織田信長は「戦国の覇王」や「三英傑」の1人として、今も現代人に強烈なインパクトを与え続けています。天下統一を目指して戦国時代を駆け抜けた彼の生きざまは、多くの人々を惹きつけてやみません。
この記事では織田信長の家系図を取り上げ、彼のルーツや兄弟姉妹、子孫などについて徹底解説していきます。織田家の家系図を通じて信長の出自や一族の歴史を見ながら、戦国のヒーロー・織田信長についてより深く理解していきましょう。
織田信長の家系図
織田信長の家系図を見ると、尾張の下級武士だった織田家が、天下に大きな影響を及ぼすに至った過程がうかがい知れます。
父の信秀は、尾張国内の商業都市である津島や熱田を掌握して経済基盤を確立し、織田家を尾張の有力勢力に育て上げました。一方で、駿河・遠江・三河を支配する今川義元や、美濃の斎藤道三とも抗争を繰り広げています。
信長の妻で知名度の高いのが、正室の帰蝶(きちょう)です。信秀と道三が和解した際、政略結婚で信長に嫁いでいます。また、側室に生駒吉乃(きつの)もいて、信長と彼女の間には信忠と信雄が生まれました。
信長の兄弟姉妹で有名なのが信勝(信行)です。「うつけ」と呼ばれた信長に不安を抱いた家臣たちに擁立される形で、兄と尾張の支配権をめぐって争いました。また、異母弟の長益(ながます)は千利休の弟子の茶人として知られています。
さらに、妹のお市は近江の浅井長政に嫁ぎ、茶々(淀殿)・お初・お江の3人の娘を生んだことで有名です。
信長には子供も多くいて、中でも信忠・信雄(のぶかつ/のぶお)・信孝の3人が知られています。長男の信忠は父に従って各地を転戦し、1582年の甲州攻めで武田家を滅ぼしました。
また、次男の信雄は信長死後の織田家の事実上の後継者として、簒奪を狙う羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いで争っています。さらに、三男の信孝は信長より四国攻めの総大将に任じられたものの、本能寺の変後に悲劇的な最期を遂げました。
織田信長の出自と家系の起源
織田信長の直接の家系は、尾張守護代織田家の家臣である織田弾正忠(だんじょうのじょう)家です。しかし、よりさかのぼっていくと、越前の劔神社にルーツが求められます。
信長の家系のルーツを知ることは、信長の祖先がどこから来たのかや信長が生まれた織田家について理解する上で欠かせません。信長の父・信秀の事績とともに、信長の出自や家系の起源を見ていきましょう。
織田家の歴史
織田家の家系は、越前の劔(つるぎ)神社の神官が起源とされています。信長が越前を支配した際に劔神社を庇護したことや、神社にある1575年の『柴田勝家諸役免許状』中の「殿様之御氏神」の文言が根拠です。
室町時代の14世紀後半、劔神社の神官だった藤原信昌が越前守護の斯波(しば)家に仕えます。続いて、信昌の孫である常松(じょうしょう)が尾張守護代に任じられた際、先祖代々の地である織田荘にちなんで「織田家」と名乗りました。
1467年に起きた応仁の乱で斯波家は分裂し、織田家も岩倉織田家と清洲織田家に分かれます。やがて、清洲織田家も乱世の中で衰退する一方で家臣たちが台頭し、後に信長を輩出する弾正忠(だんじょうのじょう)家も力を持つようになりました。
「尾張の虎」と呼ばれた織田信長の父親
織田信長の父親が、「尾張の虎」と呼ばれた信秀です。1511年に尾張勝幡(しょばた)城主・織田信定の長男として生まれ、1516年頃に家督を相続しています。
信秀が家督を継承した頃、織田家は日本有数の貿易港だった津島湊を掌握していました。信秀は強力な経済基盤を背景に勢力を拡大し、1538年には那古野城を落とします。続いて翌年には古渡城に居城を移すとともに、熱田神宮の門前町でもあった熱田湊も掌握しました。
一方で、尾張を狙う駿河の今川義元や美濃の斎藤道三とも抗争を繰り返します。しかし、次第に義元や道三の前に劣勢となったため、1549年に信長と道三の娘・帰蝶の政略結婚を条件に道三と和睦しました。信秀は敵を今川家一本に絞ることに成功しましたが、1552年に病のために42歳で世を去っています。
織田信長の兄弟姉妹と直系子孫
ここでは、織田信長の兄弟姉妹や直系子孫について紹介しましょう。兄弟姉妹の中には兄の信長に反逆したことで知られる信勝や、近江の浅井長政に嫁いだことで知られるお市がいます。また、直系子孫には後に織田家の家督を継ぐ信忠や、織田家の血筋を後世に繋いだ信雄などが有名です。
信長の兄弟姉妹や子孫について知ると、信長の生涯についてより深く知ることができます。
織田信長の兄弟姉妹
織田信長の兄弟姉妹の中で、特に有名な人物は以下の通りです。
- 織田信長の兄弟姉妹
- 織田信勝(信行):1536(?)~1558
- 織田長益(有楽斎):1547~1622
- お市:1547~1583
信勝(信行)は信長のすぐ下の弟で、品行方正な人柄だったとされています。兄が家督を継いだ際は協力的でしたが、1556年に反信長派に擁立されて反旗を翻しました。その後兄に敗れて一度は許されたものの、再度謀反を企んだために1558年に信長に殺害されます。
続いて、長益は信長の腹違いの弟です。武将というより文化人や茶人として知られています。信長の長男信忠を補佐し、本能寺の変後は信雄や秀吉に仕えました。後に出家して「有楽斎(うらくさい)」と名乗るとともに、千利休の元で茶も学んでいます。なお、東京の有楽町が彼の屋敷があった場所に由来するという説は有名です。
さらに、お市は信長の妹で、「絶世の美女」として知られていました。信長の勢力拡大の一環として近江の浅井長政に嫁ぎ、茶々・お初・お江の3人の娘を生んでいます。やがて、1573年に長政が信長と敵対した末に滅びると、お市は娘たちを連れて織田家に戻りました。本能寺の変後は織田家重臣の柴田勝家と再婚したものの、勝家が賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れると、勝家の居城である越前北庄城で自害しています。
織田信長の子供たち
続いて、信長の子供たちで特に有名な人物は、以下の通りです。
- 織田信長の子供たち
- 織田信忠:1557~1582
- 織田信雄:1558~1630
- 織田信孝:1558~1583
信忠は信長の長男で、元服後は父に従い1574年の長島一向一揆攻めや1575年の長篠の戦いなどに参加しました。長篠の戦い後には美濃岩村城を攻め落とし、1576年には父から織田家の家督を譲られます。
家督相続後は美濃や尾張の統治を任されつつ、1577年の松永久秀討伐や、1578から79年にかけての有岡城の戦いなどで功績を挙げました。1582年の甲州攻めでは父に先駆けて武田領に攻め入り、武田家を滅ぼします。同年6月には父と毛利攻めに向かうために京都の妙覚寺に入るものの、そこで本能寺の変が起こりました。信忠は二条御所で父に背いた明智光秀を迎え撃ちましたが、追い込まれた末に自害します。
続いて、信雄は信長の次男で、1569年に信長に降伏した伊勢北畠家の養子になりました。本能寺の変後は羽柴秀吉に接近したものの、まもなく秀吉と対立します。そして、1584年に徳川家康と手を組んで小牧・長久手にて秀吉と争いました。
小牧・長久手の戦い後は秀吉に臣従したものの、1590年の小田原攻め後に秀吉の国替え命令を拒んだため、領地を没収されます。やがて、家康が天下を掌握した後は、大和松山藩主となり余生を送りました。
さらに、信孝は信長の三男です。1568年に信長が伊勢北部を平定した際、地元豪族の神戸具盛(かんべとももり)の養子になっています。武将としては1574年の長島一向一揆攻め以降、越前一向一揆平定戦や雑賀攻めなどで功績を挙げました。
1582年には四国攻めの総大将に抜擢されたものの、出陣前に本能寺の変が起きます。変事による混乱で麾下の軍は四散したため、光秀と争った山崎の戦いでは主導権を羽柴秀吉に握られました。光秀の滅亡後も秀吉は織田家の実権を握ろうと動いたため、信孝は秀吉と対立する柴田勝家と手を組んで挙兵します。やがて勝家が秀吉に敗れて滅びると信孝も降伏したものの、秀吉の命で切腹させられました。
家系図からわかる織田家の影響力
織田家の家系は後世にも強い影響を及ぼしています。特に信長の妹・お市が浅井長政との間にもうけた3人の娘のうち、長女の茶々は豊臣秀吉の側室に、三女のお江は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に嫁ぎました。
茶々は秀吉の寵愛を受けて2人の子を出産し、2番目の秀頼は秀吉の後を継ぎます。一方のお江も秀忠との間に数人の子をもうけ、うち長男の家光は3代将軍として江戸幕府の繁栄期を築きました。
信長の子供でも次男の信雄や七男の信高が子孫を残しています。信雄の子のうち四男の信良や五男の高長の末裔は、丹波柏原藩や出羽天童藩の藩主となり、明治維新を迎えました。
天下人の血筋にさえ影響を及ぼしている分、信長を含む織田家の影響力は戦国時代以降も強く残っています。