織田信長は日本史で非常に有名な武将の一人です。

天下統一を目指した武将として、強く興味を惹かれた人も多いのではないでしょうか?

信長の大きな特徴として、拠点とする城を何度も移動していますが、それぞれの城には大きな特徴、まつわるエピソードがあります。

この記事では織田信長自身、そしてその城や城下町、建築の発達について解説していきます。

織田信長と関わりが深い城一覧

 

勝幡城

天分3年

1534年

信長が生まれた城

所在地:愛知県稲沢市から愛西市にまたがる地域

主な城主: 織田信定、信秀、信長

特徴:付近の川が天然の堀となっていた城

古渡城

天分3年

1534年

信長に城主を譲った後、父・信秀が居城とした

所在地:愛知県名古屋市

特徴:四方を二重の堀に囲まれており、信長が元服を行った城

那古野城

天分7年

1538年

「大うつけ」の少年時代を過ごした城

所在地:愛知県名古屋市

主な城主:織田信秀、織田信長

特徴:名古屋城の前身となる城

清洲城

弘治元年

1555年

尾張を治める織田家盟主の城

所在地:愛知県清須市

主な城主: 斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、尾張徳川家

特徴:交通・軍事・通商の上で、大切な地点として機能した城

小牧山城

永禄6年

1560年

美濃斎藤氏攻略用の城

所在地:愛知県小牧市

主な城主:織田氏、徳川氏

特徴:信長が初めて指示して築かれた城

岐阜城

永禄10年

1567年

美濃と統合、天下取りへとスタートした城

所在地:岐阜県岐阜市

主な城主: 斎藤氏、織田氏

特徴:金華山の山頂にあり、難攻不落のであった城

安土城

天正4年

1576年

天下人の象徴、豪華絢爛な城

所在地:滋賀県近江八幡市

主な城主: 織田氏、明智氏

特徴:日本史上初めて天守の築かれた城

 

織田信長が築いた城

 

織田信長は天下統一のため、各地に城を立てて頻繁に拠点を変えていました。

敵の陣地を把握し、攻め落とすためにはどうするか緻密な計算がされていたためです。

その戦略が功を奏し、信長は後世に語り継がれる名武将となりました。

そんな信長を支えた城の場所、特徴などを挙げていきます。

安土城|天下統一の象徴

安土城は、高層の天主(天守)がそびえ、知名度の高い城です。

建築からわずか6年で焼失してしまったため、今でも多くの謎が残されています。

天正4年(1576年)織田信長は武田勝頼と長篠の戦いに勝利し、琵琶湖湖畔の安土山(滋賀県近江八幡市)に天下統一の拠点として安土城を築きました。

安土は、敵の陣地を押さえるための戦略的に重要な土地でした。

しかし、天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変で、織田信長はこの城で自害してしまいます。

その後、本能寺の変の後に、明智光秀が安土城に入城しますが原因不明の放火によって炎上、焼失したとされています。

城内に残る石垣、建物は八幡山城を築く際に移されてしまい、現在では残っていません。

小牧山城|別名 麒麟の城

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元を破った後、織田信長は新たに小牧山城を築き本拠とします。

京への通過地点となる美濃の併合に向けて動いていたため、新しい本拠地として選んだのが、濃尾平野の中に位置する小高い小牧山でした。

信長は家臣団や町民を引き連れて小牧山城を4年間住居とします。

その後、小牧山城築城からわずか4年後、信長は斉藤龍興の稲葉山城を攻め落とし稲葉山城を岐阜城と改めた後小牧山城は廃城となりました。

小牧山城は後に建設する安土城の姿に酷似していて、安土城に先行する城の姿としての信長の意識が表れていました。

防御効果に徹しており、また、権力の象徴としての豪華さも付け加えられ始めた戦国時代らしい構造であると言えます。

織田信長に関連する重要な戦いと城

織田信長は数々の戦いを制し、戦国時代を生き抜きました。

転機となった重要な戦いと、それに関する城は以下の4城です。

      • 岐阜城
      • 姫路城
      • 長篠城
      • 稲葉山城

 

信長は敵を攻め落とすための戦略が非常に上手いため、それに沿って拠点を移動していました。

実際にその拠点移動で制した地域は数知れず、信長はどんどん陣地を拡大していったのは明確な事実です。

岐阜城|美濃国支配の拠点

元々は、まだ14歳だった龍興が戦国大名として、家臣たちを従えていた城です。

のちに秀吉の軍師として活躍する竹中半兵衛が制したものの、すでに信長による攻撃が始まっていました。

対抗していく家臣たちですが、有能な家臣が信長側に寝返ってしまい、信長に敗れてしまいます。

この結果、信長は美濃国を制圧、岐阜城を豪華絢爛に大改造して権力を誇示しました。

信長は山麓に建てた御殿を政庁として利用し、山頂に建てた天守は信長と家族など身内のみが入れる場所で、信長の許可なしには入れなかったようです。

姫路城|戦国最強と呼ばれた要塞

1576年(天正4年)織田信長強大な力を得て安土城を築き、ほぼ天下統一を完成させるところでした。

当時、周りより先に信長に謁見して力を得ようとしたのが黒田官兵衛です。

信長の家臣である羽柴秀吉の配下に入った官兵衛は、中国征伐の拠点として姫路城を譲渡し、最終的に信長が勝利しました。

姫路城は元々戦のための要塞であり、敵の侵入を食い止める仕掛けが多数存在していました。

簡単に渡れそうもない幅の内堀・三重の門・迷路のような構造など、敵から城を守る最強の要塞として今も語り継がれています。

長篠城|武田信玄との決戦地

長篠城を治めていた織田信長ですが、最初は友好関係にあった武田信玄と対立するようになります。

信長と当時の将軍の関係が悪化したのが原因で、将軍側についた信玄が信長と友好関係にあった徳川の領地を攻撃したのです。

これが戦国時代の大きな合戦として名高い長篠の戦いとなります。

武田家は親子二代にわたって徳川を攻撃しましたが、敗北してしまいました。

結果として長篠の戦いに勝利したのは信長で、信長は天下統一へとまた一歩進んだのでした。

稲葉山城|美濃国制圧の転換点

1567年(永禄10年)、信長は、美濃国を制覇するために斎藤家の居城・稲葉山城に攻め入りました。

西美濃三人衆は斎藤家の有力な家臣で、織田家に人質を引き取ってくれと連絡してきましたが、信長は町を焼き討ちにしてしまいます。

後に美濃側は降参し、信長の勝利が確定します。

戦いに勝利したのち、信長は稲葉山城を岐阜城に改名し、拠点としました。

そしてこの戦いをきっかけとして本格的に天下統一を目指していきます。

織田信長と城郭建築の革新

城郭建築とは、敵に対抗する仕組みを多く取り入れた建造物のことです。

非常に強力な要塞として作られたものという意味に加えて、権力を象徴して誇示するものとして発展していきました。

織田信長の城は要塞であり豪華絢爛であり、どちらの要素も含んでいるため、城郭建築の様相に関して大きな影響を与えたことは間違いありません。

天守閣の誕生と発展

天守閣とは、元々「天守」と呼ばれていました。

主殿を守る建物、天主(神)を祀った建物という意味が込められている言葉です。

「閣」とは、高くて立派な建物のことを表していて、格の高さを表現する意味で付け加えられています。

これらは城の防御力を高めるとともに、力の強さを誇示する目的がありました。

城が新しく建てられていくにつれて天守閣も一緒に発展していきます。

城下町と経済活動の促進

織田信長の作り上げた安土城は権力の象徴であり、その権力で城下町への経済にも影響を与えました。

その城下町は兵農分離と楽市楽座という仕組みが当てはめられ庶民の経済活動が大きく発展したのです。

文農分離とは、兵士と農民の身分を分けて軍事的・経済的に効率的にしようとする政策でした。

楽市楽座は、税金を免除(楽市)し、一部の者が持っていた特権をなくすこと(楽座)のことを言います。

この二つの政策により城下町は大きく繁栄することとなり、結果として城主の権力もさらに増していくことになりました。

戦術と城郭の進化

戦国時代は城の交戦が大量にあり、それに伴って戦術も発展してきました。

戦術として基本的なものは「力攻め」と言い、弓矢や鉄砲で城内の人を混乱させている隙に侵入する方法です。

建物を燃やす「火攻め」は燃えやすい城郭の時代は有効でしたが、燃えにくい城郭の防御力の発展に伴い「水攻め」「兵糧攻め」が主流となりました。

「兵糧攻め」とは、敵の食料補給路を絶って弱らせ、打ち負かす攻め方のことを言います。