毛利元就は、一代で中国地方を制覇した戦国大名で「三本の矢」で有名な武将です。

毛利元就が戦国大名になった理由のひとつに、毛利家を支えた家臣団「毛利十八将」の力も関係しました。毛利十八将は、毛利元就の一族の家臣と武士からなる、代表的な武将の呼び名です。

毛利元就が治めた長州藩では、毛利元就は初代藩主として尊敬されていました。毛利家や藩士の家では、毛利元就を最上段の首座に置き、躍進を支えた一門衆と重臣たちも家の格に応じて着席する「座備図(ざそなえず)」が作られたほどです。特別な行事の際は、功績をたたえるために飾られる習慣があったとされています。

毛利元就は十八将とともに、多くの戦いに挑みながら領土を拡大し、中国地方の統一を成し遂げました

この記事では、毛利家十八将として知られる家臣たちの人物像とその活躍についてご紹介します。

毛利元就の家臣|毛利十八将一覧

毛利元就の家臣である毛利十八将を、一覧でご紹介します。

毛利隆元 毛利元就の長男で、毛利家の13代当主。
毛利輝元 毛利隆元の長男で、毛利元就の孫。毛利家の14代当主。
吉川元春 毛利元就の次男。吉川氏の養子となり、家督を相続し当主となる。
小早川隆景 毛利元就の三男。竹原小早川に養子にでて、竹原小早川家第14代当主となる。
宍戸隆家 毛利元就の次女である五龍局を妻に迎え、毛利氏の一門衆となった国人領主であり、安芸宍戸氏の当主。
天野隆重 大内義隆が亡くなった後、毛利元就に忠誠を誓う。
吉見正頼 石見国の三本松城を本拠とした国人領主であり、吉見氏の当主。
児玉就忠 譜代の家臣で行政手腕に長けていた。
福原貞俊 毛利家の筆頭家老をつとめた、宿老である福原広俊の長男。
桂元澄 毛利家の家臣である桂広澄の長男。
志道広良 毛利家の庶家で、代々毛利家当主を補佐していた志道元良の長男で、同じ十八将の口羽通良の父親。
口羽通良 毛利家の家臣である志道広良の息子。家臣のなかでも重臣の位。
国司元相 毛利家の家臣である国司有相の息子。
粟屋元秀 毛利元就の父である毛利弘元の代から付き従っている。
渡辺通 毛利家の家臣である渡辺勝の息子で、同じ十八将の渡辺長の父親。
渡辺長 同じ十八将の渡辺通の息子。
熊谷信直 もともとは、毛利元就と敵対していた武田元繁に従っていた。
赤川元保 毛利元就を支え続けた宿老。
粟屋元親 毛利家の家臣である粟屋元忠の息子。
粟屋元真 家臣以外の情報は不明。
飯田元親 兄である毛利興元の代から付き従っていた。
井上元兼 毛利元就の父である毛利弘元の代から付き従っている。

毛利元就の家臣|一門衆と重臣

毛利家の家臣の編成は、下記の4つに分けられます。

  1. 庶家:領国を支配する以前から服属し、毛利家の血を引いている家族
  2. 譜代:領国を支配する以前から服属し、代々毛利家に仕えている者
  3. 国衆:領国を支配していく過程で服属した、地方の領主や有力な武士
  4. 外様:領国を支配してから服属させた、武士

庶家は毛利元就の時代にほとんど衰退して譜代化し、庶家としての分類は形だけの存在になり、一門衆として代わりました。

以下、一門衆と重臣であった家臣を紹介します。

吉川元春

吉川元春は毛利元就の次男で、母の妙玖の従兄である吉川興経の養子に出ました。その後、家督を占領する形で継承し、当主となります。

「毛利の両川」の一人として、弟の小早川隆景と共に山陰地方の政治と軍事を担当し、毛利家発展の基礎を築きました

厳島の戦いでは、吉川軍を率いて小早川軍と協力し、陶晴賢が率いる大内軍を撃滅します

兄の毛利隆元の死後、その跡を継いだ甥である毛利輝元を、弟の小早川隆景と共に補佐する役目を担い、吉川元春の担当は軍事の従事でした。

小早川隆景

小早川隆景は毛利元就の三男で、竹原小早川に養子に出され、12歳で竹原小早川家の当主となりました。

「毛利の両川」の一人として、毛利家直轄の強力な水軍として活躍します。厳島の戦いでは、陶晴賢が率いる大内水軍を破り、海上を封鎖して毛利軍の勝利に大いに貢献しました

兄の毛利隆元が急死し、甥の毛利輝元が家督を継承すると、兄の吉川元春と共に幼少の毛利輝元を補佐する役目を担います。

小早川隆景は、水軍の情報収集力を活かして、主に政務と外交を担当していました。

宍戸隆家

宍戸隆家の宍戸家は、安芸国の国人として代々毛利家との抗争を続けてきました。ですが、毛利元就の次女である五龍局を妻として迎え、毛利家の一門衆となった家臣です。

宍戸隆家は、毛利元就から毛利輝元の代まで忠実に仕え、吉川元春や小早川隆景らとともに軍事行動をともにしています。

各地の戦功や毛利家への忠誠心から、宍戸隆家は毛利家を藩主とする長州藩の一門筆頭としてたたえられました

福原貞俊

福原貞俊は、毛利家の筆頭家老をつとめた福原広俊の長男です。

父である福原広俊の叔母は、毛利元就の母に当たります。福原広俊は毛利家内で大きな発言力を持ち、福原貞俊も早くから毛利元就に仕えました。

各地を転戦し、その功績や忠誠心によって毛利元就に信頼され、父の福原広俊と同様に、毛利家における筆頭重臣に抜擢されます。

毛利元就の死後は毛利輝元を補佐し、小早川隆景と共に政治や軍事を担当しました。

毛利元就の家臣|家督相続に関わった者たち

毛利元就が後見人となった甥の毛利幸松丸が死去したあと、毛利元就に家督相続を要請した家臣がいました。

家臣の自立性が強く、内部対立が発生している状態の中、毛利元就は当主となります。

以下、家督相続に関わった者たちをご紹介します。

志道広良

志道広良は、毛利元就の兄である毛利興元の代から毛利家の執政を務めてきた家臣です。

弟の毛利元就の優れた資質を早くから見抜き、親交を結んでいました。また、若き毛利元就を、一人前の武将に育て上げた家臣であるとされています。

当主であった毛利幸松丸の死後、志道広良の主導で宿老たちと話し合いが行われ、使者を毛利元就の元に出向かせて家督相続を要請しました。

毛利元就はこれを受け入れ、毛利家の当主となることに同意したのです。

井上元兼

井上元兼は、主に財政面において活躍した家臣です。もともとは毛利家と対等関係の国人でしたが、毛利家との縁組を経て、父である毛利弘元の家臣団に組み込まれ仕えることになりました。

毛利元就の家督相続を要請した際は、井上一族の5人と共に署名し、家臣の中でも井上氏の影響力の大きさがうかがえます

しかし、毛利元就は井上元兼ら井上一族の横柄な振る舞いや、毛利家における影響力や権威の強さを危惧し、一部を除いた一族もろとも粛清しました。

粟屋元秀

粟屋元秀は、毛利元就の兄である毛利興元から付き従い、毛利元就の初陣となった有田中井手の戦いで功績をあげ、毛利元就に重用された家臣です。

毛利幸松丸が死去したあと、当時の粟屋家の当主である粟屋元国と、毛利家の執政である志道広良の指示を受け、神仏詣の名目で上京します。

そこで12代将軍である足利義晴の支持を獲得し、毛利元就に家督を継がせることに成功しました。

毛利元就の家臣|有名な戦いに参加した者たち

毛利元就が中国地方を制覇し、戦国大名になった理由のひとつは、家臣たちの力でした。毛利元就は家臣たちと共に戦い、勝利を収めてきたのです。

以下、その中でも有名な戦いに参加した者たちをご紹介します。

天野隆重

天野隆重は、はじめ大内氏に従属していましたが、大内義隆が陶晴賢の謀反によって殺害されたため、毛利元就に従属した家臣です。

天野隆重の妻は、重臣である福原貞俊の妹だったため、毛利元就からの信頼は厚かったといいます。

ある程度の独立性を維持しながらも、毛利元就に従い、有名な戦いである厳島の戦い周防・長門侵攻作戦など多くの戦いで活躍しました。

口羽通良

口羽通良は、志道広良の息子で、毛利元就に古くから仕えた家臣です。行政手腕に優れていたため、名家老として称されました。

尼子晴久との吉田郡山城の戦いでは、父の志道広良や十八将の桂元澄らと共に、郡山城で毛利元就の側近として参加しています。

桂元澄

桂元澄は、毛利氏家臣の桂広澄の長男として生まれ、毛利幸松丸の代から毛利家に仕えていた家臣です。

厳島の戦いでは、陶晴賢に偽の内応書を送り、陶軍を厳島に誘い込むという功績を挙げました。また、厳島と廿日市周辺の支配と管理に携わったといわれています。

渡辺通

渡辺通は、大内義隆による第一次月山富田城の戦いで、毛利家の家臣として従軍しました。

大内軍は月山富田城を攻めますが苦戦し、尼子軍に追い詰められます。そこで、渡辺通を含む7人の武将が毛利元就の身代わりとなり、奮戦した末に討死しました。

無事に安芸へ帰還した毛利元就は、通の献身に感動し、渡辺家を見捨てないことを誓い、息子の渡辺長を信頼する家臣として重用しました。

国司元相

国司元相は、毛利家の家臣である国司有相の息子として生まれ、毛利家に仕えました。

尼子氏との吉田郡山城の戦いで、尼子方を打ち破る功績を挙げます。また、月山富田城の戦い厳島の戦いでも活躍し、毛利元就と共に数々の合戦を戦った名家臣でした。

赤川元保

赤川元保は、吉田郡山城の戦い一次月山富田城の戦い、そして厳島の戦いに従軍した家臣でした。

しかし、毛利元就の長男である毛利隆元が急死した際に、赤川元保が関与している疑いが生じます。

毛利元就が話し合いを求めても登城しなかったため、赤川元保に自刃を命じ、赤川元保はこれを受け入れ命を落としました

毛利元就の家臣|敗れたのちに仕えた者たち

毛利元就の家臣には、戦いに敗れたのちに仕えた者たちが存在しました。
そのうちの2人を、ご紹介します。

吉見正頼

吉見正頼は、大内義隆から厚く信任を受けていた大内家の家臣でした

大内義隆が重臣の陶隆房の謀反によって討たれた際、吉見正頼と陶晴賢は同じ大内家臣でありながら敵対関係にありました。

吉見正頼は毛利元就と裏で交渉し、決起を促します。

大内氏が滅ぶと、吉見正頼は毛利元就の家臣となり、その清廉な性格で毛利元就から厚い信頼を受けることとなりました。

熊谷信直

熊谷信直の父は武田元繁で、有田中井手の戦いで毛利元就が率いる軍に討たれました。

この出来事により毛利家との対立は深まりましたが、大内軍を打ち破ったあと、熊谷信直は父の仇である毛利元就の指揮下に入ります

毛利元就の戦いぶりを目にし、熊谷信直は毛利元就に対する認識を変え、和解へとつながったのです。

のちに、熊谷信直は娘の新庄局を毛利元就の次男である吉川元春に嫁がせ、毛利家との関係を強化し、一門衆として扱われるようになりました