「織田信長って名前は知ってるけど何をした人?」

「織田信長は家臣の明智光秀に本能寺の変で焼かれたんだよね?」

「どんな家臣がいたのか知りたい!」

有名な「織田信長」ですが、名前は知っていても深くは知らない人も多いのではないでしょうか?

この記事では、「織田信長」の生涯を知るとともに、彼の功績を支えた家臣たちについても深掘りしていきたいと思います。

最後まで読んでいただいたあなたは、人よりも少し織田信長について深く知ることができます。
「歴史を知ること」すなわち、「現代で同じことを繰り返さない」という教訓につながります。

全ては歴史から学ぶ

さっそく織田信長とその家臣たちについてみていきたいと思います。

優秀な家臣を集める織田信長

「最強」と言われた、織田信長の優秀な家臣たちですが、彼は最初から多くの家臣に恵まれていたわけではないのです。信長は父亡き後、実弟・信勝と家督を争うことになりましが、その時は弟・信勝に味方する家臣が多かったのです。

しかし、信長が終わり統一に向けて、その類稀なる力を見せ始めると、当初敵対していた柴田勝家などは力を認め信長の元に優秀な家臣たちが集まってきました。

そして、尾張統一を果たす頃には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らも加わり、「最強」と言われた家臣たちが集まってきたのです。

織田信長を支えた主要な家臣

織田信長は、徹底した実力主義で家臣たちを評価していました。その時代では珍しいことに、身分に拘らず功績を残したものを高く評価し手厚い報酬を与えたが、一方で失策を犯したものには厳しい罰を与えていた。このような徹底した実力主義の組織だったからこそ、農民出身の豊臣秀吉が生き残ることができたりしたわけであります。

ここで織田信長を支えた最強の家臣たちを紹介していきましょう。

  • 明智光秀
  • 森蘭丸
  • 羽柴秀吉
  • 佐久間信盛
  • 森可成
  • 丹波長秀
  • 前田利家

では、ひとりひとりに焦点を当てて見ていきましょう。

明智光秀|忠実な家臣から本能寺の変へ

明智光秀の出自ははっきりしていません。多くの説があります。

文献として初めて登場するのは、光秀が足利義昭に「織田信長は頼れる男だ」と推奨していることが記されています。これは信長の正室・濃姫が光秀のいとこにあたることがひとつの理由にあります。

信長に仕えた光秀は、木下秀吉らと共に京都に入り政務を担当しました。

「金ヶ崎の戦い」では武勲を立て、信長の危機を救い、織田軍の中で確固たる地位を築いていきます。

「丹波戦略」として、信長はかつて誰も統一できなかった土地を光秀に任せ、見事に4年かけて丹波統一を完遂しました。

そんな地位が上がっていきますが、のちにかの有名な「本能寺」へと続いていきます。

森蘭丸|信長の側近としての役割

信長の側近として有名な森蘭丸。

生まれは若い頃の信長を支え続けた森可成の元に生を受けます。

13歳で信長に小姓として仕え始めます。

優秀で抜け目のないイメージの蘭丸ですが、対立関係にあった上杉謙信らの領地にスパイとして潜入を命じられた際、上杉側にバレて自害しようとしました。ですが上杉謙信がそれを止め、蘭丸は一命を取り留めます。

ここから蘭丸には敵味方関係なく人に好かれる人間であったということが垣間見えます。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)|下剋上の象徴

天下の大出世を果たしたことで知られる羽柴秀吉。

はじめは奉公人として信長に仕え始めました。その後、足軽組頭に上り詰め、ねねと結婚。そのことをきっかけに一気に天下の道が広がります。

秀吉は多くの合戦で武功を上げ、特に合戦中一夜で築城したと言われる「墨俣一夜城」、相手の裏をかき夜襲を仕掛けた「観音寺城の戦い」など織田軍の中で着実に功績を上げていきます。

そして、「丹羽長秀」、「柴田勝家」のような武将になれることを願い「羽柴秀吉」と名乗り始めます。

そしてその名を轟かせるが如く、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していき、中国地方を制圧していく最中、「本能寺の変」が起こっていきます。

佐久間信盛 |織田軍の重鎮としての貢献

佐久間家とは元々「桓武天皇」を祖とする由緒正しき血筋で、信盛も同様、織田家の家中の中でも名家に生まれました。

信長の父・信秀に仕え、そのまま若き信長の重臣となります。織田の家督争いでも弟・信行につくものが多い中、信盛は一貫して信長の味方を貫き通しました。

その後、信長の元で合戦の指揮を執るなど活躍していきます。

また合戦以外でも、近江国などの広大な地域を制圧した後は信盛が行政官として任ぜられ、織田軍の中でも重鎮として活躍していきます。

しかし、30年にも渡り信長に仕えましたが、最後は19ヶ条にも及ぶ折檻状を突きつけられ、高野山に追放され、最期を迎えました。

森可成|軍事戦略における重要人物

先に紹介した、森蘭丸の方を知ってる人も多いが、実は蘭丸の功績は父・可成が築き上げた信頼の賜物と言っても過言ではありません。

可成は若き信長の時代から、近くで支え、あらゆる合戦で愛用した「十文字槍」で暴れ回り、織田軍の中心をになっていました。

桶狭間の戦いの後、「兼山城主」となり、それを機に織田軍の看板武将として広く知られ始めます。

畿内平定戦では、柴田勝家らと共にわずか3週間で畿内を制しました。

その後、浅井長政戦で前半は勝利を収めたものの、敵の大軍の挟み撃ちにあい48歳で戦死しましたが、死後、蘭丸をはじめとする子どもたちが信長を支えていきます。

丹羽長秀|領土拡大に貢献した名将

信長と歳の近い長秀は信長に「友であり、兄弟である」と言わせるほど親密な関係でありました。長秀の「長」は信長から授かり、その親密ぶりを証明しています。

戦で功績を上げていき、美濃へ攻め込む際は「総大将」として織田軍を率いました。

瞬く間に美濃を平定し、天下統一に向け進んでいき、浅井長政と対立した「佐和山城」では見事勝利を収め、織田家の家臣初の国持大名となりました。

前田利家|北陸地方での領土拡張を支えた

青年時代から信長に仕えた前田利家。

「うつけ仲間」として時を共にしていました。清洲城主・織田信友との「萱津の戦い」で素晴らしい功績を上げ、信長からの寵愛を受けます。ですが、一転してある時間が起きます。

信長に仕える「拾阿弥」という家臣をとあるいざこざから信長の目の前で斬殺。信長の怒りを買い浪人になってしまいます。

しかし、利家は織田軍に帰りたい一心で、あらゆる合戦に無断で参加し武功を上げ、ようやく戻ることができました。

その後は信長に前田家の家督を継ぐよう指示され、前田家当主となりました。

槍使いとして、北陸地方の領地拡大へ向け大きな功績を残していくことになります。

各方面に広がる織田信長の家臣団

こうして、次々と勢力を拡大し続けた織田信長。

領土が拡大していくと共に、天才的な戦のセンスを持った信長1人でも、戦局の詳細を把握するのが困難になってきました。

そこで、各領土に軍団長と呼ばれる4人の指揮官を任命します。

大きな権利を持つ4人の軍団長

柴田勝家明智光秀羽柴秀吉滝川一益と、この4人の武将に任命されます。

そして、この4人は全く別の出自でそれぞれ武功を上げのし上がってきた4人。

信長らしい人選でした。

4人は各地方を攻め落とすことを全面的に任されていました。

柴田勝家は北陸地方を任され、「府中三人衆」(前田利家、佐々成政、不破光治)らが柴田の与力となる。

明智光秀は畿内地方を、羽柴秀吉は中国地方、そして関東地方を滝川一益が担いました。

信長が築き上げてきた天下統一への道。その志半ば、拡大した勢力から少しずつ、不穏な音が聞こえ始めます。

家臣たちの裏切りとその動機

冷徹でアメとムチを使い分け、組織を支配してきた織田信長。広がり続けるその勢力図の中では、確実に謀反の火種が育っていました。信長を慕い続ける者がいる一方、裏切ってきたものも多かったのは事実として残っています。

そして、1番有名な明智光秀の裏切り。

「本能寺の変」をご紹介します。

本能寺の変 – 明智光秀の裏切り

歴史上一番の裏切りと言っても過言ではない「本能寺の変」。いかようにしてその顛末に至ったのか。

全国へ、領地を拡大する織田軍。長年の宿敵、甲斐の武田信玄を倒しました。

その頃、中国地方では羽柴秀吉が毛利元就の反撃に苦戦を強いられ、信長に応援を出すよう進言します。

信長は早急に、明智光秀に救援を命じ、信長も準備していざ京都へ向かう。

そして、本能寺で滞在中の信長を6月2日未明に襲撃した明智光秀。

信長の兵は150人ほど

対して光秀の軍勢は13,000人

信長の兵は皆、全国へ出払って各々天下統一へと尽力中であった最中の大事件であった。

裏切りの背後にある理由

光秀のこの史上最大の謀反の裏にはどんな理由があったのでしょうか?
以下のような3つの説が語られています。

・信長にされた仕打ちを恨んでいた説

→光秀が信長に怨恨を持っていた説はいくつか存在します。

有力なひとつは家康の接待で用意した魚を腐らせてしまい、信長は光秀に罰を与えたことが有力な1番の理由として残っています。

・天下を狙った説

→下剋上を果たしたかったのでしょうか?世はいつでも天地をひっくり返し、誰もが天下統一を憧れる時代。信長の元で天下統一まであと一歩のところ、光秀も天下を自らのものにしたかったのだろうという可能性もまだまだ捨てきれません。

・黒幕がいる説

→黒幕説は色々な人物が挙げられるがどれも確証を得ているものはありません。足利義昭や長宗我部元親、はたまた天皇や羽柴秀吉、ひいてはその後、天下統一を果たす徳川家康の名前も挙げられています。