毛利元就は、大内氏、尼子氏と仕えながら、多くの戦いを経験しました。

元就の時代は、まだ鉄砲の普及が無かった時代です。また、複雑な地形を利用した山城が多く、どれも攻略が難しいものばかりでした。

元就の戦いでは、「調略」を用いて多くの戦いに勝利しています。
人は、元就のことを「謀神」と呼ぶくらい、謀略に長けた武将でした。

また、籠城戦でも、10倍の兵の尼子氏の大軍を打ち負かした戦いもありました。

今回は、元就の戦いの歴史を振り返り、元就の戦い方の特徴や時代背景に触れてみたいと思います。

毛利元就|戦い一覧表

年代 合戦名 対戦相手 勝敗
1517 有田中井手の戦い 武田元繁
1521 鏡山城の戦い 蔵田房信
1524 船山城の戦い 相合元綱
1524 第一次佐東銀山城の戦い 大内義隆
1540 吉田郡山城の戦い 尼子詮久
1542 第一次月山富田城の戦い 尼子晴久
1555 厳島の戦い 陶晴賢
1559 降露坂の戦い 尼子晴久
1565 第二次月山富田城の戦い 尼子義久

元就の戦い方の特徴

巧みな謀略

毛利元就と言えば、「謀略」と言われる程、巧みな謀略・調略で多くの戦いを有利にしてきました。
謀略に関して、手本となったと言われるのが、「尼子経久」といわれています。
尼子経久は、「謀聖」と言われ、大変謀略が得意と言われた武将です。

また、孫子の兵法には、「謀攻編」という調略に関する記述があります。
調略を用いると、「戦わずして勝つ」事も容易であり、兵を動かさないメリットは国力の温存にあります。
また無理な戦いを避ける事が出来るため、戦死のリスクも低くなります。

城攻めと兵糧攻め

この時期の城は山城が主であり、攻め込むには困難を極めます。
中国地方の山城は堅牢な城が多く、実際元就も攻略には苦労していました。

そこで、元就はどのように城攻めを行ったかというと、やはり調略でした。
城の内部で疑心暗鬼によって内部崩壊を起こさせたり、敵方の家臣に謀反を起こさせたりしています。

また、兵糧攻めも利用して、降伏を促す戦略を取っています。
豊臣秀吉も、中国地方では城攻めを多く行っており、兵糧攻めや水攻めを多用していました。

小早川家と水軍

元就の戦いで、他の武将ではまず見られないのが、水軍という存在です。
元々小早川家は、小早川水軍を持っていました。小早川水軍は、南北朝時代から主に瀬戸内海で活躍していました。

一方村上水軍は、能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家の名称です。
その内の因島村上家が毛利家に臣従していました。

小早川家に元就の息子が養子として入り、当主を継ぎましたので、元就の軍に水軍が強化されました。
水軍の活躍が目立ったのは、「厳島の戦い」でした。

村上水軍の内、臣従していなかった来島村上水軍や能島村上水軍も毛利の味方となり、陶晴賢に逆転勝利をもたらしました。

毛利元就|人生を決めた主な合戦

初陣|有田城合戦

毛利元就の初陣は、20歳の時です。

1517年、武田元繁が、安芸国支配を取り戻そうと、尼子氏の協力を得て、有田城を攻めました。
さらに武田軍は元就領地に放火をして元就を挑発します。

元就は、150騎を向かわせ、これを蹴散らしました。

そして、反撃の勝機を見た元就は、毛利本家700騎と吉川氏の援軍300騎で、武田軍を迎え撃つことになります

武田元繁と激突|有田中井手の戦い

有田城合戦の後、有田中井手の戦いで有田城を攻める武田元繁に対し、吉川元経や高橋弘厚と共に有田城救援に向かいます。
その結果、大勝利に終わりました。

この時の元就はまだ謀略を行わず、味方への叱咤激励で乗り切ります
武田軍はこの時5000の兵で、毛利軍は1000騎です。
毛利勢が少数と見て侮った結果、熊谷元直自身が前線に出てしまうなどのミスが重なり、矢で討ち取られています。

元直討ち取られるという知らせを聞いた武田元繁は、自ら前線に出て渡河しているときに、矢による一斉射撃を受け、討死しました。

この戦いは、「西の桶狭間」と称され、元就の名声が高まるきっかけとなりました。

堅牢な城攻略のお手本のような戦い|鏡山城の戦い

元就は、尼子勢として鏡山の戦いに従軍していました。
鏡山城は大内義興の勢力下にある城で、蔵田房信とその叔父の蔵田直信が鏡山城に入り、守っていたのです。

1523年、毛利・吉川連合軍は4000の兵で鏡山城を攻めます。堅牢な鏡山城は、近づくのも困難で、戦況は膠着状態でした。

そこで、元就は蔵田直信を調略して寝返らせました。元就は直信に「蔵田家の家督を継がせてやる」と持ち掛けたのです。
調略の為に蔵田家の内情をつぶさに調べ上げます。

それからは、鏡山城には手引きされた毛利兵が攻め込み、落城しました。この戦いは、堅牢な城を攻略するお手本のような戦い方です。

この戦いにおいて、安芸地方は尼子勢力下に置かれました。

異母弟との戦い|船山城の戦い

毛利元就が家督を継いだ時、尼子氏の介入がありました。重臣の機転によりこれを阻止することが出来ました。
しかし、尼子氏は諦めませんでした。

尼子重臣・亀井秀綱は元就家督継承に反対する家臣を唆し、異母弟の相合元綱を立てて反乱を起こします。
反乱首謀者の坂氏・渡辺氏の元就暗殺計画は、元就の放った忍びによって、情報が洩れています

首謀者である坂氏・渡辺氏は暗殺計画実施日の前夜に、元就によって殺害されました。
残った相合元綱と、船山城で戦います。この戦いが「船山城の戦い」です。

元就軍500に対し相合50と圧倒的に元就が有利でしたが、源義経の再来と言われる相合元綱だけあって元就軍はてこずります。
しかし、最後には数に押されて、相合元綱は討ち取られました。

この事件が大きなきっかけとなり、元就は尼子氏に不信感を抱き反対勢力の大内氏の傘下に入る事となります。

毛利3千対尼子3万の籠城戦|吉田郡山の戦い

尼子氏から離れた元就は、1540年に元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦いました。

一時は、尼子詮久と義兄弟の契りを結んでいた元就でしたが、度重なる毛利家への介入が原因で、この頃は大内氏の傘下に入っていました。
尼子詮久は兵3万を率い吉田郡山を攻めます。対する元就は吉田郡山城での籠城戦を選択、精鋭部隊2400を含む3千の兵で迎え撃ちます

尼子軍は、民家に火を付け元就を挑発しますが、防御に徹します。
鎗分・太田口の戦いでは、元就の陽動作戦に引っ掛かり尼子軍数十名が討死しました。

池の内の戦いでは、尼子軍は援軍の小早川勢を攻撃し、返り討ちに合い兵を減らしていきます。

青山土取場の戦いでは、尼子誠久は1万の兵を吉田郡山城に火をかけながら進軍しましたが、元就は軍を3分割し、元就が率いる軍は尼子本隊を引き付け、残り2軍は伏兵として潜ませておきました。
伏兵の活躍により尼子軍は大混乱となり敗走しました。

宮崎長尾の戦いでは、大内軍の救援兵1万が到着したこともあり、大内軍は尼子本隊を抑える事となります。
元就は、全軍を攻撃に投じたため、農民や女子供を城兵に見せかけ守りが健在出るように見せています。

この戦いでは、尼子久幸が討ち取られました。

尼子は多くの犠牲者を出したことが原因で撤退し、安芸地方の尼子の勢力は弱まりました

元就最大のピンチ|第一次月山富田城の戦い

吉田郡山の戦いで尼子氏に対し、不満や反感が湧き出し、大内氏に着く者が続出します。
安芸を中心に国人が尼子退治の連判状を大内義隆に出したことで、出雲出兵を決意しました。

大内義隆を総大将に、月山富田城を攻めます。
城攻めが難航し長引く中、大内氏に寝返っていた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経などの国人衆が再び尼子氏について寝返りました

これにより、大内氏は劣勢となり、大内義隆は撤退を決めます。この撤退戦で、義隆は毛利元就とその息子の隆元を殿軍としました。

この時元就は死を覚悟するまで追い詰められます。しかし、家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て、敵に突進していき、元就の身代わりとして討死しました。
この犠牲によって、元就は命からがら逃げかえりますが、この教訓が第二次月山富田上の戦いに生かされます。

水軍大活躍|厳島の戦い

1551年に大寧寺の変で、大内義隆は陶晴賢の謀反によって追い詰められ、自害しました。
当初、陶晴賢と元就の関係は良好なものでした。
しかし、安芸・備後での尼子氏撤退後の戦後処理で元就と陶晴賢に不和が生じ、結果として元就と大内・陶は断行することとなりました。

元就は、陶氏との対戦の為水軍の強化を図ります。

この時村上水軍三家の中で、因島村上氏は毛利家に臣従していました。
能島村上家、来島村上家は、陶氏と毛利家両方から勧誘を受けていますが、最終的に両家も毛利氏に味方しました

元就は、陶氏に調略を仕掛けます。陶氏重臣の江良房栄に対し内応の打診をおこないました。江良房栄が見返りに上乗せを要求した事を、わざと陶氏に知らせ討ち取らせています。
また、他にも元就に内通するものを調略していきます。

陶晴賢は兵2万で厳島を攻めます。この時点では陶氏の水軍は毛利水軍の数を上回っていました。
決戦直前に、村上水軍が300艘ほどが援軍として駆けつけました

決戦当日、毛利軍は陶軍の背後から奇襲をかけ、村上水軍は陶水軍の船を攻撃して焼き払いました。
毛利軍の挟み撃ちに合った陶軍は、大混乱となります。

陶晴賢は自害し、厳島の戦いは元就の大勝利に終わりました。
その後、陶晴賢の傀儡の主君であった大内義長は勝山城で自害しました。
これにより毛利氏は大内氏旧領を吸収し勢力が拡大しました。

名将尼子晴久との戦い|降露坂の戦い

降露坂は、元就と尼子晴久の戦いで、石見銀山の支配をめぐる戦いです。

尼子晴久は、「忍原崩れ」で毛利に勝利し、石見銀山を奪い取りました。
その後に起こった戦いが「降露坂の戦い」です。

元就は、山吹城を攻めましたが抵抗が激しく、大友氏が毛利領を攻めてきたため、元就は撤退を決めます。

この撤退時に山吹城兵や周辺の城兵、尼子晴久の隊も合流して一斉攻撃を受け、元就軍は混乱状態で敗走、元就自身も命からがら逃げかえりました。

この戦いが尼子晴久との最後の戦いとなり、晴久はその後まもなく死去しました。

元就は、晴久には忍原崩れ・降露坂の戦いで二度負けております。
この事から、晴久は元就よりも優れた武将だったのかもしれません

尼子氏滅亡|第二次月山富田城の戦い

1561年、尼子晴久が死去します。

尼子氏が混乱するなか、降露坂の戦いで敗走させられた本城常光を毛利氏に寝返らせました
尼子氏当主となった尼子義久は月山富田城に籠城します。

元就は攻略中に、子の隆元を亡くします。そして1565年に孫の毛利輝元とともに、月山富田城を攻めています。
第一月山富田城の戦いの反省から、無理な城攻めを行わず兵糧攻めに持ち込み、城内の内部崩壊を起こさせるように謀略を仕掛けました。
そして、今度は粥を炊いて城兵の投降を誘います
その後、尼子義久は、籠城を保つことが出来なくなり、降伏し戦国大名の尼子氏は滅亡しました。

その後、大内氏・尼子氏の残党との戦いがあるものの、中国地方を統一し、毛利輝元に引き継がれました