辰の父親は、毛利元就の家臣である二宮春久とされていますが、実は毛利元就の子供であるという説もあります

二宮就辰は誕生後、二宮春久の子供として育てられます。しかし、二宮就辰が誕生したとき、毛利元就は自分の子供であることを示すため、具足や産着などを与えて虎法丸と名付けました。

なお、二宮就辰は毛利家の家中においては、あくまで二宮春久の子供と認知されており、毛利元就の子供であるということは知られていませんでした。

毛利元就の死後、側室の中の丸が、二宮就辰の出自を毛利輝元に伝えたことにより発覚します。以後、毛利輝元の側近として仕えるようになったということです。

毛利元就の妙玖への情愛とは?|妙玖への想い

妙玖が亡くなるまで、毛利元就は側室をもたず、妙玖だけを深く愛していました。家督を隠居した理由は、妙玖の死に深いショックを受けたからだとも言われています。

毛利元就の妙玖への情愛は、どのようなものだったのでしょうか。以下、妙玖への想いをご紹介します。

三子教訓状に記した妙玖への想い

毛利元就が3人の息子たち宛てに書いた文書に「三子教訓状」があります。この三子教訓状に由来する逸話だと言われているのが「三本の矢」のエピソードです。

三子教訓状は、一族の協力を説いた倫理的な意味だけでなく、戦国大名として中国地方を制覇した毛利元就独自の政治体制である「毛利両川体制」を宣言するものです。

単なる教訓ではなく「兄弟が結束して毛利家を維持する必要性を説き、毛利元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書」となっています。

この三子教訓状に記した妙玖への想いに「亡くなった母親である妙玖に対するみんなの追悼や供養は、これ以上のものはないだろう」という言葉があります

息子たちに宛てた文書にも、毛利元就にとって妙玖の存在は大きく、兄弟の団結の要であったと言えるでしょう。

息子の手紙に記した妙玖への想い

毛利元就は息子の隆元に宛てた手紙に、妙玖への想いを下記のように記しています。

  • この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならない
  • 妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ
  • 家庭内では母親の言うことに従い、外では父親の言うことに従うという金言があるが、そのとおりだ
  • 妙玖のことだけを心から思っている

 

毛利元就は、亡き妻のことを息子に語りかけようとし、妙玖の名前は毛利家の心の結び目となっていたことが知られています。

正室と側室の子供たちへの言葉が表す妙玖への想い

毛利元就の正室である妙玖の息子の毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人は毛利元就から大切にされていました。一方、側室の子供たちについては、三子教訓状で「虫けらのような分別のない子供たちがいる」と表現されています

しかし、その意味は3歳~7歳の息子たちのことであり、将来に知力と感情が人並みに成長した者がいれば、彼らを憐れんでどこでも領地を与えてやってほしいという希望が述べられています。一方、頭が悪く無力であれば、どんな対応をしても構わないとも述べられているのです。

また、もし3人の息子と次女の五龍局の仲が少しでも悪くなったならば、それは毛利元就にとって極めて不幸なことであるとも記されています

このように、毛利元就の正室と側室の子供たちに対する異なる言葉から、妙玖への特別な愛情が感じられます

妙玖が亡くなるまで側室をもたず、毛利元就の唯一の妻として、深く愛された妙玖。死後も愛され続け、幸せな生涯だったことがうかがえます。