戦国時代を象徴する人物であり、だれもが知る「織田信長」。

軍師としての手腕もさることながら、関所の撤廃、楽市楽座など経済を重視した政策は当時の社会に多大な影響を与えました。

様々なエピソードがある織田信長ですが、今回は織田信長の「家紋」に焦点を当てます。家紋とは、個人・家族を識別するため使われる紋章のことで、平安時代から用いられていました。戦国時代においては敵・味方を識別する印として使われています。

一家に1つという印象が強い家紋ですが、戦国大名は功績を称え家紋が拝領されることも多く、複数家紋を持つ武将は多く存在していました。その中でも織田信長はなんと7もの家紋を使用しています。それぞれの家紋の意味やどのように使い分けていたのかを解説します。

織田信長が使い分けた7つの家紋

織田信長が使っていた家紋は下記の7つです。

織田木瓜(おだもっこう)

五三桐(ごさんのきり)

永楽通宝(えいらくつうほう)

揚羽蝶(あげはちょう)

十六葉菊(じゅうろくようぎく)

無文字(むもじ)

丸に二つ引両(まるにふたつひきりょう)

 

それぞれの意味や由来について、図を用いて解説をします。

織田木瓜(おだもっこう)

織田信長の家紋の中でも特に有名なのは、この「織田木瓜(おだもっこう)」です。織田信長の父「織田信秀」が、主君だった斯波氏より賜ったとされています(朝倉氏からという説もあり)。そのため、この木瓜紋は織田家の正式な家紋でもあるのです。

木瓜紋の文様は古く唐時代に使われ、子孫繁栄を意味する鳥の巣を表現した文様であるとされています。神社の御簾の上部に長く引かれた「帽額(もこう)」に木瓜紋の文様があしらわれていた点からも、木瓜紋は縁起の良い紋とされ、織田家の他にも木瓜紋を使う武家は多く存在していました。

 五三桐(ごさんのきり)

下部に3枚の桐の葉、その上部の中央に5つ、その左右に3つの桐の花を並べた紋が「五三桐(ごさんのきり)」です。

織田信長について記された軍記「信長公記」によると、織田信長とともに上洛を果たした足利義昭が、その恩恵として五三桐紋を下賜したとされています。

桐の紋は7世紀ごろから天皇家専用の紋章として用いられていました。その後、後醍醐天皇により足利尊氏へ桐紋が下賜され、足利将軍家が分家らにも分け与えたことをきっかけに、徐々に大名の間にも広まっていきます。桐の紋は格式が高く、当時の大名らにとっては憧れの的でもありました。

永楽通宝(えいらくつうほう)

この紋は室町時代から江戸時代初期に流通していた貨幣「永楽通宝」をそのまま図案化したものです。

織田信長が当時の貨幣を紋として起用していたのは、貨幣経済を重視していたからではないかと言われています。

実際に織田信長が行った政策は商業の発展をもたらすものが多く、天下統一を行う上で経済を重視していたことがわかります。

 揚羽蝶(あげはちょう)

揚羽蝶は、昆虫のアゲハチョウではなく、羽を立てた蝶を図案化した家紋です。主に桓武平氏が使用していました。幼虫から蛹、そして蝶へと成長していく様が縁起が良いと好まれていたようです。平家を代表する人物である平清盛の一門もこの紋を使用していたことから、平家を代表する紋として知られるようになりました。織田信長は自身が平氏の末裔であると自称し、この家紋を使用していました。

十六葉菊(じゅうろくようぎく)

「十六葉菊」は、16枚の花びらが描かれた菊紋です。菊紋は現在でも皇族が利用している位の高い家紋で、日本発行のパスポートにも使われています。菊紋は太陽に似ていることから、天照大神を祖とする天皇家にふさわしいと考えられ使用されるようになったとする説が有力です。

織田信長は十六葉菊紋を正親町天皇(おおぎまちてんのう)から賜りました。織田信長は朝廷と武家の共存を進めるため、朝廷運営のための資金援助などを行っていたことが明らかになっています。

無文字(むもじ)

無文字紋はその名の通り、「無」の1字が描かれた紋。文字紋は漢数字や名字をあらわす文字、自然をあらわす文字などバリエーションも多く、自由度が高い紋です。「無」の字は禅の思想では煩悩から解き放たれた無心状態を意味しています。

鎌倉時代に日本に伝来した禅宗は武家と深いつながりがあり、「武士道精神」の源流であるともいわれています。そのためか、無文字紋は織田信長の他「上杉謙信」「北条氏直」らも使用していました。

丸に二つ引両(まるにふたつひきりょう)

「引両紋」とは丸の中に縦や横に線を引いた紋のことです。「引両」は「引竜」とも呼ばれ、引かれた線は竜を表しているとする説もあります。

丸に二つ引両は、足利氏が使用していた家紋です。2本の線は2体の竜が絡み合い天に昇る様子を図案化しているとされており、天下統一を表現したと考えられています。五三桐紋と同様、上洛した足利義昭から下賜されました。

 織田家紋は相手や状況に応じて使い分けられていた

戦国時代は功績として家紋を賜ることも多かったため、複数の家紋を持つ武将が多く存在します。複数の家紋を持つ武将は、正式な場で使用する「定紋」、それ以外の家紋を「副紋」として分けていました。織田信長は上で紹介した7つの家紋をどのように使い分けていたのか、表にまとめて紹介します。

織田木瓜(おだもっこう)

先祖代々受け継がれた織田家の家紋である織田木瓜は、公的な場で用いる「定紋」として使われていました。

五三桐(ごさんのきり)

足利義昭から賜った桐紋は格式高く名誉ある家紋であるため、自身の功績を示すため使われました。織田木瓜とともに陣羽織にもあしらわれています。また、長興寺が所蔵する織田信長の有名な肖像画にも、五三桐が描かれていました。

永楽通宝(えいらくつうほう)

戦場において、自陣の目印となるよう掲げる「旗印」に使用されていまし当時日本に流通していた貨幣である永楽通宝を紋として使用したのは、経済の発展を重視していた織田信長の考えの表れでもあります。

揚羽蝶(あげはちょう)

織田信長がこの家紋を使用したのは、「自分が平氏の末裔として天下を統一する」という意志の表明であるとされています。平安時代末期から、平氏の家系と源氏の家系が交互に政権を担っていました。当時室町幕府を開いた足利家は「源氏」家系だったため、次に天下を取るのは「平氏」家系であると考えたのです。

十六葉菊(じゅうろくようぎく)

十六葉菊は朝廷とのつながりを示すため使用されていました。当時衰退していた朝廷を立て直し、共存関係を築こうとしていた織田信長の意向が見て取れます。

無文字(むもじ)

文字紋は図案化された字のストレートな意味を託しているとされています。禅思想では「無」は無我の状態を示しており、織田信長の信念を表すために使われた家紋であるといえます。

丸に二つ引両(まるにふたつひきりょう)

鎌倉幕府を討幕した足利氏が使用していた家紋は、崇拝と権力の象徴でした。「天下統一」を志した織田信長は、権威の象徴としてこの家紋を使用していました。

織田信長と他の戦国大名の家紋

最後に、織田信長と同様人気の高い戦国大名の家紋を紹介します。

豊臣秀吉

五七桐(ごしちのきり)

上杉謙信

 

竹に二羽飛雀(たけににわとびすずめ)

明智光秀

桔梗(ききょう)

石田三成

大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)

武田信玄

武田菱(たけだびし)

豊臣秀吉の家紋である「五七桐(ごしちのきり)」は、織田信長の「五三桐」とよく似ていますが、上部の桐の花の数が異なっています。

この家紋は現在でも、日本政府を象徴する紋章としても使われています。