「伊達政宗」は「独眼竜政宗」の異名で知られる戦国武将です。
出羽国出身で、のち仙台藩初代藩主となって東北地方を繁栄にさせました。
伊達政宗には複数の妻がいましたが、この記事では正妻の「愛姫(めごひめ)」に注目しています。
天正7年(1579年)に12歳で伊達家と政略結婚した愛姫。
愛姫が辿った人生は数奇なものであり、それは伊達政宗の人生にも影響を与えました。
伊達政宗と愛姫の関係性、その子供、そして二人の一生はどういったものだったのでしょうか。
伊達政宗の妻、愛姫とは?どんな人物?
愛姫(めごひめ)は、1568年(永禄11年)に田村清顕の一人娘として誕生。
愛姫の「めご」というのは、東北地方の方言で「可愛らしい」という意味が込められています。
1579年(天正7年)に12歳で政略結婚として伊達政宗の元に嫁ぎました。
伊達政宗との関係は、又従兄弟に当たります。
そうして伊達政宗の正妻となった愛姫は、どんな生涯を送ったのでしょうか。
愛姫の一生
愛姫の人生は波乱に満ちたものでした。
愛姫が嫁いだ直後、伊達政宗への暗殺未遂事件が起こってしまいます。
伊達政宗はこれを田村家(愛姫の生家)からの内通者と関係があったと疑い、報復で愛姫の乳母が殺害されました。
加えて愛姫に付いていた侍女達も死刑にされ、これによって一時夫婦仲が悪化したと伝えられています。
その後夫婦仲は修復され、愛姫は京都聚楽第の伊達屋敷に移ってから4人の子供をもうけました。
伊達屋敷に住み始めた理由としては、先に天下を取った豊臣秀吉が命じた「奥州仕置」のためです。
豊臣秀吉は、京都に大名の妻子を住まわせて人質とし、反乱を防ごうとしたのです。
伊達屋敷に移り住んだ後も、愛姫は外交官的役割を務め、京都の情勢を伊達政宗に伝える役目を果たしていました。
そういった中、愛姫が伊達政宗に送った手紙として有名なものが以下になります。
「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ。」
伊達政宗の身を案じながらも、聡明で高潔な精神を持っていた女性だということが伝わる手紙です。
その後「関ヶ原の戦い」、「大坂冬の陣・夏の陣」の合戦を経て天下は豊臣家から徳川家へと移りますが、愛姫は変わらず江戸で人質生活を送りました。
伊達政宗と愛姫の間に生まれた子供
伊達政宗と愛姫の間には4人の子供が生まれました。
五郎八姫、伊達忠宗、伊達宗綱、竹松丸と名付けられます。
伊達忠宗はのちに伊達政宗を継いで仙台藩の第2代藩主に、伊達宗綱は岩ヶ崎伊達家の初代当主となりました。
五郎八姫は、伊達政宗が愛姫を正室に迎えて15年目にできた待望の第一子です。
残念ながら跡継ぎとなる男子ではありませんでしたが、五郎八姫という珍しい名前には意味が込められています。
当時、次に男子が生まれることを願って、女子に男子名を付けて願掛けをするという風習があったためです。
もしかしたらそれが功を奏したのか、長男の伊達忠宗が生まれました。
末子の竹松丸を出産したとき、愛姫は42歳で超高齢出産をしますが、竹松丸は病のため7歳の若さで亡くなっています。
伊達家と田村家の関係
田村家は東北地方を支配していましたが、家臣の裏切りなどにより敵味方が入れ替わるなど非常に不安定な状況に置かれていました。
元々、東北地方は隣国の佐竹氏や蘆名氏、相馬氏などとの戦が絶えない土地でもあります。
田村家は自分の領地を守るために策を講じる必要がありました。
それぞれの家は戦に備えて、他の家からの援助を受けるために互いの家同士で婚姻関係を作りました。
田村家も例外ではなく、東北地方で強い勢力を持っていた伊達家との婚姻関係を結んだのです。
そして、田村家は伊達家という大きな後ろ盾を得たのでした。
愛姫の生家である田村家とは、具体的にどういった家なのでしょうか。
田村家とは
田村家は、蝦夷討伐の際に活躍した坂上田村麻呂を先祖とされており、その子孫が代々東北地方を領してきたとされる名家です。
大元帥明王を鎮守とし、城下町の基盤を作りました。
田村家は元々小さな国の領主でしたが、一族をまとめて東北地方を統一後、勢力を強めて戦国大名となりました。
他の勢力に対して田村家は武士団を作りましたが、古文書に「御春輩(みはるのともがら)」と呼ばれた武士団の記述があります。
加えて、田村家の領地を発掘すると、瀬戸や常滑、中国の焼き物の破片が多数見つかりました。
そのことから、田村家の領地には武士の他にも多数の庶民が住んでいたことが伺えます。
東北地方を大きく支配するだけではなく、城下町を繁栄させて東北地方を活性化させたのが田村家と言えます。
政略結婚の流れ
田村家は伊達家からの後ろ盾を得るために婚姻関係を結びますが、それが伊達政宗と愛姫です。
愛姫は田村家の一人娘で、元々は婿をとって跡継ぎとなるべき人物でした。
しかし、田村家の本拠地である田村城を敵に囲まれた際、どうしても他家からの支援が必要になります。
そして、強い勢力を持つ家として選ばれたのが伊達家でした。
伊達政宗と愛姫の仲はどうだった?
伊達政宗は血気盛んで荒々しいイメージがある戦国武将ですが、正妻を生涯愛し続けたという一面もあります。
愛姫は容姿端麗でおしとやか、上品な立ち振る舞い、和歌にも秀でていました。
歳が近かったのもあり、伊達政宗はそういった愛姫に心惹かれていったようです。
また、伊達政宗自身も詩歌を愛するなど繊細な面を持ち合わせており、そういう部分でも通ずるものがあったと思われます。
伊達政宗は7人ほどの側室がいたと言われていますが、その中でも愛姫を特別に愛しました。
子を身ごもった愛姫の体を気遣う手紙を多数送るなど、愛姫への愛情が垣間見えるエピソードが残されています。
結婚のきっかけは政略結婚ではありましたが、二人はどういった結婚生活を送ったのでしょうか。
離ればなれの結婚生活
愛姫は豊臣秀吉による「奥州仕置」により人質生活を送っていました。
江戸幕府の成立後も、徳川家康などの将軍によって江戸で人質としての役割を求められ続けました。
これは当時において、伊達家の正妻である愛姫という存在が非常に大きかった証拠になります。
愛姫は人質生活を余儀なくされたため、伊達政宗の正室という立場ながら、生涯伊達政宗の領地には足を踏み入れたことがなかったとされています。
伊達政宗は「参勤交代」により1年ごとに江戸と自らの領地を行き来し、愛姫と時間を共にする時間はとても少ないものでした。
しかし、愛姫と暮らしていた伊達忠宗に向けて、頻繁に愛姫の健康状態を尋ねる手紙を送っていました。
離ればなれの生活ではありましたが、伊達政宗は愛姫の身を案じ、愛し続けていたようです。
臨終の際に拒否された愛姫
人生の大半を人質として過ごすことを余儀なくされた愛姫ですが、1636年(寛永13年)に伊達政宗が先に亡くなってしまいます。
伊達政宗は亡くなる前に頻繁に体調を崩すようになっており、自他共に最期の時を予感させるような状態でした。
そのため、愛姫は頻繁に見舞いの申し入れをしますが、伊達政宗はそれを許可しませんでした。
その理由は、「自分の姿が見苦しくて見せられたものではない」「武士が女子供に囲まれて死ぬのは本望ではない」というものです。
この言葉に愛姫は落胆し、「一目会わせてほしい」と嘆願しましたが、それが叶うことはありませんでした。
伊達政宗は最期まで武士としての誇りを忘れない人物でした。
そして、伊達男だった夫の真意を愛姫も心得ており、遠い地で夫を見送ったのかもしれません。
伊達政宗死後の愛姫
伊達政宗が亡くなった後、愛姫は伊達政宗の遺言に従い、実物大の伊達政宗像を作ることを家臣に指示しました。
伊達政宗は幼少期の病気で右目が見えなくなっていますが、今までは「片目をなくしたことは親不孝になる。」と両目がある状態の自画像を描かせていました。
しかし、愛姫は「伊達政宗のありのままの姿を残したい」と思い、初めて片目のない伊達政宗像を作らせたようです。
その像は、今も伊達家の菩提寺である瑞巌寺にて大切に保管されています。
晩年の愛姫は、瑞厳寺で仏門に入ることを決意し、落飾して陽徳院と称しました。
住職の雲居希膺の元で仏教を学び、深く帰依したとされています。
愛姫はその間にも知人へと多くの手紙を送っていますが、以前と変わらず慈愛に溢れた内容のものでした。
その後、愛姫は1653年(承応2年)に天寿を全うしました。86歳で亡くなっています。
愛姫は、愛する夫である伊達政宗の命日と同じ2月24日に逝去することを望んでいました。
その強い想いが通じたのか、愛姫も2月24日に亡くなったとされています。
生涯のほとんどを人質として過ごした愛姫ですが、離ればなれの夫を想い、身を案じ続ける立派な「武士の妻」でした。
そんな愛姫の優しさに伊達政宗は大きく支えられていたのではないでしょうか。