「土佐の出来人」と呼ばれた長宗我部元親は、数々の名言を生んだ人物としても知られています。
かの有名な「一芸に熟達せよ。多芸を欲張るものは巧みならず」は、土佐平定を成し得た元親の代名詞と言える言葉です。
1つ1つ成果を挙げて成功を掴んだ元親の言葉は、現代に生きる我々に響くものがあります。
情報が溢れた現代社会において、目的を達成するルートはいくつも存在します。
なまじ情報が得やすい分、途中で脇道にそれてしまったり本来の目的にたどり着けなかったりして、中々本懐を遂げられません。
元親の名言は、そんな現代人に必要な要素が詰まっているのではないでしょうか。
この記事では、元親の名言を多様なエピソードとともに紹介していきます。
長宗我部元親が遺した名言
長宗我部元親が遺した名言は、価値があるにもかかわらず歴史の溝に埋もれているものがあります。
はじめに、広く世に知られている名言から紹介していきます。
一芸に熟達せよ。多芸を欲張るものは巧ならず
長宗我部元親が遺した名言の中で、最も有名なものではないでしょうか。
この名言は「1つを究めなさい。手広く行うことは悪手である」という意味が含まれています。
自身が選んだどんな道においても、それに必要なスキルや知識を追求し続けることが良い結果をもたらします。
土佐平定を成し得た元親だからこそ、説得力のある言葉として今日まで引き継がれているのでしょう。
悪い時代に生まれてきて、天下の主になり損じ候
この言葉は、小田原征伐後に秀吉と元親の間で交わされた会話で生まれたものです。
天下を望んでいた元親は秀吉に「そなたでは天下を取れぬ」と言われた後、この言葉を返しました。
つまり「ほかの天下であれば可能であるが、秀吉と同じ時代であるため不可能である。悪い時代に生まれてしまった」という意味であり、元親の処世術が光る名言となっています。
我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし
この名言は、元親が土佐平定後に家臣から四国統一を目指す理由を聞かれて発した言葉です。
意味は「家臣に対する十分な恩賞と家族が安心して生活するには、土佐だけでは足りない」となります。
大名が跋扈する戦国時代において、土佐を治めただけでは安全とは言い切れません。
海に囲まれた四国を統一することで家臣や民を守ることができるといった、目先だけではなく長期的なリスクを踏まえた名言と言えます。
現代にも通ずる元親の成功への道
長宗我部元親が遺した名言は、多様な生き方ができる現代に通ずるものがあります。
激動の時代を生き抜き、その名を歴史に残すことになった元親の生涯から、自身の人生の糧になるヒントを探してみましょう。
デメリットをメリットに
長宗我部元親は、長浜の戦いにて22歳で初陣を飾り、自ら敵陣を打ち破るという快挙を成し遂げました。
幼少時は、物静かな性格で色白な肌を持っていたことから「姫和子」と嘲笑されていましたが、先の戦にて「鬼和子」と呼ばれるほどの活躍を見せるまでに成長します。
怒涛の勢いで土佐を平定したのち、各国に対抗するために資金の確保に注力しますが、土佐は資源が乏しい土地でした。
当時は、米が国力を示す時代であったため、収穫量が少ない土佐は不利な状況にあったのです。
そこで、元親は財源確保のために、田んぼではなく山に目を向けました。
山で伐採した木を材木に加工して商売処であった大坂や京都で売り捌き、米の代わりに木材を専売する「御用木」と呼ばれる体制を作り上げました。
地形的に不利な土地であったにもかかわらず、視点を変えたことでその後の活躍に繋がった結果から考えると、デメリットをメリットとして捉えた元親は柔軟な思考の持ち主であったと言えるでしょう。
巧みな外交手腕
長宗我部元親は、軍事力だけでなく優れた外交力も兼ね備えた武将でした。
土佐平定後、四国統一を果たした元親は国内の同盟関係の安定に注力していました。
おもな大名は、讃岐の香川氏や阿波の日和佐氏、伊予の曽根氏などが挙げられます。
国力でねじ伏せる方法が主流と言われていた戦国時代において、元親は敬意を持って接することに努めました。
相手に送る書状の内容を見てみると「御知行」(ごちぎょう、職務を執行すること)や「御計策」(ごけいさく、計略・策略)といった丁寧な言葉が使われており、支配的な態度を見せることはありませんでした。
さらに、同盟関係をより強固にするため、自身の子どもを養子に出すなど、利害関係が等しくなるような外交を行ってきたのです。
元親が実践した外交は、現代にも通ずる部分があります。
いかなる相手にも敬意を払い、気を配ることで、自身が望む結果に近づけるでしょう。
1つの事象に専念する
長宗我部元親の名言である「一芸に達せよ。多芸を欲張るは巧みならず」は、情報が溢れかえっている現代人に響く言葉でしょう。
情報技術が発達した現代において、自身が描く理想像になるための答えはすぐに入手できます。
また、ゴールまでの過程や方法も大量に把握できるため、自身に合った情報を得やすい便利な世の中です。
しかし、それと同時に、さまざまな分野に手をだして失敗するリスクも少なくありません。
元親が生きた時代から、このようなケースがあったことでしょう。
四国統一を果たした元親は、目の前の事象に対して真摯に取り組み、実績を積み重ねてきたからこそ、自身の悲願を達成できました。
とくに、現代においては、この考え方が軽視されがちです。
さまざまな情報に踊らされた結果、理想とは程遠い自分に近づいているケースが散見されます。
何事も、自身がやるべき1つ1つの事象に誠実に向き合うことが、理想への道のりと言えるでしょう。
長宗我部元親に関する5つのエピソード
長宗我部元親の名言は、波乱万丈の生涯を送る中で発生した数々のエピソードから生まれています。
ここでは、土佐平定を叶えた元親の人柄が垣間見えるエピソードを5つ紹介していきます。
初陣での大活躍
上記で触れたように、元親の幼少期は肌が白く大人しい性格でした。
そのことから、周りの大人たちに「姫和子」と馬鹿にされることもしばしばあり、将来を嘱望されていませんでした。
しかし、元親の初陣となった長浜の戦いにおいて、勇猛果敢に敵陣に攻め入り大戦果を挙げます。
すると、元親に期待してなかった家臣たちから「大将の器があり、四国の主となるべきお方である」と言わしめ、「鬼和子」と称されるようになりました。
四国を覆う蓋
元親が土佐平定を果たしたあと、阿波雲辺寺の住職に対して語った言葉があります。
「我が蓋は私という名工が作った蓋であり、四国全土を覆う事に何の支障もない」
これは、元親が四国統一を画策していたとき、住職から蓋の面積に対して容器が大きければ蓋はできない、と言われた際に反論した名言です。
現状を鑑みれば不利であったにもかかわらず、自分で限界を決めない元親の前向きな姿勢を伺い知ることができます。
長宗我部氏滅亡の危機
当時、友好関係にあった信長が讃岐と阿波の侵略を計画をした際、元親の心境の変化を綴った記録が残されています。
はじめは「私の力で勝ち得た土地だ」と強気な元親でしたが、信長が侵攻する直前になると「恭順の手続きが遅れただけで抵抗する意思はない」と、やや弱気な姿勢になります。
さらに「長宗我部氏滅亡の危機が来た。長らく信長に仕えてきたにもかかわらず、なぜこのようになったのか理解できない」と愚痴を漏らしていました。
ちなみに、この直後に本能寺の変が勃発したことで、長宗我部氏滅亡の危機を回避しています。
家臣による3日間の説得
元親は、秀吉軍が侵攻してきた際に「籠城戦を決行し負けたら切腹する」という姿勢を貫いていました。
「たとえ城を落とされたとしても海部で決着をつける。一戦も交えずに降伏することはあり得ない」と考えており、不利な現状を直視していなかったのです。
これに耐えかねた家臣たちは、元親を説得しはじめました。
しかし、決死の元親を説き伏せるのは容易ではなく、心を入れ替えさせるのに3日間を要しました。
その結果、元親は降伏することを選択し、幾度目かの長宗我部氏滅亡の危機を免れたのです。
家臣は皆鉄砲の盟主
元親は、家臣に鉄砲の訓練を行っていました。
それは、戦における鉄砲の重要性を理解していたからであり、効果的な戦果を挙げていたうえでの施策と言えるでしょう。
しかし、配下に優れた鉄砲使いがいるわけではないことから、「鉄砲に特別長けたものはいない。なぜなら、家臣は皆鉄砲の盟主である」という言葉を遺しています。
このことから、個人的な鉄砲の技術向上よりも、軍としての運用に注力していたことが読み取れます。