毛利元就(もうりもとなり)は安芸国で生まれ幼い頃に両親を、19歳で兄を失い、次男でありながら毛利家の家督を相続しました。

元就はこうした境遇にも負けず、たった一代で中国地方のほぼ全域を統一した豪傑として知られています。戦の中で窮地に陥っても、巧みに策略を練り敵を欺き勝利してきた元就は智将でもありました。

そんな毛利元就が使っていた「家紋」について紹介します。

毛利元就の家紋は複数あった?

毛利家は複数の家紋を利用していました。「一文字に三つ星」「長門沢瀉」「十六葉菊」「五七桐」、さらには鶴丸や八本矢車なども使っています。毛利家が使ってきた家紋は10種類以上です。

中でも一文字に三つ星は毛利家が代々使ってきた家紋で、毛利家の先祖である「大江広元」が使っていたものです。

沢瀉は「勝軍草」と呼ばれる縁起のいいものです。毛利氏の沢瀉はだるまのような形をしている「抱き沢瀉」というもので、抱き沢瀉を「長門沢瀉」といいます。だるまにしても勝軍草にしても、戦に生きた元就にとって縁起のいい家紋だったのでしょう。

五七桐は織田信長や豊臣秀吉も将軍から賜り利用していた家紋で、十六葉菊は天皇から賜った家紋です。

「一文字に三つ星」に込められた思い

毛利家の家紋は10種類以上と数多く利用されていますが、その中でも特に利用してきたのが「一文字に三つ星」です。漢数字の「一」の下に三つの丸を三角形に配置しています。逆に「三つ星一文字」という家紋もあり、こちらは三つの星の下に漢数字の一が配置されています。

先祖から受け継いだ家紋ですが、実はこの一文字に三つ星の黒い3つの丸はオリオン座の3つの星を表しているといわれているのです。上の丸は「大将軍星」、下の左の丸が「左将軍星」、その右の丸が「右将軍星」です。これを3つ合わせて「三武星」などとも呼びます。

この星は古くから武神として信仰されてきました。武家では勝ち星をあげるために、この縁起のいい3つの星を家紋にしていたといいます。

毛利元就の子孫も利用した「一文字に三つ星」

毛利元就には3人の息子がいました。3人とも正室の「妙玖(みょうきゅう)」の子どもです。長男が「隆元」、次男が「元春」、三男が「隆景」で毛利三兄弟と呼ばれていました。第53代当主となったのは長男の隆元で、隆元は一文字に三つ星を家紋としています。

次男の元春は吉川興経の養子となったため「吉川元春」となり、家紋は吉川家の「丸に三つ引き両紋」を利用していました。三男の隆景は小早川興景の養子となり、12歳という若さで家督を継ぎました。家紋は小早川家の「左三つ巴」を利用しており、次男も三男も毛利家の「一文字に三つ星」は利用していません。

ただ毛利隆元の息子は、先祖から受け継いだ一文字に三つ星の家紋を受け継ぎました。元就の長男である隆元は40歳で急逝しましたが、息子の輝元が家督を継ぎ、元就から隆元、そして輝元に一文字三つ星はしっかり継承されています。

「一文字に三つ星」は毛利家のルーツ「大江季光」から受け継いだ?

毛利家の祖先をたどっていくと鎌倉幕府初代政所別当だった「大江広元」の四男である「大江季光(すえみつ)」につながります。父の広元は所領を子どもたちに分割相続しており、季光は相模国愛甲郡毛利庄(現在の厚木あたり)を相続しました。その後、季光は領地とした地の名である「毛利」を称するようになったのです。

季光は北条氏・三浦氏が戦った宝治合戦において三浦氏側(妻の実家だった)として参戦しましたが北条に敗れます。季光は三浦氏一族と子息と共に自害しました。しかしその中で生き延びたものがいたのです。季光の孫である「毛利時親」です。時親は安芸国吉田庄へ逃げ生き延びました。

これが毛利家のルーツです。一文字に三つ星の家紋も大江季光から継承したのでしょう。また元就もそうですが、息子たちの名には「」という漢字が使われています。これは季光の父「大江広元」の一文字を取りつけられたという説があります。

長門沢瀉(ながとおもだか)

長門沢瀉は花を左右の葉が囲むように抱いています。この葉は沢瀉という植物で、家紋ではひょうたんのような形に描かれています。元就はある戦の際、沢瀉にふと止まった蜻蛉を見て、これは幸先がいいと敵に向かっていったところ、見事勝利したそうです。それから沢瀉を家紋として用いたといわれています。

沢瀉は「勝ち草」であり、蜻蛉も「勝ち虫」といわれ縁起のいい吉祥の植物と虫が描かれています。毛利家の家紋として利用されている沢瀉は、「長門萩藩毛利氏」の家紋であるため、「長門沢瀉」と呼び、長門府中藩で利用されている沢瀉は「府中沢瀉」です。

沢瀉はこのほかにも、立ち沢瀉や福島沢瀉、鉢付き立ち沢瀉など多数の種類があります。

十六葉菊紋と五七桐紋

十六葉菊(じゅうろくようぎく)は、八重菊を描いています。菊紋の中でも16枚の花弁を持っているのが特徴です。皆さんもこの十六葉菊紋は見たことがあるかと思いますが、現在も皇族の方々が利用されている格式高いものです。

誰でも利用できる家紋ではなく、天皇などから拝領することで家紋とすることができます。毛利元就は正親町天皇から拝領しました。織田信長も同じく正親町天皇より拝領しています。

五七桐も十六葉菊と同様、使用の許可が必要となるものです。元就は室町幕府十五代将軍「足利義昭」から利用を許可され使っていました。

三つ星のごとくきらりと輝く智将だった「毛利元就」

毛利元就は戦国武将の中でも特に「智」に長けていた武将です。一代で中国地方の雄となり、10か国120万石を支配した豪傑は、元々郡山城を拠点とした、安芸国吉田荘を支配する小さな領主でした。

元就が武将として活躍し始めた頃の中国地方は、参院を支配する尼子氏と、山陽から九州北部までを領地としていた大内氏の勢力が大きく、毛利家はどちらに着けば自分の領地を守れるのかと選択を迫られていたのです。元就は大内氏と手を組み尼子氏の攻撃を受けました。居城であった郡山城に籠城し援軍も来たことで尼子氏を撃破、これにより元就は勢いづいたのです。

そこで元就は知恵をしぼります。毛利をより確固たる勢力とするため、瀬戸内に強い水軍を持つ小早川氏に三男を、安芸・石見を拠点とする吉川氏へ次男を養子として送り込みました。ただ戦に勝利するだけではなく、毛利家をより強く、またしっかり堅固にするために、息子たちを養子に出すことで足がかりをつかみ、中国制覇に挑んでいったのです。