織田信長は12歳で元服すると、13歳には初陣を果たしており、15歳になると、美濃国の斎藤道三の娘・濃姫と結婚しています。

その後、織田信長の父・信秀が亡くなると、尾張国にある織田家の家督を継ぐことになります。ここから、織田信長は尾張国の統一、支配下地域の拡大に奔走していくのです。

最終的には、天下統一を果たすあと一歩までたどり着いた織田信長ですが、いかにして支配下地域を増やしていったのか、そのプロセスが気になる方もいるのではないでしょうか。

本記事では、織田信長がいかに尾張国から全国へ支配下地域を拡大していったのかについて解説していきます。

織田信長の出身地: 尾張国の意義

1534年3月、織田信長は尾張国の戦国大名だった織田信秀の嫡男として、この世に生を受けました。

ここからは織田信長の出身地である尾張国との関係性について解説していきます。

尾張国と織田信長の関係

尾張国は8つの郡で構成される国で、織田信長が家督を受け継いだ当時はまだ尾張国すべてを統一している状況にはありませんでした。

織田信長は1552年の「赤塚の戦い」を皮切りに、尾張国内で戦を展開し続け、反対派を駆逐していきます。

その間、斎藤道三の死や弟・信勝の暗殺、桶狭間の戦いなどを経て、14年かけて尾張国を統一しました。

尾張国の統一に14年こそかかりましたが、足元を盤石に固めたことで支配下地域拡大がしやすくなったのです。

尾張国から見る織田信長の政策

尾張国は港町があり、京都と東国を結ぶ場所になっており、経済的には重要なエリアでした。織田信長はこの状況を利用し、「楽市楽座」を本格的に始めました。

また、経済的な観点から関所を廃止し、通行税の撤廃を決めます。通行税は公家などの収入源であり、織田信長への不満は高まりますが、尾張国を統一したことで誰にも文句は言わせませんでした。

他にも、敵から攻められることを考慮して道路などのインフラ整備も後回しにされた中、織田信長は率先して道路を整備し、ハード面・ソフト面から尾張を変えていったのです。

織田信長が手中に収めた主要な国々

尾張国を統一した織田信長は、ここから破竹の勢いで周辺国を支配していきます。

織田信長がどのエリアを支配していったのかについて解説します。

美濃国 – 戦略的拠点の獲得

美濃国は木曽三川と広大な穀倉地帯が広がり、石高にも恵まれた地域です。同時に、地理的な面や地形的な面においても美濃国は優れた場所と言えます。

織田信長にとっても美濃国の支配は悲願であり、斎藤氏の居城である稲葉山城を何度も攻略しようとしますが、斎藤氏の強力な家臣たちの奮闘を前に敗れ続けました。

しかし、斎藤氏の元から家臣たちが離反し、桶狭間の戦いで有名になった織田信長に寝返る家臣が増えたことで状況は大きく変化します。

そして、1567年に稲葉山城の戦いで勝利を収めたことで、美濃国を手中に収めることに成功し、稲葉山城から岐阜城に改めてから天下統一の拠点となっていきました。

近江国 – 政治的重要性の高い地域

近江国は京都への上洛には欠かせないエリアであり、政治的重要性が極めて高い地域です。近江国には織田信長の妹・お市の方が嫁いだ浅井氏がおり、当初同盟関係にありました。

織田信長は越前の朝倉氏との戦いに向けて兵を進めた中、突如浅井氏が反旗を翻し、浅井氏と朝倉氏の兵が織田軍を取り囲む事態となります。これが金ヶ崎の戦いです。

奇跡的に難を逃れた織田信長はすぐさま浅井氏討伐に向けて動き、姉川の戦いが勃発して勝利、近江国を奪取しました。

しかし、浅井氏や朝倉氏の勢力はまだ存在していたため、浅井氏・朝倉氏を支持していた比叡山を焼き討つという強硬手段に出るなど、浅井氏らを完膚なきまでに叩き潰していきます。

京都と周辺国 – 権力の中心地

織田信長は当時の室町幕府を利用する形で天下統一を目指そうとし、尾張国を統一してからしばらくして京都への上洛を行います。

京都は幕府のおひざ元であり、長らく権力の中枢となった場所であり、その周辺国も権力の影響力がありました。

室町幕府の将軍になったばかりの足利義昭は当初織田信長と良好な関係を結びますが、織田信長自身が足利義昭の持つ権力を限定的なものにしようと奔走したことで次第に関係性は悪化します。

その後、足利義昭は織田信長に反旗を翻しますが、頼りにしていた武田信玄が亡くなるなどの想定外の事態が起こり、急拡大を見せる織田信長の勢力に抵抗できず、追放されてしまうのです。

この時から織田信長は事実上の天下人としての地位を確立していくことになります。

織田信長による地域支配の拡大

織田信長は次第に勢力を拡大すると、ある時を境に拡大の速度は一気に早まります。

織田信長が支配した国々についてまとめました。

織田信長が支配した国々

織田信長が支配した国々について、それぞれの国に関する情報を以下にまとめました。

信濃国 武田信玄の死後、結束に綻びが見られた武田家と度重なる戦闘を繰り広げ、息子・信忠と一緒に武田家滅亡に追い込む
播磨国 上洛後に織田信長の支配下に入る。その後毛利家につくことも検討されるが、黒田官兵衛らの説得により、播磨の有力者たちは織田家につくことを決める。
伊勢国 稲葉山城の戦いで勝利を収め、有力な一族だった北畠氏の本拠地だった伊勢に対して侵攻を開始。一時和睦に持ち込むが、北畠氏の有力者たちを虐殺長島一向一揆では長島門徒を一網打尽にして占領。
越前国 越前国には本願寺の門徒など多く、強力な抵抗の前に一時は苦戦する。しかし、越前内で分裂が起きたことをチャンスとし、越前に侵攻して門徒たちを一網打尽にする。
越中国 越中国の有力武将が急死したタイミングで強襲して大半を支配下に置き、謀略などを重ねていく中で平定。

織田信長の支配下での国々の変化

時に強引なことを行って各地を支配下にしていった織田信長ですが、次第に支配下の国々はさまざまな変化がみられるようになりました。

ここからはさまざまな変化について解説していきます。

経済と社会の発展

織田信長が行ってきた政策には、さまざまなものが挙げられますが、代表的なものを以下にまとめました。

  • 楽市楽座
  • 関所廃止
  • 道路の整備
  • 南蛮貿易
  • キリスト教保護

織田信長はキリスト教への関心が高く、キリシタン大名を始め、多くのキリスト教徒が誕生しました。

宣教師が鉄砲をもたらし、その鉄砲に興味を持った織田信長が天下統一に積極的に活用したことも無関係とは言えません。

織田信長は南蛮貿易において、鉄砲だけでなく、食品や薬品なども受け入れていき、日本における文化に多大な影響を与えるきっかけを作り出します。

文化と芸術への貢献

織田信長は、文化や芸術などにも関心が高く、囲碁・将棋、茶の湯なども奨励していきます。

特に茶の湯は織田信長やその重臣がたしなみ、立派な茶道具を人心掌握術の1つとして活用するなど、茶会が政治の舞台になることもありました。

織田信長は囲碁も好きだったとされ、本能寺の変が起きた前夜には「三コウ」と呼ばれる数万局に一局あるかどうかという局面が出現したのです。

のちに、三コウは不吉な兆しと称されるようになるのは、本能寺の変の前夜に起きた出来事とも関係しています。

宗教政策と国際関係の変容

織田信長は比叡山の焼き討ちを始め、仏教に対して並々ならぬ恨みを持っていたことは、天下統一までの過程を見れば明らかです。

その反動もあり、キリスト教の保護などに熱心に取り組んだと言われています。

結果として、南蛮から宣教師を招き入れ、南蛮文化を取り入れたいと思うようになり、日本の文化に大きな影響を与えました。

キリスト教の存在が織田信長の行う政治に大きな影響を与えたことは確かです。