年表|長宗我部元親に関わる出来事

1539年(天文8年) 土佐国(高知県)、長宗我部国親の長男として出生
1560年(永禄3年) 長浜の戦いにて初陣を飾り本山家を撃破、長宗我部家21代当主になる
1562年(永禄5年) 朝倉城を攻めるも、本山親茂(長宗我部元親の甥)に敗北
1568年(永禄11年) 本山親茂と再戦し勝利を収め、土佐国中部を平定する
1569年(永禄12年) 安芸国虎らを八流れ(やながれ)の戦いにおいて撃破、土佐国東部を平定する
1575年(天正3年) 一条兼定を四万十川の戦いにて撃破、土佐国統一を達成する。
1578年(天正6年) 大西覚養を白地城(徳島県三好市)にて討ち取り、次男の長宗我部親和を香川之景(讃岐国の豪族)のもとへ養子にだす
1579年(天正7年) 十河軍(そごうぐん)を重清城(徳島県美馬市)にて撃破
1582年(天正10年) 三好家を中富川の戦いにおいて撃破、阿波国を支配する
1583年(天正11年) 柴田勝家と同盟を結び、豊臣軍勢を賤ケ岳の戦いで破る
1584年(天正12年) 徳川家康と結託し、仙谷秀久を小牧・長久手の戦いで撃破、その後讃岐を支配する
1585年(天正13年) 河野家を伊予国(愛知県)で降伏させたのち、四国統一を果たすが間もなく豊臣軍勢に敗北。その後、土佐一国を任される
1586年(天正14年) 戸次川(へつぎがわ)の戦いにて島津家に敗北、長男である長宗我部信親が討ち死にする
1597年(慶長2年) 分国支配の一環として「長宗我部元親百箇条」を制定する
1599年(慶長4年) 京都市伏見区の伏見屋敷にて死去(享年61歳)

歴史|長宗我部元親の生涯

四国統一を成し遂げた人物として名高い長宗我部元親は、決して平坦な人生ではありませんでした。

活発的ではなかった幼少期から優れた武将になるまでの変遷、また「一領具足」をはじめとした数々の政策を踏まえて、長宗我部元親の生涯を追っていきましょう。

長宗我部元親の出生

長宗我部元親は、1539年(天文8年)に岡豊城(高知県南国氏)で生まれました。

有力豪族であった長宗我部国親の長男として生を授かった元親は、幼いころから手先が器用で身長が高かったとされています。

また、色白な肌と穏やかな性格も相まって「姫和子(ひめわこ」と呼ばれており、一族からは将来を期待されていませんでした。

そんな元親が武将として頭角を現すのは、初陣となる長浜の戦いです。

初陣から土佐平定へ

長宗我部元親は、1560年(永禄3年)に長浜の戦いにて初陣を果たします。

15歳で戦場に赴くことが多かった時代において、22歳で初陣を飾った長宗我部元親は他の武将と比べて遅かったと言えるでしょう。

しかし、周囲から期待されていなかったにも関わらず、最大勢力であった本山氏を打ち破る活躍を見せたことから、周囲から「鬼和子」と呼ばれるようになりました。

父親である長宗我部国親の死後、土佐中部を制圧した元親は東部へと目を向けます。

当時、東部は土佐一条家が治めていた土地でしたが、1575年(天正3年)四万十川の戦いで元親が勝利し、土佐全土を手中に収めることとなりました。

これにより土佐平定が成り、内政の充実に注力しはじめます。

長宗我部元親の死と一族の衰退

豊臣秀吉が亡くなった1598年(慶長3年)、長宗我部元親は土佐へ帰国しました。

しかし、その翌年から体調が優れず、療養生活を伏見城で送ります。

病気が快復することはせず、1599年(慶長4年)61歳で息を引き取りました。

元親の次男である香川親和は病死、3男の津野親忠は4男の盛親により殺害されます。

盛親は、大阪冬の陣と夏の陣に豊臣方より参戦しましたが負けてしまい、5人の息子ともども処刑されました。

盛親の死によって、長宗我部氏は滅亡してしまったのです。

家系図|長宗我部元親の一族

相関図|長宗我部元親の一と関わりが深い人物

長宗我部元親の親族

・長宗我部国親: 元親の父、長宗我部氏の勢力を大きくさせた

・吉良親実:元親の弟、跡継ぎ騒動で元親と対立し切腹を命じられる

・長宗我部信親:元親の長男、島津氏との戦で戦死

香川親和:元親の次男、元親の死後に病死

・津野忠親:元親の3男、4男の盛親により殺害される

・長宗我部盛親:元親の4男、大阪冬の陣・夏の陣にて敗北後、処刑される

おもな敵対勢力

・安芸氏:土佐東部を雄、八流れの戦いにおいて敗北

・一条氏:土佐七雄の盟主、四万十川の戦いにおいて敗北

・本山氏:土佐中部を支配していた豪族、長浜の戦いにて敗北

・三好氏:阿波から近畿までを支配したが、阿波荒田野の戦いで敗北

その他の勢力

・織田信長:元親と同盟を結んでいたが、突如破棄し、両者の関係は険悪になる

・柴田勝家:賤ケ岳の戦いでともに戦う

・徳川家康:小牧・長久手の戦いでともに戦う

・羽柴(豊臣)秀吉:元親が四国統一した直後に攻め入り、元親を降伏させた

・島津家久:戸次川の戦いで元親ら豊臣軍を破る

合戦|長宗我部元親にまつわる戦い

長浜の戦い 1560年(永禄3年) 土佐国における長宗我部氏と本山氏との合戦。元親は初陣となるこの戦で「鬼和子」と称されるようになった
朝倉城攻め 1562年(永禄5年) 家督相続を行った元親の初戦。3千の兵を率い壮絶な戦いを行う
八流れの戦い 1569年(永禄12年) 土佐東部を支配する安芸国虎との合戦。以前、和睦していた両者だったが、国虎が書状を取り合わなかったため戦となる
四万十川の戦い 1575年(天正3年) 土佐七雄の盟主、土佐一条氏との合戦。元親考案の「一領具足制度」が機能した戦としても知られている
白地城攻め 1576年(天正4年) 元親が四国統一に欠かせない拠点として攻略開始。三好氏を討ち取り、統一への足掛かりとした
重清城攻め 1579年(天正7年) 十河存保5千の兵との合戦。元親は勝利を収め、阿波攻略に乗り出す
中富川の戦い 1582年(天正10年) 本能寺の変以降、織田氏の勢力が弱体化したことから侵攻を開始する
賤ケ岳の戦い 1583年(天正11年) 羽柴秀吉と柴田勝家による大合戦。元親は柴田側につき奮戦する
小牧・長久手の戦い 1584年(天正12年) 羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康陣営による戦い。元親は織田・徳川陣営から出陣
九州征伐 1586年(天正14年) 羽柴秀吉と島津氏を筆頭とする九州の武将らとの合戦。元親の長男である信親らが討死する
小田原征伐 1590年(天正18年) 豊臣秀吉と小田原北条氏との戦。元親ら長宗我部氏は、水軍を率いて参戦
文禄・慶長の役 1592年(文禄元年) 豊臣秀吉が明の征服を目指した戦。元親は5番隊として開慶に陣を布いた

家紋|長宗我部元親の家紋

他の大名や武将には家紋が複数ある場合がありますが、長宗我部家の家紋は「七つ片喰」(ななつかたばみ)のみです。

片喰とは多年草の1種で、「傍食」や「酢漿草」とも表現され、夜になると葉がたたまれる性質から、「雀の袴」とも呼ばれています。

繁殖力が高い片喰は子孫繁栄を願う際に用いられることが多く、長宗我部氏以外でも採用する武家があったとされています。

名言|後世に残る長宗我部元親の言葉

長宗我部元親の名言と言えば、「一芸に達せよ。多芸を欲張るもの巧みならず」ではないでしょうか。

これは読んで字のごとく、自身が目指した道を究めるのならば1つを練り上げよ、という意味の名言です。

元親が活躍した戦国時代では、武具を扱う技術だけでなく、水練や馬術、礼儀作法なども身につける必要がありました。

すべてを同時に会得することは困難であるため、まずはいずれかを習熟し、それから別の技術や知識を得ていくことで自身の理想に近づくことができます。

元親は、この考えを忠実に実践し、土佐平定を成しえたと言えるでしょう。

生き方が増えた現代にとっても通用する名言であり、欲張らずに自身を高めていきたいものです。

性格|長宗我部元親の人物像が見えるエピソード

長宗我部元親は、物静かな幼少時代を経て、名のある武将へと躍りでました。

その武勇だけでなく、民思いでもあった元親の性格が垣間見えるエピソードをいくつか紹介します。

姫和子から鬼和子へ

上記でもお伝えした通り、元親の幼少時代は「姫和子」と呼ばれるほど、おとなしく物静かな少年でした。

周囲から将来を期待されず、武将の資質が見えなかったことから元親自身も辛かった面もあるでしょう。

しかし、初陣となる長浜の戦いにおいて50騎を率いて奮戦し、少数ながら多大な戦果を挙げました。

また、塩江城攻略の際にも、家臣らの諫言を聞かず突入命令を下して勝利しました。

いつしか「鬼和子」と呼ばれるようになり、さらには「土佐の出来人」として知られるようになったのです。

領民思いの武将

長宗我部元親と聞いて思い浮かぶのは「一領具足」という方もいるでしょう。

一領具足は、元親の父・長宗我部国親が考案した制度で、兵力を揃えるために農民を兵士に加えるというものです。

とくに、息子である元親は一領具足で兵士となった農民を重用しており、無下に扱うことなく丁重に接していました。

数々の画期的な政策を打ち出して内政を充実させ、そのことが土佐平定に繋がったとも言えます。

南海・西海の王になりたい

長宗我部元親は土佐平定を果たしたのち、ある野望を抱きました。

それは、土佐一国のみならず南海や西海の王になりたい、というものです。

これは長宗我部氏のルーツが関係しています。

長宗我部氏は秦の始皇帝を祖先に持つと言われており、元親は自身の一族の器はもっと大きいものと考えていた、と言えるでしょう。

その後、四国制覇のために織田信長と同盟を結び、四国の要所である白地城奪取に舵を切ります。

このことから、元親は野心家の一面も持っていたようです。

長男の死

元親は、人情深くて義理堅い、さらに家臣や領民を大切にする武将であったと伝えられています。

しかし、元親が溺愛していた長男・信親の死によって、それまでとは別人のようになってしまいました。

長男・信親の亡き後、次男と3男が健在にもかかわらず、4男・盛親に家督を継がせようとします。

これに反対した親族や家臣を粛清し、非人道的な行いが散見されるようになりました。

愛する者の死に耐えられなかったのは、元親の人情深さによるものだったのでしょう。

拠点|長宗我部元親ゆかりの城

岡豊城(おこうじょう) 高知県南国市 高知平野を流れる国分川の北にある城で、元親の土佐平定の拠点となった
朝倉城(あさくらじょう) 高知県高知市 本山氏の居城として使われており、幾度の合戦の舞台となった
白地城(はくちじょう) 徳島県三好市 四国中央に位置しており、元親の四国統一の拠点となった城で三好氏から奪取した
大高城(おおたかじょう) 高知県高知市 高度が高い大高坂山に位置する城。川に挟まれた立地であるため、度々水害に悩まされた
浦戸城(うらどじょう) 高知県高知市 浦戸湾に面した岬に築かれた城。山内氏が侵攻してきた際、元親は浦土城にこもって抵抗した