年表|伊達政宗に関わる出来事
年表 | 出来事 |
---|---|
1567年 | 伊達家の嫡男として、出羽国で生まれます。 |
1571年 | 天然痘を患い、右目の視力を失います。 |
1577年 | 元服して、父の伊達輝宗から『伊達藤次郎政宗』と名付けられました。 |
1579年 | 陸奥国の当主である田村清顕から婚姻の相談を受けて、娘の『愛姫』と結婚しました。 |
1581年 | 宮城県伊具郡で、相馬家との合戦で初陣をします。 |
1584年 | 父の伊達輝宗が隠居したため、家督を継ぎ、伊達家17代当主となります。 |
1585年 | 畠山家が父の伊達輝宗を拉致し、その後殺害しました。 |
1586年 | 畠山家を滅ぼします。 |
1587年 | 豊臣秀吉が惣無事令を発令しましたが、伊達政宗はこれに応じませんでした。 |
1588年 | 大崎家へ侵攻をかけ、伯父の最上義光が、義兄である大崎義隆側に立ち、これに参戦します。 |
1589年 | 摺上原の戦いで、蘆名義広を破りました。 |
1590年 | 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣します。 |
1591年 | 葛西大崎一揆が発生し、首謀者と疑われるも、死に装束で馳せ参じたことで事なきを得ました。 |
1592年 | 文禄の役へ参戦します。 |
1599年 | 長女の五郎八姫を徳川家康の六男である松平忠輝に嫁がせました。 |
1600年 | 慶長出羽合戦で直江兼続と戦い、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したため、直江軍は撤退します。 |
1601年 | 仙台藩初代藩主となりました。 |
1613年 | メキシコへ家来の支倉常長らを派遣します。 |
1614年 | 大坂冬の陣に参戦しました。 |
1623年 | 北上川の治水工事を開始します。 |
1636年 | 病により死去しました。 |
歴史|伊達政宗の生涯
幼い頃に右目の視力を失う
伊達政宗は、4歳の頃に天然痘(てんねんとう)を患いました。
命に別状はありませんでしたが、右目の視力を失い、不自由な生活を送ることになります。
伊達政宗は、右目の視力がないため、それをコンプレックスに感じ、内気な子供時代を送っていました。
13歳という若さで結婚
伊達政宗は、13歳という若さで結婚しました。
相手の女性は、田村清顕の娘である愛姫です。
愛姫の実母は、伊達家と対立している相馬家14代当主の相馬顕胤の娘になります。
相馬家の勢力を削ぐための政略結婚でした。
伊達家の17代目当主になる
1584年に伊達政宗は、伊達家の17代目の当主になります。
当時の伊達政宗は18歳です。
16代目当主の伊達輝宗は、宮森城(福島県二本松市)で隠居をしていましたが、翌年に二本松城(福島県二本松市)の城主・畠山義継に拉致されました。
小浜城(福島県二本松市)にいた伊達政宗は、知らせを聞いてすぐに駆けつけましたが、すでに手に負えない状態だったと言われています。
摺上原の戦いに勝利して南奥州の覇権を確立した
伊達政宗は、父の伊達輝宗を亡くしてから領土の拡大に力を入れていったと言われています。
1589年に摺上原の戦いで蘆名氏を破り、伊達政宗は福島県と宮城県にわたる領土を手に入れました。
そのことから、伊達政宗は武将として周辺諸国に名を知らしめることになります。
家系図|伊達政宗の一族
合戦|伊達政宗にまつわる戦い
合戦名 | 西暦 | 出来事 |
---|---|---|
摺上原の戦い | 1589年 | 摺上原の戦いは、安土桃山時代の1589年7月17日に、磐梯山裾野の摺上原で行われ、出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦です。 |
小田原合戦 | 1590年 | 当時、豊臣秀吉は、小田原合戦の際に伊達政宗に参戦するように促す書状を送りましたが、政宗はすぐに応じませんでした。その後、浅野長政の説得により伊達政宗は、小田原へと向かいます。その場で秀吉軍の兵力を目の当たりにし、秀吉側につきました。 |
文録の役 | 1592年 | 豊臣秀吉が中国を征服しようとした結果、朝鮮に攻め込んだ戦いです。朝鮮は日本への服従を拒否、そのため伊達政宗もその戦いに参加しました。 |
慶長出羽合戦 | 1600年 | 伊達政宗は、最上義光と手を組み直江兼続と戦います。関ケ原の戦いで勝利したことにより、直江軍は撤退し伊達政宗が勝利しました。 |
大坂冬の陣 | 1614年 | 徳川家康と豊臣秀頼の戦いで、伊達政宗は徳川幕府側として参戦しました。 |
家紋|伊達政宗が相手や状況で使い分けた6種類
仙台笹
仙台笹は、伊達政宗が最も使用していた家紋で、江戸時代中期から伊達家の独占紋として有名です。
伊達政宗の時代では、『竹に雀紋』を利用していました。
三つ引両紋
三つ引両紋は、伊達家の初代朝宗が源瀬朝より頂き、定紋として長く使用された家紋です。
別名『田村堅引き』と言い、伊達家の最も古い家紋になります。
九曜紋
九曜紋は、中心に大きな星を1つ描き、8つの星を描いていると言われています。
伊達政宗と仲が良かった細川忠興に所望し、利用するようになった家紋です。
五七桐紋
五七桐紋は、伊達政宗が上洛した際に豊臣秀吉から拝領した家紋になります。
桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高く、天皇家の家紋として知られていますが、天皇家が自身で用いるより豊臣家などに下賜されていることが多かったようです。
十六葉菊紋
十六葉菊紋は、16枚の花弁を持つ聞くを描いています。
伊達政宗が上洛した際に豊臣秀吉から拝領した家紋です。
天皇より下賜されたという説もあります。
伊達鴛鴦
伊達鴛鴦は、伊達政宗と親交のあった、関白・近衛信尋から拝領した家紋になります。
元は、『鴛鴦の丸』とも呼ばれていました。
二羽の雄と雌の鴛鴦を上下に向かい合わせ、翼を左右に大きく広げて丸く描きます。
名言|後世に残る伊達政宗の言葉
伊達政宗には、後世に残る名言がいくつもありますので、下記を参考にしてみてください。
- 朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ
- 歴史を読めば、最大の敵は外からは来ない。不平分子が家を亡ぼすのだ
- まともでない人間の相手をまともにすることはない
- 心に気にかかる物のない時は、心は広く体も安らかである
- 人の心を動かすには、まず自分の心を動かせ
- 人生は短い。だからこそ、美しく生きなければならない
- 成功は努力の産物である。天は自ら助くる者を助く
性格|伊達政宗の人物像が見えるエピソード
伊達政宗は、小さいときに天然痘を患い片目を失明したこともあり、非常に内向的な性格で、実の母からも嫌われていました。
母・義姫(よしひめ)は政宗の弟の小次郎を溺愛し、小次郎に家督を継がせるために政宗に毒を盛った、というウワサさえあるほどです。
また、内向的な性格と関係があるか分かりませんが、手紙を書いたり、料理を作るのが好きだったという話もあります。
拠点|伊達政宗ゆかりの城
城名 | 所在地 | 出来事 |
---|---|---|
米沢城 | 山形県 | 伊達政宗が生まれた城で、約200年間伊達家の本拠地として使われていました。 |
小手森城 | 福島県 | 伊達政宗が伊達家を継いだ後、大内定綱が裏切り、伊達家と敵対したため、伊達政宗が攻撃したお城になります。 |
小浜城 | 福井県 | 伊達政宗が落としたお城で、その後、二松氏との戦いをするための拠点にしていました。 |
黒川城 | 福島県 | 伊達政宗が蘆名氏を倒し、奥州の覇者となった城です。 |