年表|織田信長に関わる出来事
1534年 | 織田信秀の長男として尾張国・勝幡城で出生。 |
1546年 | 成人(元服)したのをきっかけに吉法師という名前から織田三郎信長となる |
1552年 | 父である織田信秀の死により織田家の家督を相続する |
1554年 | 清洲城に拠点を移動 |
1558年 | 弟である織田信行を暗殺する |
1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元に勝利 |
1568年 | 足利義昭率いて上洛 |
1571年 | 浅井・朝倉軍のいる比叡山延暦寺を攻撃 |
1573年 | 足利義昭を追放し室町幕府を滅亡 |
1575年 | 長篠の戦いで武田勝頼軍に勝利 |
1576年 | 安土に安土城を築城。城下町で自由経済政策の楽市・楽座をスタート |
1582年 | 明智光秀の謀反により本能寺の変にて自害 |
歴史|織田信長の生涯
暴れん坊や気難しい人物といったイメージが先走り、戦国武将のなかでも攻撃的な人物。
といった織田信長に対して思っている方も多いのですが、戦略家や時代の風雲児だったことでも実は知られています。
織田信長がどんな人物であったのか、ポイントとなる部分から詳しくご紹介します。
桶狭間の戦いで今川義元を破る
1560年6月12日、現在の愛知県名古屋市緑区と豊明町の間にある「桶狭間」と呼ばれる地区でおきた合戦です。
織田信長の相手は三河国(愛知県東部)を治める今川義元で、天下統一に一番近い武将と呼ばれていた人物と戦うことになります。
今川義元は織田信長のいる尾張国(愛知県西部)に侵略し、2万5,000人の兵士を率いて侵略しました。
それに対し、織田信長の兵士は2,000人と少なかったのですが、その日は雨という天候。
桶狭間と呼ばれ、周りが山林などで囲まれている立地を利用し、少ない兵士で囲い込み勝利を収めたのです。
少ない兵士でも頭脳プレーで勝利した織田信長の戦略が見える戦いといえます。
足利義昭を連れ上洛!天下統一へ動き出す
この時代の中心地は京都であり、京都を制すれば天下統一ともいえる時代でした。
織田信長は、足利義昭を征夷大将軍にし、自分はその味方として、動くことができればメリットが大きいと考えます。
また、足利義昭も朝廷からの命令で京都へ向かわなければならないのですが、他国を通るリスクに備える必要があったのです。
この2人のメリットが一致したこともあり、織田信長は足利義昭を率いて、1568年に上洛(京都へ向かうこと)することになります。
結果的に足利義昭の陣営は京都周辺を制圧し、足利義昭を15代目の征夷大将軍に就かすことに成功しました。
室町幕府を滅ぼし織田政権を確立
足利義昭が征夷大将軍に就いて5年が経過した1573年に、織田信長と足利義昭は意見が対立し、織田信長は足利義昭を京都から追放してしまいます。
そのようになってしまったのは、足利義昭との関係性が悪化してしまったからなのです。
織田信長は、足利足利義昭を追放することを考えるのですが、そこで足利義昭は待ったをかけます。
足利義昭は征夷大将軍という立場を利用し、全国から織田信長を倒すべく「信長への包囲網」を敷くのです。
しかし、それを破られた足利義昭は織田信長に敗北し、230年間も続いた室町幕府を滅ぼし、時代を新たに織田政権がスタートします。
長篠の戦いで鉄砲隊を確立
織田信長が支配を始め、全国の武将たちが天下統一に向けて、織田信長軍を攻め入ってきます。
そこで起きたのが1575年に起きた長篠の戦いです。
現在の愛知県新城市に、最強と名高い「武田騎馬軍」を率いて武田勝頼が攻め入ってきました。
そこで織田信長が戦いに使用したのが、南蛮からの渡来品である「火縄銃」です。
南蛮人と呼ばれる、ポルトガル人の船が種子島へ漂着したのをきっかけに、火縄銃が伝来され、これを織田信長が戦に利用しました。
火縄銃は発砲までに準備に時間がかかったのですが、三弾打ちと呼ばれる交代制を組むことで効率よく火縄銃を使い武田勝頼軍に勝利したのです。
本能寺の変で織田信長は生涯を終える
天下統一に向けて信長は明智光秀に1万3,000人の兵士を引き連れて、中国地方へと進出するように命令しました。
その当時、織田信長は京都の本能寺に、2,000人ほどの兵士を警備隊に置き、宿泊をしていたときに事件は起こったのです。
1582年に明智光秀は織田信長を裏切り、織田信長のいる本能寺に抱えていた兵士を使い攻め入りました。
織田信長は裏切られるなど思っておらず、警備の兵士が少ないこともあり、本能寺に火を放たれて負けを自覚します。
そこで織田信長は焼け崩れる本能寺にて自害し、生涯を終えたのでした。
相関関係|織田信長と関わりが深い人物
戦国武将の三英傑のなかで、戦国時代の幕開けの先頭を走った織田信長だけあり、戦国時代に関わる人物と多くの関わりがあるのです。
以下は、織田信長の生涯を語る上で、欠かせない人物をご紹介します。
織田信長の身内
織田信秀:織田信長の父親
織田信行:織田信長の弟。織田信長に敗北
濃姫:織田信長の妻
織田信長の味方
足利義昭:室町幕府最後の15代将軍。信長と上洛
徳川家康:三河国の領主で織田信長と同盟を組む
明智光秀:織田信長に仕えるが謀反を起こし織田信長を本能寺で討つ
織田信長と敵対した人物
今川義元:今川氏11代目当主で駿河国の守護大名。桶狭間の戦いで織田信長に敗北
朝倉義景:越前国の最後の当主。姉川の戦いで織田信長に敗北
浅井長政:浅井氏の3代目当主。姉川の戦いで織田信長に敗北
武田信玄:甲斐国の守護大名で三方ヶ原の戦いで織田信長に勝利
武田勝頼:武田氏17代目の当主。長篠の戦いで織田信長に敗北
性格|織田信長の人物像が見えるエピソード
織田信長は慎重派で、優しい人物だった!
と言われると、本当にそうなのかと疑ってしまうのが織田信長の世間のイメージなのではないでしょうか。
歴史上の人物も、教科書には載っていない意外な一面をみると、面白いエピソードが次々とでてきます。
ここからは織田信長の人物像が分かるエピソードについてご紹介していきます。
織田信長は慎重な性格だった
大胆で行動派であり、傍若無人っぷりなエピソードが多いことから、慎重な人物というと違和感を感じる人もいるのではないでしょうか。
実は織田信長は破天荒な風に見えて、戦の戦略については慎重な面が多く見受けられます。
桶狭間の戦いでは、今川義元が休憩を取る場所とタイミングを見計らい、少人数での奇襲に成功。
長篠の戦いでは、火縄銃のデメリットをカバーするべく隊を組むなど、戦略的な面が伺えます。
気性の荒いイメージとは違い、戦に勝つための作戦を冷静に考えていたことがよく分かるのではないでしょうか。
戦国武将一の気遣いな人物
暴君的な織田信長のイメージと違い、実は気遣いのできる人物だったことも有名です。
豊臣秀吉の妻に励ましの手紙を送っていたり、生涯を持つ男性に木綿の生地を20反送り、金銭に変えるようにプレゼントしたこともあります。
この気遣いの集大成が「楽市・楽座」で、この制作により、商品が自由に商売を行えるようになりました。
街の声を聞いて、政策にする一面もある信長は、義理にも厚い人物だったのです。
「たわけ」ではなく「うつけ」だった理由とは
濃尾地方では「うつけ」は愚か者という意味の言葉です。
父親の織田信秀の葬儀中に、信秀の位牌に焼香に使う灰を巻いた。
というエピソードをご存知の方も多いのではないでしょうか。
地方の呼び方ということもありますが、現代では「たわけ者」という言葉がぴったりな気もします。
しかし「たわけ」は「うつけ」よりも強いニュアンスを示す表現と捉えられていたのです。
また「たわけ」はみだらな求婚といった意味もあり、当時一般的には「うつけ」といったワードが最適だったことで、「うつけ者」と呼ばれていました。
家系図|織田信長の一族
家紋|織田信長が相手や状況で使い分けた7種類
織田信長は家紋を7種類に分けて利用していましたが、一番有名なのは「織田木瓜紋」です。
この木瓜紋(もっこうもん)は、日本で使用される家紋のなかで使用されていることが多いため、「一度は見たことがある」という方も多いのではないでしょうか。
諸説はあるものの木瓜はキュウリのことを表しており、キュウリの切った断面を参考にした。
という説や、木瓜(ぼけ)の花をイメージしているといった説もあります。
名言|後世に残る織田信長の言葉
戦国武将を代表する織田信長は、後世に残る名言を多く残しているのです。
ここからは、数ある織田信長の名言を抜粋し、一覧でご紹介します。
- 必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ
- およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ
- 臆病者の目には、敵は常に大軍に見える
- 器用というのは他人の思惑の逆をする者だ
- 恃むところにある者は、恃むもののために滅びる
- 人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん
- 絶対は、絶対にない
拠点|織田信長ゆかりの城
勝幡城 | 愛知県愛西市 | 織田信定の築いた城で、織田信長の生誕地 |
那古野城 | 愛知県名古屋市中区 | 父親の織田信秀の城で、幼くして織田信長が受け継ぐ |
古渡城 | 愛知県名古屋市中区 | 織田信長が元服した城で、元々は敵国に備えた城 |
清洲城 | 愛知県清須市 | 織田信長が桶狭間の戦いで拠点となった城 |
小牧山城 | 愛知県小牧市 | 織田信長が初めて築いた城 |
岐阜城 | 岐阜県岐阜市 | 斎藤道三を攻め入り手に入れた城で難攻不落とも呼ばれていた |
安土城 | 滋賀県近江八幡市 | 織田信長が天下統一の拠点とした城で、天守閣が初めて備わった城 |