戦国時代は日本史の中でも非常に人気な時代で、個性豊かな戦国武将たちの逸話は私たちをワクワクさせてくれます。

戦国武将の中で、最も有名な武将といえば、織田信長でしょう。

数多くの逸話があり、これまでの慣習を打ち破った信長は日本史に大きな影響を与えており、様々な創作物でも描かれています。

しかし、織田信長の有名さとは裏腹に正室である濃姫や側室たちについてあまり知らない人は多いかと思います。

濃姫には多くの謎があり、どういった人物でどんな功績があったのか、詳しくわかっていません。

また、信長には側室が多くいて、子供は21人も産まれている子だくさんでもあります。

今回は織田信長の正室濃姫と側室について紹介していきます。

濃姫と織田信長の結婚|二つの大名家の結びつき

当時、濃姫の居た美濃国と織田信長が居た尾張国は敵対関係にありました。

濃姫の父である斎藤道三は土岐頼芸と土岐頼純と戦っており、「織田信秀」(おだのぶひで)と「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)が協力していたので苦戦を強いられていました。

「揖斐北方城」(いびきたかたじょう)や革手城を失っていた道三は土岐頼純が亡くなったのを見て、織田信秀と和睦を結びます。

1548年に濃姫を織田信長の元に嫁がせ、織田家と親縁関係を結ぶことになりました。

戦国時代で生き抜くため、濃姫と信長は夫婦となります。

この結婚は信長にもメリットがあり、道三との縁もできたため、跡継ぎになる可能性が高まりました。

濃姫の出自と斎藤道三との関係

濃姫は、斎藤道三と正室の小見の方の娘として天文4年(1535年)に生まれました。
油売りから武士となり、知略を駆使して頭角を表していました。

織田信長の正室として有名ですが、一説では信長の前に嫁入りをしていたという説があります。

その人物は「土岐頼純(ときよりずみ)」。
父の美濃国守護であった土岐頼武で、斎藤道三とは対立関係にあり、人質として嫁ぎました。

その後、頼純は道三に攻め入られ、越前国に落ち延びた後なくなっています。

実家に戻った後、土岐八郎頼香(よりたか)に嫁がされますが、頼香は道三に意のままに操られることを嫌がり逃げ出しますが、、呆気なくつかまり自害を強要されます。

その後は、織田信長に嫁ぐことになるため、濃姫は政略の道具として扱われていたように思われます。

織田信長と濃姫の結婚の背景

結婚には織田家重臣である平手政秀の尽力が大きかったとされています。

先ほど、斎藤道三は土岐氏との戦いで苦戦を強いられていたと説明しましたが、二人の結婚は織田家にもメリットがありました。

この時、織田家は三河国松平氏とも戦っていたので、兵力が分散しており、苦戦が強いられる場面も出てきます。

そのため、戦況が不利になっていたため、織田家は斎藤道三と和睦に合意しました。

松平氏だけでなく、駿河国の大名・今川義元も非常に強い力を持っていたため、周りを固めるためにも道三との和睦は重要な意味を持っています。

織田信長の妻|濃姫の謎

濃姫ですが、非常に謎が多い人物です。
実は第一次資料である「信長公記」にもはっきりとした記載はなく、いつ頃亡くなったか分からず、信長に嫁いだ後のことはわかっていません。

また、信長の間に子供がいなかったことから、夫婦間はどうなっていたのかという疑問も残されています。

濃姫の名前は帰蝶?

濃姫という呼び名を正式に記した一次資料もなく、「帰蝶(きちょう)」、「胡蝶(こちょう)」という名前で記されている資料もあります。
斎藤道三の居城が鷺山城だったことから「鷺山殿(さぎやまどの)」とも呼ばれることもあります。

織田信長に嫁いだことはわかっていますが、はっきりとした名前はわかっていません。

「濃姫」とは「美濃からきた姫」という意味で正式な名前ではありません

濃姫と記している史料は、歴史的な史料ではなく、創作物が多いです。

「胡蝶」と書かれているのは「武功夜話」は偽書という説もあるため、信憑性はあまり高くありません。

「帰蝶」と記されているのは、『美濃国諸旧記』という美濃国の歴史を記録した史料になります。
しかし、原書の所在が不明で間違いも多いことから、こちらも確かなものではないです。

織田信長の死後は消息不明

濃姫の消息について詳細に記載された史料はないため、どのような最期かは様々な説が考えられています。
最後に記録は「美濃国諸旧記」で道三の肖像画を常在寺へ寄進したというものになります。

2人の間に子が居ないため、早くになくなったという説などもありますが、本能寺の変後も逃げ延び生き抜いたという説が有力です。

本能寺の変の際に安土城から、信長の娘・冬姫の嫁ぎ先である蒲生氏のもとに逃げた女性たちの中に正室を表す「北の方」という記述があり、濃姫と推測されます。

また、信長公夫人が信長の一周忌を執り行ったと「妙心寺史」に記載が確認できます。
この他にも濃姫ではないかと考えらえる記載がある史料が出ているため、本能寺の変のあとも生き延びていたという説が有力だと言われています。

織田信長の側室とその子供たち

信長に限らず、戦国武将の多くは側室と呼ばれる愛人が居るのが当たり前でした。
現代ほど、医療技術が発達していなかったため、子供を産むのは大変で、大人になるまで育たない事も多かったです。

信長は濃姫との間には子どもはできませんでしたが、側室との間には21人もの子供ができました。
ここでは側室と子どもたちを紹介させていただきます。

織田信長の側室たち

  1. 生駒吉乃
    側室でありましたが、信長から最も愛された女性とも言われています。
    1556年に夫が亡くなり、実家に戻っていたところを見染められ、側室になりました。
    信秀・信雄・徳姫を産みますが
  2. お鍋の方
    近江の豪族・高畑源十郎の娘と言われています。
    七男の信高と八男の信吉、娘・於振を産みました。
    本能寺の変後は、豊臣秀吉の正室・ねねに仕え、側近の筆頭でした。
  3. 坂氏
    三男の信孝を産みましたが、出自は不明です。
    信長の死後は信孝と柴田が手を結び、豊臣秀吉が岐阜城に攻め込んだ際に人質となります。1583年の賤ヶ岳の戦いで信孝が挙兵したため、孫娘と共に処刑されました。
  4. 養観院
    後に秀吉の養子となる羽柴秀勝を産みました。
    秀勝病弱で早くに亡くなったため、出家して養観院と名乗りました。
  5. 土方氏
    織田信秀の家臣土方信治の孫娘と言われていて、九男信定を産みました。
  6. 慈徳院
    信忠の乳母を務めていたところを見初められ、側室となり、三の丸殿を産みました。
    信忠を弔うため、妙心寺内に大雲院を建立しました。
  7. 原田直子
    信政の母とされていますが、織田信政は正式に存在したと認められていません。
    織田家の家臣塙直政の妹とされています。

側室から生まれた子供たちとその扱い

信長と側室の子供たちを表にまとめました。

子供の人数が多いため、娘は割愛させていただきます。

長男 信忠 織田家の家督を継ぐも本能寺の変で自害。 1557-82年
次男 信雄 秀吉、家康に仕え、最後は京都で隠居。 1558-1630年
三男 神戸信孝 神戸具盛の養子に、秀吉に敗れ自害。 1558-83年
四男 羽柴秀勝 秀吉の養子となり、亀山城で病死。 1569-85年
五男 勝長 本能寺の変後の明智との戦いで討ち死に。 ?-1582年
六男 信秀 秀吉に仕えた。キリシタン大名。 ?-1597年以後
七男 信高 秀吉から近江国に知行を与えられた。 1576-1603年
八男 信吉 関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に改易。 1573-1615年
九男 信貞 秀吉から所領をもらい、後に徳川の家臣になる。 1574-1624年
十男 信好 近江に領地を持つ、詳しい功績は不明。 1573-1615年
十一男 長次 関ヶ原の戦いで西軍として戦い戦死。 ?-1600年