「尾張の大うつけ」
このように称されていた織田信長。
「うつけ」とは「愚か物」「常識外れ」という意味がありますが、皆さんは織田信長の性格にどのようなイメージがありますか?
本記事では、織田信長の性格を多角的な視点で紹介していきます。
「織田信長の性格をもっと理解したい!」
「意外な織田信長の素顔を知りたい!」
という人はぜひ最後まで読んでいただき、織田信長の性格を広く、深く知ってください。
織田信長の性格は怖い?合理主義?
織田信長は怖いのか?それとも合理的な一面があるのか?
様々なメディアを通じて信長の怖さは印象づけられていますが、企業の経営者などリーダーの立場にある人達は、「尊敬する人物」「リーダーとして参考になる人物」として織田信長の名をよくあげます。
それは信長が前例や慣習を打破し、新秩序を形成する革新的なリーダーとしてのカリスマ性があるからでしょう。
前例や慣習にとらわれない姿勢や、天下統一を目指す中で実行した合理主義的な政策や野心は、経営者の目には魅力的に映るようです。
革新性と前衛的な思考
信長の革新性を表す戦いと言えば、当時最強と言われた武田軍を破った長篠の戦い。
この戦いで、信長は火縄銃の弱点を克服する「鉄砲三段撃ち」や、最強騎馬軍を食い止める「馬防柵」を設置して戦ったと言われ、これまでに無かった新しい戦術を生み出します。
また、人々が市や座に縛られず自由に商売できるようにした「楽市・楽座」や、関所の撤廃は、金や物、人の流通を活性化させました。
こうした戦術や政策に信長の革新性と前衛的な思考が見えます。常識にとらわれず、新しいシステム・政策を生み出し、人々に富をもたらす思考はまさしくリーダーに必要な素養。
各分野のリーダーたちが「尊敬する人物」として信長の名前をあげるのも納得です。
無類の野心と天下統一への執着
なぜ信長は天下統一を目指したのでしょうか?
延暦寺の焼き討ちや家臣へ残虐な仕打ちをしたり、信長包囲網の抵抗を受けたりしてもなお、天下統一への道を突き進んだのでしょうか?
信長の天下統一への思いの根底には、「日本を変えたい、新しい日本を作りたい」という無類の野心があったのでしょう。
ここにもリーダーに必要な素養が見えますね。
強い信念とともに、権威や反乱を恐れずに突き進む信長だからこそ、斬新で機能的な戦術・政策を生み出していきました。
しかし、あまりにも強すぎる天下統一への執念のあまり、信長のカリスマ性を否定する明智光秀のような家臣や対抗勢力が多くいたことも事実です。
織田信長の宗教に関わる性格
信長の性格を解説する中で、信長と「宗教」との関わりは外せません。仏教徒を弾圧する一方で、キリスト教には寛容な姿勢を示した信長。
その裏にある信長の性格をここからは紹介していきます。
仏教徒を弾圧
信長が仏教徒を弾圧したとする代表的な出来事が「比叡山延暦寺の焼き討ち」。
比叡山延暦寺は平安時代に最澄によって開かれて以降、政治的にも、武力的にも強大な権力をもっていました。当時、その強大な権力のおごりに、僧たちは修行を怠り、飲酒や姦淫、肉食などの悪行がはびこっていました。
信長はこうした延暦寺の古い権力と仏教徒の堕落ぶりが許せず、延暦寺を焼き払ったと言われています。既存権力や腐敗に厳しい信長の性格が現れていますね。
信長が現在の日本の総理大臣になったら、どんな政策をするのでしょうか?
延暦寺焼き討ちには、古い権力を打破し、自分自身の力で新しい秩序を形成するという信長の考えが表れています。
キリスト教を保護
仏教徒を弾圧する一方で、キリスト教を保護していた信長。
宣教師の布教活動を許した理由は主に2つあります。
・宣教師がもたらす南蛮文化に興味があった
・仏教徒に対抗するため(新勢力の秩序)
キリスト教を保護する信長には、「良いものは良い」「自分にとって益のあるものはすぐに取り入れる」といった合理的な思考が垣間見えます。
また、南蛮人は当時の日本人からしたらとても奇妙な存在であり、怖さもあったでしょう。見ず知らずの人が意味がわからない宗教を進めてきたら、警戒しますよね?
しかし、南蛮人やキリスト教も「天下布武」の枠組みに入れようと信長が考えていたとしたら、かなり寛大な姿勢ではないでしょうか。
信長の合理的な性格が宗教政策に対しても見られます。
外国人から見た織田信長の性格
信長は、当時の外国人からはどのように映っていたのでしょうか?
ポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスが『日本史』の中で、信長に関する記述を残しています。
今回は信長の性格に関する部分を抜粋しました。
やはり信長には二面性があるようです。
怖い一面
・とても性急で激昂はするが、平素はそうでもなかった。
・対談で長引くことやだらだらした前置きを嫌った。
・自分への侮辱は許さず、懲罰せずにはいられなかった。
・家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず、一同から畏敬されていた。
出典:ルイス・フロイス『日本史』
ドラマでも度々見られる一面ですね。信長ファンは信長の表情や仕草、声色などが思い浮かぶのではないでしょうか。
リーダー的な一面
・極度に戦を好み、軍事的鍛錬にいそしみ、名誉に富み、正義において厳格だった。
・戦運が悪くても心持ちが広く、忍耐強かった。
・困難な企てに着手するときは極めて大胆不敵だった。
出典:同上
鍛錬、厳格、忍耐、大胆不敵といった戦国時代のリーダーとして信長が優れていた記述も散見されます。信長はリーダーに必要な資質を備えており、外国人から見ても稀代のリーダーとして評価されていたようです。
織田信長の意外な性格
これまで、信長の「残虐な冷酷さ」や、革新的・合理主義的な性格を中心に述べてきました。
しかし、意外な一面を信長はもっているようです。
先述したルイス・フロイス『日本人』の中にも、「いくつかの事では人情味と慈愛を示した。」という記述があります。
「人情味と慈愛・・・」
信長のイメージからは、全く想像できない言葉ですね。
ここからは、信長の意外な性格について紹介していきます。
情に厚く家臣を惜しむ一面
長篠の戦いでは、身分の低い足軽でありながらも自分の命を犠牲にして長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為に、信長が感銘を受けたエピソードがあります(2023年の大河ドラマ『どうする家康』では岡崎体育さんが鳥居強右衛門を演じていました)。
鳥居強右衛門の忠義心を称えるために、信長自ら指揮して立派な墓を建立させたと伝えられています。
家臣に厳しいイメージのある信長ですが、情に厚い一面もありますね。
加えて、鳥居強右衛門は足軽という低い身分です。身分の上下に関係なく、恩に報いる行為が新しい時代のリーダーである信長らしいです。
茶の湯で心を静めていた
茶の湯は政治的な場、戦の多い乱世で心落ち着ける場として、戦国時代に大ブームでした。今でいう「整う」体験を、茶の湯で実践していたのでしょう。
信長もその一人。
特に信長の場合は、茶道具を各地から収集する「名物狩り」をしていました。そして、信長は茶道具の価値を高め(今でいうブランディング)、茶道具を一国と同等の価値に高めたのです(千利休が認めた茶道具は価値がとても高かったそうです)。
功労のあった家臣には茶道具を与え信頼関係を築きました。また、茶会の開催も許可した家臣に認めるシステムでしたので、茶の湯は当時の戦国武将の重要なステータスになりました。
信長は時流を読む天才でもありました。