伊達政宗は、伊達家17代当主にして仙台藩初代藩主である戦国大名です。豊富な人脈と情報収集力、分析力で幾度も危機を乗り切り、戦国時代を生き抜きぬいたと言われています。
天下を狙っている大名たちがいるなか、政宗も豊臣秀吉や徳川家康に殺されてもおかしくありませんでした。しかし、政宗は「生き残る」という偉業を成し遂げるのです。
では、どうやって最後まで生き抜いたのでしょうか。それは、政宗の性格から紐解くことができます。
この記事では、いろいろな場面のエピソードからみる性格を詳しくご紹介します。
伊達政宗の野心家の性格
伊達政宗は、生涯天下取りの野望を持ち続けていました。幕府と天下を賭けて戦うことになった場合を想定し、幕府との決戦に備えた作戦図案を作成したとされています。具体的な作戦をいくつも立てていたことから、野心家の性格がうかがえるエピソードです。
ですが「伊達政宗は遅れてきた戦国大名」と呼ばれていて、実際に天下を取ることはかないませんでした。すでに豊臣秀吉が天下統一する目前であっても、東北では小さい戦いを行っていただけだからです。父の輝宗と同世代である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と30歳ほどの歳の差がある政宗は、同じラインで戦うことはできませんでした。
天下は取れなかった政宗ですが、最終的には3代将軍・徳川家光の後見人となり、実質的に上位ポジションにまで上り詰めます。野心家の性格の成果といえるでしょう。
伊達政宗の幼少期のエピソードからみる性格
伊達政宗の幼少期は、どんな性格だったのでしょうか。
大人になった政宗とは異なる性格と、向上心を感じる2つのエピソードをご紹介します。
引っ込み思案で内気な性格
政宗が5歳のとき、天然痘が原因で右目を失明します。政宗は片目に劣等感を抱き、引っ込み思案で内気な性格の子どもだったようです。
政宗の片目姿を母親が嫌い、満足に愛情を注いでもらえませんでした。子どもの頃に愛情をもらえなかったことが、後世史上まれとなる残虐行為に及ぶようになった原因で、性格形成に大きな影響を与えたと考えられています。
己の弱さを克服する努力家
幼少期のときに、政宗を救ってくれた虎哉宗乙(こさい そういつ)に出会います。宗乙は政宗に、仏教・漢学・文学の学問の教養だけでなく、武将としての生き方や文化人としてのベースを養ってくれた人物でした。
宗乙との出会いを通じて学び、己の弱さを克服する努力家でもありました。
伊達政宗の残酷なエピソードからみる性格
伊達政宗は、18歳で家督を継ぎました。
家督になったあと、残酷と言われるエピソードが起こります。
撫で斬りで近隣諸国へ見せしめた戦い
1585年、政宗は陸奥国安達郡にある大内定綱の小手森城を総攻撃します。8,000丁の鉄砲で敵兵だけでなく、女と子どもも皆殺しにしました。政宗は、その日のうちに城を討ち落とします。
叔父である山形城主の最上義光宛に書いた手紙には、城内にいる者に限らず、犬まで含めて撫で斬りを行ったと記されていました。そのあとに家臣の後藤信康と虎哉宗乙宛に書いた手紙には、撫で斬りした人数が記されていましたが、その数はすべて異なっていたと言われています。
数は違えど城内の者を撫で斬りしたことは事実で、政宗の力を近隣諸国へ見せしめることになりました。この戦いは「小手森城の撫で斬り」として、後世まで語り継がれることになり、政宗が残酷な性格と言われる理由のひとつになった戦いでもあります。
拉致された父もろとも銃撃した戦い
隠居していた父の輝宗が、二本松城主である畠山義継に拉致されました。知らせを聞いた政宗はすぐに駆けつけましたが、父を助けるどころか義継一行を父もろとも銃撃し、皆殺しにしたと言われています。
しかし、輝宗を撃ち殺した真相には複数の説があって、駆けつけたときにはすでに手に負えない状態だったことや輝宗が「自分もとろも撃て!」と叫んで撃った、など諸説あります。
どの理由であろうと、政宗自身で父もろとも銃撃したのであれば、残酷な性格と言われる理由になるでしょう。
伊達政宗の肝が据わったエピソードからみる性格
伊達政宗の肝(きも)が据わったエピソードで有名な話は白装束ですが、情報収集力を発揮し生き抜きました。
ここでは、政宗の肝が据わった性格がみえるエピソードをご紹介します。
死を覚悟した白装束
政宗は、豊臣秀吉が大名間の私的な領土争いを禁じる惣無事令(そうぶじれい)が出た後も、私戦を続けていました。また、秀吉から小田原の北条を討つため参陣を求められましたが、すぐに応じず遅れて参戦します。
秀吉は激怒し政宗を幽閉させますが、秀吉の忠臣である前田利家が訪れた際、千利休が同行していることを知ると「千利休に茶道を習いたい」と言い出しました。この話を聞いた茶道好きの秀吉は、政宗に興味をもち面会することにします。
その際、政宗が行ったパフォーマンスが、死を覚悟した白装束です。秀吉はとても驚きましたが、政宗のパフォーマンスを気に入り許しました。このエピソードは、秀吉が派手好きで茶道好きという情報を集めて、性格を十分に把握した政宗の肝が据わった性格がわかります。
無罪と訴えた白装束
一度目の白装束の出来事の翌年、政宗は二度目の白装束で十字架まで背負って秀吉に謝罪します。
他国の一揆に政宗が関与してあおった証拠とされる書状が、秀吉の手に渡ったのです。説明を求められた政宗は、無罪を主張します。
政宗の書状には、いつも花押のセキレイである目の部分に針で穴をあけていました。しかし、一揆に関与した証拠とされる書状の花押には穴がないことを主張し、その書状が偽物であると訴えた結果、その主張が認められ政宗は許されました。
政宗は、もし自身が関与した一揆に関する書状が明るみになった場合のことを考えて、穴を開けずにおいたと言われています。普段から相手との関係によって、複数の花押を使い分けていたとも言われていますが、真相は不明です。
政宗が、常に未来を見据えた用意周到な戦略で、無罪と訴えた白装束のエピソード。またも、肝が据わった性格が自分の危機を救ったのです。
豊臣秀次事件での疑惑
豊臣秀吉は当初、後継者に豊臣秀次と決めていましたが、のちに豊臣秀頼に家督を譲ることを考え、秀次を謀反者に仕立てあげました。このとき、政宗は秀次と親しくしていたために、秀吉から詰問を受けます。政宗はここで、肝が据わった性格がみえる発言をしたのです。
「確かに、私は秀次と親しかったが、それは秀吉殿が次期家督を秀次にすると言っていたからです。もし、このことが罪になるのであれば、私の首をはねてしまってもかまいません」と、秀吉に言い放ちました。
この結果、豊臣秀次事件での疑惑を晴らすことができ、自分の命を守り抜くことができたのです。
伊達政宗の筆まめなエピソードからみる性格
伊達政宗は、戦国武将でありながら筆まめで文化人の一面がありました。親しみがある文面で、代筆者ではなく自筆で手紙を書き、大名や公家たちとの交流に多く役立てていたといわれています。
ここでは、筆まめなエピソードからみる性格を紐解いていきましょう。
家族への情愛
政宗には10人の子どもがいましたが、一人ひとりに愛情をもって接していました。
息子たちには、気を付けることや心がけることなどのアドバイスを伝えて、娘たちには情愛が深く日常的な内容の手紙を届けていました。また、政宗が亡くなる前には、愛する妻の愛姫に手紙を送っています。
政宗の死因は食道がんと言われており、妻の愛姫が面会を求めても拒み続けました。愛する妻に、見苦しい姿を見せたくなかったからです。しかし、面会は拒みましたが手紙を通じて愛情を伝えていました。
筆まめな政宗の家族への情愛から、とても思いやりがあって優しい性格だったことがわかります。
多くのやりとりで人脈づくり
政宗は、茶道や和歌、連歌など多くの趣味を持つ文化人でもありました。政治だけではなく、趣味を通じて大名や公家たちと多くの手紙のやりとりで人脈づくりを行い、人との交流を大切にする性格がうかがえます。
筆まめな政宗だったからこそ、京や江戸とのパイプを持ち続けられて、情報収集力につながったのかもしれません。
伊達政宗の徳川家に見せた性格
豊臣秀吉が亡くなってから、伊達政宗は徳川家康に忠誠を誓います。
政宗が家康だけに見せた性格はあったのでしょうか。徳川家とのエピソードをご紹介します。
毒味を拒否した徳川家への忠誠
政宗は、徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待した際、自らが秀忠の前に膳を運びました。その場で、秀忠の側近である内藤正重が、政宗に毒味をしてほしいと言ってきます。
政宗はこれに対して「10年前ならば、徳川幕府の基盤がまだ安定していなかったので謀反を起こす気もあったかもしれない。しかし、そのときでも私は毒殺などというずる賢いことはせず、正々堂々と戦う姿勢を貫いたであろう」と、正重を厳しく叱責し、毒味を拒否したのです。
徳川家に歯向かうような意志はなく、むしろ徳川家への忠誠を誓うまっすぐな性格がうかがえます。
伊達政宗と徳川家康の信頼関係
大坂夏の陣のあと、徳川家康の息子の忠輝が家康に対して「政宗が豊臣秀吉側につこうとしている」と、うそを吹き込みました。家康は信じなかったものの、これを機に政宗を排除しようと攻めることを決意します。
この情報を手に入れて対応を検討していた政宗の元に、交流のあった家康の側室である於勝から手紙が届きました。「一刻も早く対面すべきです。今謝罪すれば間に合うでしょう」と、助言を受けて病床にあった家康に会いにいきます。
於勝からの情報と助言により誤解を解くことができ、家康は「くれぐれも、息子をよろしく頼む」と、政宗に言ったそうです。息子の言葉を信じず、誤解が解けたあとには息子を頼むと家康に言わせたことは、政宗の忠誠を尽くす性格をよく理解していた証かもしれません。
伊達政宗の座右の銘からみる性格
【五常訓】
- 仁に過ぐれば弱くなる
(人を大切にしすぎると、自分や相手のためにならない) - 義に過ぐれば固くなる
(自分の正義を貫くことは大切だが、融通が利かなくなる) - 礼に過ぐればへつらいとなる
(礼儀ただしすぎると、相手に失礼になって嫌味になる) - 智に過ぐればうそをつく
(賢すぎると、うそをつくのがうまくなる) - 信に過ぐれば損をする
(人を信じすぎると、自分が損をする)
伊達政宗は、座右の銘として「五常訓」を大切にしていました。儒教の人が常に守るべき、五つの道徳「仁・義・礼・智・信」に基づいています。要約すると「なにごとも行きすぎることは、自分と相手にとってよくない」という意味です。
優しさがすぎると、戦場の場で仲間を失うこともあります。筋を通してばかりだと、部下を危険にさらすことになるかもしれません。 大切なことは、それぞれのバランスです。
「五常訓」は、戦国時代を生き抜いた伊達政宗の性格が表れている座右の銘といえるでしょう。