伊達政宗は戦国時代から江戸時代初期まで活躍した武将です。幼い頃に天然痘により右目を失明し独眼となりましたが、天下統一を果たすべく常に猛進した政宗の名は、「独眼竜政宗」としても知られています。

伊達政宗は「奥羽」で生まれ仙台藩初代藩主となった男です。そのため東北地方には伊達政宗ゆかりの城がいくつかあります。中でも重要な城は、伊達政宗が生まれた城「米沢城」、仙台藩主として過ごした「仙台城」、摺上原の戦いで奪い取った「黒川城」、晩年を過ごした「若林城」です。

今回は伊達政宗が生まれてから亡くなるまでの間に関わった城の中から、特に関わりが深い4つの城を紹介します。

伊達政宗と関わりが深い城

東北の武将といえば「伊達政宗」といわれます。伊達政宗は元々天下統一を果たしたいという夢を持っていました。しかしその夢は、徳川家康が江戸幕府を開いたことで、自分の領地であった「仙台藩」の平和を守ることに変わります。政宗は誠心誠意仙台に尽くし、幕末まで存在した「仙台藩」の基礎を作ったのです。

仙台藩主として日々、仙台の繁栄と守護に尽くした政宗は70歳で永眠するまで、いくつかの城と関わりました。その中でも、特に伊達政宗とかかわりが深い「4つの城」を紹介します。

伊達政宗生誕の城「米沢城」

伊達政宗は出羽国の「米沢城」で生まれました。米沢城は1238年に「長井時弘」が築城した城で、150年後に伊達家の城となっています。政宗は1567年に、第16代当主「伊達輝宗」と正室の義姫の間に生まれました。

伊達政宗はこの城を本拠地として力をつけ、やがて「京」で名が知られるようになっていきます。伊達政宗はのちに豊臣秀吉の家臣となり、所領が陸奥に変わりました。その後は上杉影家の家臣「直江兼続」が米沢城の城主となっています。

兼続は城を改修し、自分の主君である「上杉景勝」の義父「上杉謙信」の社殿を祀り、亡骸を安置しました。つまり米沢城は「伊達政宗生誕地」でもあり、また「上杉謙信を祀る場所」でもあるのです。戦国武将や戦国時代が好きな人にとって、現在の米沢城跡というのは魅力ある城といえます。

摺上原の戦いで奪い居城となった「黒川城」

黒川城は会津領主「蘆名直盛」が1384年に築城した城で、その子孫「蘆名盛氏」が居城としていました。盛氏の時代が黒川家の全盛期です。その黒川家で内紛が起こりました。

当時東北で領土を広げていた政宗はチャンスとばかりに攻め込みます。この「摺上原の戦い」により政宗は黒川城を奪い自身の居城としたのです。

しかし1868年に戊辰戦争が勃発し、旧幕府軍が立てこもりましたが、新政府軍の猛攻に耐えられず、黒川城は攻め落とされました。1874年に廃城となった黒川城は1965年に天守閣を復元し、現在では「鶴ケ城」という呼び名で福島県の観光地となっています。

伊達政宗が築いた城「仙台城」

米沢城も黒川城も、政宗自身が築城した城ではありません。しかしこの仙台城は政宗が奥羽にいた際、自身で築城した城です。仙台城は青葉山の頂上に築城されたことから「青葉城」とも呼ばれています。

山頂には本丸があり、山麓に屋敷が造られ、菊紋や同門で装飾された美しい大手門があった仙台城は、桃山文化の象徴的な城でした。残念なことに空襲により焼失し、その姿を今に見ることはできません。

仙台城は守りの堅い城で、攻め落とされることがないようにいくつもの仕掛けが施されていました。城に続く道も曲がりくねり、敵がやすやすと入ってこれないように計算されていたのです。このような城のつくりから本当は徳川と天下を争うことを想定して築城したのでは?といわれています。

現在、仙台城本丸跡には伊達政宗の雄々しい銅像が立っています。

伊達政宗が晩年を過ごした「若林城」

晩年になると政宗は巨大な堀と高い土塁を誇る、堅牢な城を造りました。それが「若林城」です。しかし当時、江戸幕府は一国一城令が発布されており、城を複数持つことができませんでした。そこで政宗は若林城を隠居した政宗が暮らす屋敷としたのです。

仙台藩はすでに「仙台城」を持っていましたので、城ではなく政宗の屋敷を造るということで、一国一城令に反することもなく築城できました。

政宗は70歳でこの世を去るまで、この城で執務を行い亡くなりました。その後は政宗の遺言通り、政宗が亡くなってから3年経過後、城の堀を残しそれ以外は取り壊しています。城跡には刑務所が建設され、その北側に「若林城跡」と石柱だけ見ることができます。

伊達政宗の「仙台城」と城下町

伊達政宗が「仙台城」を造ったのは1601年です。政宗の死後には二代目藩主「忠宗」が二の丸を造営しています。仙台城は自然の地形をうまく利用し築城された城です。

立地条件をうまく活用し、広瀬川を外堀に利用し堅固な山城を築いたのです。また政宗は城を築城するのと同時に、城下町の造営も始めました。これが現在の仙台の繁栄につながったといわれています。

伊達政宗が築城した「仙台城」と城下町について詳しく見ていきましょう。

なぜ?仙台城は断崖に作られたのか

仙台城の本丸が築城されたエリアは、東側に広瀬川を望む断崖、西には「御裏林(おうらばやし)」と呼ばれた山林、さらに南を龍ノ口渓谷(たつのくちけいこく)が囲んでいます。こうした厳しい地形が自然の要塞になったのです。築城するのは非常に難しかったと想像されますが、断崖に作ることで、周囲に要塞となるような建物などを造る必要もなかったでしょう。

仙台城本丸は1600年に縄張りを行い、1601年より着手され、1602年に一応完成となったと伝えられています。政宗が亡くなったのち、2代目藩主の「忠宗」により山麓部に二の丸が造営されています。二の丸は幕末まで、仙台藩政の主軸となりました。

明治の廃藩置県以降は明治政府の管轄となり、本丸は明治の初めごろに取り壊され、二の丸は軍の施設として利用されていましたが、1882年に火災で焼失しました。

「仙台城」から始まった仙台の繁栄

政宗は厳しい自然の形状をうまく利用し仙台城を築城し、それと同時に「城下町」の造営に着手しました。政宗は東西を走る「大町通り」と南北に走る「奥州街道」の交差地点「芭蕉の辻」を町割りの基準とします。

大町通りと奥州街道という2つの幹線道を軸として、仙台城の城下町は「碁盤の目」のように区画し、人々が生活しやすいように暮らすエリアを区分したのです。

仙台城にほど近い広瀬川周辺に、政宗重臣の武家屋敷を置きました。2つの幹線道路に沿って商人が暮らす町人地とし、その周辺を中級から下級の武家地としたのです。城下町のはずれには寺社のエリア、また職人の町人地もつくりました。

現在でも武家町の名残として、武家地であった「丁」が付く地名が残されています。

「仙台城」と「若林城」2つの城下町

政宗が築城した城は「仙台城」以外にもう1つあります。政宗の晩年の居城であった「若林城」です。1628年に築城された若林城は一国一城令により城ではなく「屋敷」としていましたが、しっかりとした堀と土塁で造られたまさしく「城」の様相を持っていました。

若林城周辺の城下町の整備が進行すると、政宗は仙台城と同じように周囲に武家屋敷を建築し、そこに一部の町民も移り住みました。屋敷として幕府に伝えてあったものの、完全に城として機能していたようで、「若林町奉行」が置かれていたといわれます。

政宗の死後は廃城となったのですが、政宗が整備した仙台城下の大きな城下町と、若林城下の小さな城下町は当時6万人あまりの人々が暮らす一代城下町だったと伝えられています。

伊達政宗が作った「四ツ谷用水」と城下町

仙台城は自然の形状をうまく利用した堅固な城ですが、その平野部に広がる城下町は、「洪水」や「津波」の被害が想定されるエリアでした。そこで政宗は段丘地形を選定し城下町を造ったのです。しかし段丘地形に城下町を造ったことで出てきた問題が「水不足」でした。

そこで政宗は広瀬川の上流に「取水口」を造ります。その取水口を利用し城下町に水を供給する用水路を開削しました。この用水路が「四ツ谷用水」です。広瀬川と梅田川の本流から3本の支流に分かれ、さらに複数の枝流に分かれた水は城下町を縦横に走り、その総延長は44キロもあったそうです。

生活用水や農業用水以外にも、水車の動力、さらには低地での排水の機能も果たしたといいますから、まさしく四ツ谷用水が当時の城下町を支えていたといえるでしょう。

仙台城と城下町|現在の町名でわかる城下町

仙台城の周辺には城下町が広がっていたのですが、現在の仙台市若林区の町名を見ても、当時の城下町がわかります。

  • 五十人町(ごじゅうにんまち)
    足軽五十人衆が居住していた
    間口が狭く奥深い足軽屋敷の町割りが今も受け継がれている
  • 畳屋丁(たたみやちょう)
    畳職人が住んでいた
  • 堰場(どうば)
    北に石名坂、東に舟丁が接していた広瀬川岸の一帯
    広瀬川をせき止め水をひいた六郷堰・七郷堰があった
  • 西新丁・東新丁(にししんちょう・ひがししんちょう)
    西新丁は寺屋敷、東新丁は御小人衆の屋敷があった
  • 舟丁(ふなちょう)
    水運の仕事をしていた足軽の舟衆が暮らしていた
  • 元茶畑(もとちゃばたけ)
    日当たりがよく藩の茶畑として利用されていた
    茶畑廃止後は侍屋敷となったため元茶畑となった

伊達政宗はどんな人?

伊達政宗と城、そして城下町について紹介してきましたが、伊達政宗という人物がどういう人だったのか、少し解説します。

出羽国の大名「伊達輝宗」と正妻の子として生まれた政宗は、伊達家の跡取りとして武芸・学問のほかにも様々な教育を受けたといわれています。5歳の時に天然痘により右目を失い、後に独眼竜と呼ばれるようになりました。

摺上原の戦いにおいて武勲をあげ、広大な領地を手に入れた政宗は「天下統一」の夢を持っていましたが、その夢がかなうことはありませんでした。

晩年は徳川家を支え、徳川家康から高い信頼を得ています。家康は死の間際に「これからの徳川家を頼む」と政宗に言葉を残したほどです。三代目将軍の徳川家光も政宗のことを「伊達の親父殿」と呼び、謁見する際には脇差しの帯刀を許したといわれています。

政宗は将軍たちから信頼され、70歳で世を去りました。武将としては長く生き、仙台藩主となり長くお家を守り、現在の仙台市繁栄の基礎となった城下町を整備するなど、特に仙台市にとって多大な功績を残した武将といっていいでしょう。