長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のルーツを知るには、家系図を辿っていくことが最善です。
元親の先祖である長宗我部家初代当主、秦能俊は秦始皇帝の子孫で、大陸から渡ってきたとされています。
その後、脈々と血筋を受け継ぎ、土佐統一を成し遂げた長宗我部元親が誕生するのです。
この記事では、長宗我部家の家系図や歴代当主一覧、さらに長宗我部の再興から衰退までを解説しています。
本記事を読むことで、長宗我部家の始まりがわかり、戦国時代に活躍した元親の理解が深まるでしょう。
また、長宗我部家の家紋である「七つ片喰」についても深掘りしています。
長宗我部元親の家系やルーツについて興味がある方は、是非、最後まで読んでみて下さい。
長宗我部家の家系図
長宗我部元親のルーツ
ここでは、戦国武将として名を馳せた長宗我部元親のルーツを紹介します。
また、大々的に明らかになっていない元親の妻子や、現在まで続く子孫も併せて見ていきましょう。
長宗我部家の祖先は帰化人
長宗我部家は、秦能俊が土佐に入ったあと「宗我部氏」と名乗ったことがはじまりと言われています。
秦の始皇帝12世の孫にあたる功満王と融通王が帰化したのち、仁徳朝において普洞王が波多性を授かります。
推古朝に入ると、秦河勝が山城国を領土としてから、秦能俊の土佐国入りに繋がります。
「南海通記」によると平安期以前に土佐の曾我部に住んだことがきっかけとされていたり、「元親記」では秦氏が国司として土着したことがはじまり、といまだ確証がありません。
はじめに紹介した「秦能俊が土佐国に入り宗我部氏を名乗った」ことが、元親の祖先の通説となっています。
長宗我部元親の妻子
長宗我部元親は、2人の妻と9人の子どもがいました。
元親の正室は、石谷光政を父に持ち、斎藤利三の異父妹とされるお由です。
信親 | 元親の嫡男で寵愛されていたが、九州征伐で討死する |
親和 | 元親の二男で、香川之景の養子に送られる |
親忠 | 元親の三男で、津野勝興の養子に送られる |
盛親 | 元親の四男で、長宗我部家第22代当主となる |
女子 | 元親の長女で、一条内政に嫁ぐ |
女子 | 元親の次女で、吉良親実に嫁ぐ |
阿古姫(あこひめ) | 元親の三女で、佐竹親直に嫁ぐ |
女子 | 元親の四女で、吉松十左衛門に嫁ぐ |
また、元親の継室である小少将との間には、元親の五男にあたる右近大夫がいます。
長宗我部元親の子孫
長宗我部元親の血筋は、いまも続いています。
親房系長宗我部家の第17代当主である長宗我部友親氏が元親の子孫にあたる人物で、元親に関する書籍を出版しています。
長宗我部家の家系は、大別して盛親の本流、元親の弟にあたる吉良家、さらに香曾我部家の3つです。
また、土佐一条家に嫁に入った元親の妹の血筋もその1つです。
17代目当主友親氏の先祖にあたる長宗我部親房は、元親の末弟であり、大坂の陣のあとに土佐に戻りました。
しかし、山内家に「長宗我部元親公由縁のもの」という伺いを立てたため、4年間牢獄に入ることになります。
その後、横目付となり長宗我部家を残すことができました。
歴代の長宗我部家の当主
長宗我部氏の歴代当主は、以下の通りです。
初代 | 能俊 |
2代目 | 俊宗 |
3代目 | 忠俊 |
4代目 | 重氏 |
5代目 | 氏幸 |
6代目 | 満幸 |
7代目 | 兼光 |
8代目 | 重俊 |
9代目 | 重高 |
10代目 | 重宗 |
11代目 | 信能 |
12代目 | 兼能 |
13代目 | 兼綱 |
14代目 | 能重 |
15代目 | 元親 |
16代目 | 文兼 |
17代目 | 元門 |
18代目 | 雄親 |
19代目 | 兼序 |
20代目 | 国親 |
21代目 | 元親 |
22代目 | 盛親 |
ちなみに、旧姓の宗我部氏は長岡郡と香美郡にそれぞれあり、長岡郡が長宗我部、香美郡は香宗我部と名乗るようになりました。
長宗我部家を再興した元親の父 国親
長宗我部家第20代目当主の長宗我部国親(くにちか)は、長宗我部家を再興させた人物として知られています。
元々、土佐の有力豪族であった長宗我部家は、第19代当主で国親の父である兼序の時代に1度滅亡してしまいます。
室町幕府の最高権力者であった細川政元と兼序は懇意にしており、そのおかげで長宗我部家の影響力も大きいものでした。
しかし、細川政元が家臣だった香西元長によって暗殺されると、長宗我部家の力も衰えていったのです。
その後、国親の時代になると、本山氏を中心とした豪族連合との和解や一領具足をはじめとした政策で、一気に勢力を拡大させました。
また、兼序の仇敵である本山茂宗の病死もあって、長宗我部家はほかの豪族にも引けを取らないほどになりました。
土佐を統一した長宗我部元親
第21代目当主となる長宗我部元親は、元来おとなしい性格で周囲から「姫若子」と呼ばれていました。
しかし、初陣となった長浜の戦いにおいて評価は一変します。
槍の扱いや戦場での心得を家臣から聞いたのち、瞬く間に戦果を挙げます。
弱々しい「姫和子」ではなく、次々と敵将を撃破していき、長宗我部軍の勝利に貢献したことから「鬼若子」と称されるようになりました。
この戦から間もなくして父・国親が急死すると、元親は家督を継ぎ、長宗我部家当主となります。
父譲りの養子外交や積極的に使者を送る遠交近攻が功を奏し、土佐をその手中に収めました。
以後、四国統一を成し遂げ、長宗我部家はピークに達しましたが、九州征伐を機に衰えを見せはじめます。
敗戦して土佐を失う長宗我部盛親
九州征伐における戸次川の戦いにおいて、元親が寵愛していた嫡男・信親が討死してしまいます。
これを機に、人格者であった元親は人が変わったように振る舞いました。
それが顕著に表れたのは、家督相続です。
元親は四男・盛親(もりちか)を指名しましたが、家臣から猛反発が起こり、両者の溝が深まっていきました。
しかし、元親は家臣らの諫言を押し切り、反対したものを切腹させるなどして盛親に家督を譲ったのです。
以後、盛親は関ケ原の戦いで敗走し、その後参戦した大坂夏の陣でも敗走してしまいます。
辛くも大坂城から脱出した盛親ですが、江戸幕府に捕らえられてしまい、京都の六条河原で息子たちとともに処刑されました。
このことで、長宗我部家の本流は途絶えたとされています。
長宗我部家の家紋について
長宗我部家の家紋は、七つ片喰です。
円に沿った6つの片喰と中央の片喰を加えたもので、日本国内において歴史がある家紋とされています。
片喰とは、多年草であり、夜間に葉っぱが閉じる状態が食いちぎられた様に見えることから名づけられました。
ただ、その生命力は強く、踏まれても枯れない性質を持つことから、片喰を家紋に使う武家は多くあります。
また、子孫繁栄の意味合いも兼ねているため、縁起が良いことでも知られています。
長宗我部家のほかに片喰を用いている武家は、宇喜多や松平、酒井や竹内などです。
関東ではあまり見ない家紋ですが、大阪や京都などの関西地方で多く使われています。