毛利元就は生涯をかけて「出雲の尼子家」「周防の大内家」と戦った武将です。知恵を絞り戦い抜いた元就は、中国地方の10国を手に入れ、見事に中国地方統一を成し遂げました。たった一代で偉業を成し遂げた元就は、「戦国の雄」とも呼ばれています。

元就も他の武将と同じように、生涯の中でいくつかの城と関わっています。今回は毛利元就が、74歳で生涯を閉じるまでに関わりが深かった城をみていきましょう。

毛利元就と関わりが深い城

戦国の雄、西国の覇王と呼ばれた「毛利元就」は、国づくりに対し一致団結が不可欠と解き、「三本の矢」や「百万一心」といった逸話を残しました。歴史の時間にこうした逸話について習った記憶をお持ちの方も多いでしょう。

元就は知略に長けていた武将で、城を落とし領を広げ居城を守り抜いてきました。たった一代で中国地方のほぼ全域を制覇した元就は、病で亡くなるまで多数の合戦をくぐりぬけ、毛利家を躍進させたのです。今回は毛利元就と関係性の深い「城」をいくつか紹介します。

毛利元就が奇襲を行った「銀山城(かなやまじょう)」

毛利元就は大内義隆の命を受け、銀山城を攻めました。武田の力は内紛などもあり衰えていたものの、銀山城は山の頂きにある堅固な山城で攻めにくく、毛利軍は数年攻めあぐねてしまいます。

元就は知恵を絞り、まず農民に千足のわらじを作らせました。夜になると千足のわらじに油をしみこませ火をつけ、銀山城へ向かって流れる川へ流しました。銀山城の敵軍から見ると、まるで列をなし篝火をもって敵が近づいてくるようです。銀山城の兵士たちは敵が大勢城に向かっていると勘違いし大手門に集まりました。

元就はここぞとばかりに裏から城を攻め、銀山城を手にしたのです。大内氏に対抗していた安芸の武田氏は元就によって滅亡しました。現在でも広島市東区の太田川沿いに「千足」という地名が残っています。

戦わずして落とした城「鏡山城」

元就が安芸の攻略に奮闘していた際、安芸の拠点となっている鏡山城を守っていた大内家の副将「日向守直信」に、毛利へ寝返らないかと持ちかけました。日向守直信が利欲に目がないと知っていたのです。するとこの誘いにのり、日向守直信は毛利軍を鏡山城の二の丸へ引き入れました。

当時の城主であった蔵田房信は本丸に籠城しましたが、どうすることもできず、妻子や城兵を助けることを条件に降伏したのです。こうして元就は鏡山城を「戦わずして」手に入れました。

しかし1525年、当時の城主だった大内家が、安芸に攻め込まれ奪い返されてしまいます。その後、鏡山城は廃城となりました。

毛利家が代々当主を務めた「吉田郡山城」

毛利家は代々、吉田郡山城を本拠地としていました。元就は山の頂にある本丸に暮らし、有力な家臣たちは吉田郡山城内の屋敷に住んでいたとされています。

この吉田郡山城で元就は窮地に陥ったことがあります1540年に尼子軍3万に包囲されてしまったのです。元就は籠城する以外手がありませんでした。しかし当時、一時的でしたが同盟を結んでいた大内家が助けに入り、この窮地をくぐりぬけました。

現在でも三の丸の下通路の石垣跡や、毛利元就と一族の墓所を見ることができます。

2度の城攻めで落とした「月山富田城(がっさんとだじょう)」

尼子家との戦いの中で、元就は尼子家の本拠地であった月山富田城を2度にわたり攻めました。1542年、月山富田城を攻めましたが、断崖絶壁に建つこの堅固な城を落とすことができず撤退しています。

1566年、2度目の月山富田城を攻めた際には、正攻法では落とせないとばかりに兵糧攻めを行いました。城への補給路を断ち、食料などが城に運び込まれないようにしたのです。この兵糧攻めにより元就はようやく月山富田城を落とすことができました。

この月山富田城も現在、島根県の観光名所として多くの人々が訪れる場所となっており、石垣や堀といった遺構を見ることができます。

毛利元就の本拠地「吉田郡山城」を詳しく解説

毛利家はずっと「吉田郡山城」を本拠地としていました。吉田郡山城には「270」という数の曲輪(城の内外を区画し区切ったスペースのこと)があったことがわかっています。まさしく、吉田郡山城を築城した山そのものが「要塞」だったのです。

吉田郡山城がどのような城だったのか、今も残されている270もの放射状の曲輪跡から、その様子を伺うことができます。現在も多くの方々が当時の様子を肌で感じながら、吉田郡山城跡を楽しんでいます。

毛利家が築いた要塞「吉田郡山城」について、詳しく解説します。

郡山全体が要塞だった「吉田郡山城」

吉田郡山城は標高390m、比高190mという山頂に築城された城で、西日本で最も大きい「中世の城」とも呼ばれています。山頂の本丸を中心として270という数の曲輪が築かれました。

山頂の本丸から支尾根(大きな尾根「主尾根」から派生する尾根のこと)6本と、さらに他の尾根から伸びた6本の尾根、合計で12本の尾根が伸びています。この12本の尾根の間にはそれぞれ12か所の谷があり、その谷や曲輪を道路として利用するなど、他の城とは全く違う複雑な構造を持つ城でした。

城域部分の総面積は7万㎡にも及び、山頂に本丸、一段下がって二の丸、次に三の丸が築かれました。本丸には35mもの曲輪があり、ここが元就の屋敷だったといわれています。

毛利元就と石柱

毛利元就というと三本の矢の逸話が有名ですが、「百万一心」という逸話も残されています。毛利家の居城となっていた吉田郡山城に関する逸話です。

1524年、吉田郡山城の改修工事が行われました。安芸に暮らす領民は改修工事がうまくいくよう神様に祈りを捧げます。安芸の領民たちは神様へ祈りをささげる際、娘を人柱(難しい工事が滞りなく完成するように神様へ生贄として生きたまま埋めること)にしようとしました。

これを見た元就は娘ではなく「石柱」を埋めるように命じました。この石柱には「百万一心」という言葉が刻まれていたといいます。縦に刻まれたこの字は「一日 一力 一心」と読めるように刻まれており、元就は「娘の命を奪わずとも1日を一人一人、心を1つに働けば、城の工事はうまくいく」と伝えたといいます。

毛利元就の「三矢の訓碑」が残されている吉田郡山城

元就は3人の息子に、戦国という厳しい時代を生き抜くための教訓を与えたといわれています。長男「隆元」、次男「元春」、三男「隆景」の3人に元就が伝えた教訓は「一致団結・結束」の力でした。

元就は3人の息子それぞれに矢を持たせました。そして3人の息子に「1本の矢であれば簡単に折れてしまう。しかし3本束ねると簡単に折れない。3人が矢のように力を合わせれば毛利家は安泰だ」と伝えました。

ただこの話、本当は江戸時代に毛利家が存続していくために、3人の息子へ元就が送った書状(教訓状)の話がもとになっています。家督を継いだ隆元を軸に、吉川家の跡継ぎとなった元春、さらには小早川家を継ぐことになった隆景の2人が支えとなり、「毛利家両川体制」を構築するようにと書かれていたようです。

三矢の訓とJリーグサッカーチーム「サンフレッチェ広島」

現代の吉田郡山城内には、様々なところに毛利家を連想させるデザインが採用されています。例えば城内の案内標識の矢印は3本の矢ですし、南側にある展望台には巨大な毛利家の家紋(一文字に三ツ星)がたなびいています。

郡山山麓には安芸高田少年の家がありますが、その敷地内には元就の「三矢の訓跡」の碑が建立されており、至るところで毛利家を感じることができるのです。

またサッカーファンの方はご存じかもしれませんが、Jリーグのサッカーチーム「サンフレッチェ広島」の名前も、三矢が関係しています。サンフレッチェは日本語の三(サン)と、イタリア語のフレッチェ(FRECCE)を合わせて「サンフレッチェ広島」とつけられました。

毛利元就はこんな人

毛利元就は吉田郡山城を拠点に、中国地方のほとんどを一代で制覇した戦国大名です。75歳でこの世を去るまで、実に200回以上の戦に参戦しました。幾多の戦いを必死に潜り抜け、元就は毛利家を西国随一としたのです。

元就は知恵を絞った戦いを繰り広げた、「智将」といってもいいでしょう。戦に知恵を使うほか、毛利の勢力をしっかり広げるため、「養子」も戦略の1つとしています。安芸・石見を拠点とし活躍していた吉川氏のところに次男を、強力な水軍を持ち瀬戸内海で活躍していた小早川氏のところには三男を養子に出しました。

三矢の訓、百万一心といった逸話を残した元就は、戦国武将の中でも人気が高いです。