戦乱の世を駆け抜けたどのような武将でも、人生の終わりが必ずやってきます。

「土佐の出来人」と呼ばれ、その智勇を以って土佐(現在の高知県)平定を成した長宗我部元親も、例に漏れず晩年を迎えます。

そして元親の最期は、織田信長に代表されるような凄絶な死ではありません。

この記事では、長宗我部元親の死因と晩年、元親の生涯や参戦した戦などを紹介しています。

南海の王を夢見た武将の最期は世間に知られていないため、元親の晩年に興味がある方は参考になることでしょう。また、元親の2人の妻や子どもたちの末路も併せて解説しています。

元親だけでなく、長宗我部家の行く末が気になる方は、是非、最後まで読んでみて下さい。

長宗我部元親の死因と最期

激動の時代を駆け抜けた長宗我部元親は、武力だけでなく、外交や政略も駆使して土佐統一を成し遂げました。

「土佐の出来人」と呼ばれた元親の死因と晩年を紹介します。

長宗我部元親の晩年

長宗我部元親は、九州征伐における長男・信親の死がきっかけで人が変わったようになりました。

それまでは「誠実で人情深く、誰に対しても横柄な態度をとらない」と言われていた元親ですが、信親の死後、家臣の諫言を聞かずに家督相続を強行します。

二男・親和、三男・親忠が健在であるにも関わらず、四男の盛親を次期当主にしてしまいました。家臣から反対意見が上がることは想像に難くありません。

しかし、元親は反対した家臣のみならず、その親族まで粛清を行うなど野蛮な振る舞いを見せます。

この出来事が長宗我部家を衰退させる原因と言われており、家督の和を混乱に陥れた晩年であったと言えるでしょう。

慶長4年(1599年)に体調を崩した元親は、同年5月、京都にある伏見邸にて亡くなりました。

長宗我部元親の生涯

天文8年(1539年) 長宗我部国親の長男として土佐国で生を受ける
永禄3年(1560年) 長浜の戦いにて初陣、本山家を撃破後、長宗我部家第21代目当主となる
永禄11年(1568年) 本山親茂を撃破、土佐中部を平定する
永禄12年(1569年) 八流れの戦いにて安芸国虎を撃破、土佐東部を平定する
天正3年(1575年) 四万十川の戦いにおいて一条兼定を撃破、土佐統一を果たす
天正10年(1582年) 本能寺の変が勃発、同年に中富川の戦いにおいて三好家を撃破して阿波国を支配する
天正12年(1584年) 小牧・長久手の戦いにおいて仙石久秀を撃破、讃岐を支配する
天正13年(1585年) 河野家を降伏させ四国統一を果たすが、豊臣勢に敗北、土佐一国を安堵される
天正14年(1586年) 九州征伐の際、戸次川の戦いにおいて島津軍に敗走、長男・信親が討たれる
天正16年(1588年) 元親の強引な家督相続により、四男・盛親が22代当主となる
慶長4年(1599年) 現在の京都市伏見区にある伏見屋敷にて死去(享年61歳)

幼少期から初陣

長宗我部元親は、天文8年(1539年)に土佐国(現在の高知県)で生まれました。

長宗我部氏20代当主、長宗我部国親の長男として生を授かった元親の幼少期は、肌の色が白く、物静かな性格であったため周囲から「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれていました。

各国がしのぎを削る戦国時代において、将来を嘱望されなかった元親は、ほかの武将から下に見られていたのです。

しかし、その評価は元親の初陣となる長浜の戦いで一変します。

同じ土佐豪族の本山氏と相対した長宗我部氏は、元親の武功によって勝利を手にしました。元親は、家臣から武器の扱いと戦場における心得の手ほどきを受けたのち、次々と敵将を撃破したのです。

このことから元親を馬鹿にするものはいなくなり、周囲から「鬼若子」(おにわこ)と呼ばれ慕われるようになりました。

土佐統一

長浜の戦い以後、父・国親の病死によって21代当主となった元親は、土佐全土の掌握を視野に入れます。

当時、長岡郡のみ治めていた長宗我部氏ですが、永禄11年(1568年)に本山氏を撃破したことで土佐中部を制圧、永禄12年(1569年)には土佐東部を治めていた安芸国虎を「八流れの戦い」において撃破しました。

次々に豪族たちを打ち倒していった元親は、土佐西部を支配する一条氏に狙いを定めます。長宗我部氏を含む土佐七雄の最大勢力とされており、土佐平定を成すには避けられない相手です。

しかし、いざ開戦してみると元親軍の兵力と知略が功を奏し、元親軍の圧勝となります。こうして長宗我部氏は土佐平定を達成し、歴史に残る武将として後世まで知られるようになりました。

長宗我部家の末路

長宗我部元親は61歳で亡くなりましたが、妻子の末路はどのようなものだったかを解説します。

まずは斎藤利三の縁者であり、石谷光政の娘でもあるお由です。彼女は元親の正室で、元親との間に8人の子をもうけていますが、その末路は未だ不明となっています。

元親の継室で五男・右近大夫の母である小少将も、その結末は明かされていません。

続いて、元親の子どもたちです。

長男・信親は九州征伐で討死にしてしまい、二男・親和は家督相続から漏れたのち病死、三男・親忠は、弟の盛親に暗殺されます。

元親の四男で22代当主の盛親も、大坂の陣で敗走したのち、五男・右近大夫とともに非業の死を遂げてしまいます。しかし、盛親の三女が伊達家に召し抱えられたり、六男・康豊も酒井家に仕えたことから、死を免れた者もいました。

長宗我部家が参戦したおもな戦

永禄3年
(1560年)
長浜の戦い 元親の初陣となった戦で、当時土佐の最大勢力であった本山家を打ち破る
永禄12年
(1569年)
八流の戦い 安芸国虎率いる5,000の兵を撃破し、土佐東部を支配する
天正3年
(1575年)
四万十川の戦い 長宗我部氏と土佐一条氏の合戦、勝利し土佐統一を果たす
天正10年
(1582年)
中富川の戦い 阿波攻略の足掛かりとなった戦、三好氏らを撃破し阿波国を支配する
天正11年
(1583年)
賤ケ岳の戦い 羽柴秀吉と柴田勝家の戦、元親は勝家側で参戦し勝利を得る
天正12年
(1584年)
小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉と織田・徳川との戦、元親は徳川側で参戦し仙石久秀を撃破する
天正14年
(1586年)
九州征伐 九州諸将との戦、元親は豊臣側で参戦するも長男・信親を討たれる
文禄元年~慶長3年
(1592年~1598年)
文禄・慶長の役 対馬を侵略した朝鮮との戦、元親は水軍として参戦する