「鬼和子」や「土佐の出来人」と称された長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)は、優れた武将であると同時に父親でもありました。
一夫多妻制が認められていた戦国時代、外交手段として政略結婚が盛んに行われており、系譜が複雑になっているケースが多々あります。
子宝に恵まれた元親も例にもれず、香川家に養子を送ったり、未亡人となった娘が伊達家に仕えたりしていました。
この記事では、長宗我部元親の子孫について紹介しています。
散り散りになった元親の子どもの末路や長宗我部氏のルーツ、加えて現在も存在している長宗我部氏の子孫も併せて解説しています。
日本の歴史に名を刻む長宗我部氏の「いま」と「昔」をともに探っていきましょう。
長宗我部元親以下の家系図
長宗我部元親は、素性が明らかになっていない正室との間に8人、継室である小少将の間に1人、母親が不明な康豊の合計10人の子どもがいました。
いずれも討死してしまったり病気で亡くなったりしましたが、中には自身の名前を変えて生きのびた子どももいます。
次の項目で詳しく見てみましょう。
長宗我部元親の妻子について
長宗我部元親には、2人の妻と10人の子どもがいました。
当時は一夫多妻制であり、正室と呼ばれる本妻と本妻以外の妻である側室、愛人である妾を身辺に置くことが一般的でした。
ここでは、元親の妻子について見ていきます。
元親の妻は2人
元親は、生涯で2人の妻を娶ったとされています。
1人目となる正室は、名前など詳細が明らかになっていません。
しかし、斎藤道三の異父妹という説や、石谷光政の娘という説が濃厚であり、その出自はいまだ不明瞭です。
元親との間には、4男4女を授かりました。
2人目の妻である継室は、小少将(こしょうしょう)です。
彼女は、元々阿波国の細川持隆の妻でした。
その後、持隆を討ち取った三好実休の妻となり、その家臣である篠原自遁の妻となった遍歴がある女性で、元親との間には右近太夫を授かっています。
なお、彼女は細川真之と三好長治、十河存保の母でもあります。
元親の子どもは10人
元親の10人の子どもを略歴で紹介します。
信親(のぶちか) | 元親の嫡男で正室との子。天正14年(1587年)九州征伐において討死する。 |
香川親和(ちかかず) | 元親の次男で正室との子。幼少時に西讃岐守護代の香川之景の養子に送られる。家督相続の混乱後、病死する。 |
津野親忠(ちかただ) | 元親の3男で正室との子。土佐の豪族である津野勝興の養子に送られる。四男の盛親を支持する久武親直の讒言により殺害される。 |
盛親(もりちか) | 元親の4男で正室との子。長宗我部氏22代当主。関ケ原の合戦で敗北し浪人となる。元和元年の大坂夏の陣後、処刑される。 |
右近大夫(うこんだゆう) | 元親の5男で小少将との子。詳細は不明であるため官位で呼ばれている。大坂夏の陣後、切腹する。 |
康豊(やすとよ) | 元親の6男で母親は不明。大坂城が落城したのち、足立七左衛門と名を変えて酒井忠利に仕える。 |
女子 | 元親の長女で一条内政室。土佐一条氏当主の一条内政に嫁ぐ。 |
女子 | 元親の次女で吉良親実室。吉良親実に嫁ぐ。 |
阿古姫(あこひめ) | 元親の3女で佐竹親直室。夫の親直が大坂の陣で討死したのち、息子2人とともに伊達家の侍女として召し抱えられる。 |
女子 | 元親の4女で吉松十左衛門室。長宗我部家臣の吉松十左衛門に嫁ぐ。 |
長宗我部元親の子孫は途絶えていない
長宗我部氏は、大坂の陣で盛親らが処刑され滅亡したとされています。
しかし、元親の3女であり、伊達家に侍女として召し抱えられた阿古姫とその息子によって、長宗我部家は滅亡を免れたという説があります。
また、元親の6男で足立七左衛門と名を変えた康豊も、酒井家に仕えたことで生きながらえました。
元親は、自身の親族を養子に送っていたため、名を変えた者ものちに長宗我部氏に復すことがあったと言われています。
現在の長宗我部家は、島親益(元親の弟)系統の長宗我部友親氏が当主であり、長宗我部氏関連の書籍を多く発表するなど精力的に活動されています。
なお、社会人野球で活躍した長曽我部竜也氏は、元親の子孫であることから、当時話題になりました。
長宗我部氏のルーツは?
これまで、長宗我部元親の子孫について紹介してきましたが、ここでは長宗我部氏のルーツを解説していきます。
土佐平定を成した長宗我部氏が、どのように生まれ、どのように発展していったかを見ていきましょう。
長宗我部氏の祖先は帰化人
現在、長宗我部氏のルーツは秦氏、というのが通説となっています。
秦の始皇帝12世の孫であった功満王と融通王が帰化して、普洞王が波多性を授かりました。
その後、秦河勝が山城国を支配下に置いてから秦能俊になって土佐入りしたのち、宗我部氏と名乗りはじめたとされています。
長宗我部氏のルーツを記した「南海通記」では、能俊が土佐の曾我部に住んだことがきっかけで曾我部性を授かったとあり、「元親記」では秦氏が土着したことで長宗我部氏を名乗るようになった、とあります。
いずれも確かな歴史的確証がないため、冒頭に述べた説が一般的な長宗我部氏のルーツとされています。
長宗我部氏の発展
長宗我部氏の勢力が拡大してきたのは、鎌倉期と言われています。
このころ、長宗我部氏は大黒や上村、野田や中島に加え、江村や広井といった庶流が派生していき、徐々に影響力を強めていきました。
遠州掛川時代に関する古文書によると、元引3年、当主だった長宗我部新左衛門信能に対して土佐国内で起こった乱妨人を鎮める命令が出されています。
つまり、鎌倉時代には領主として発展していたことが考えられるでしょう。
以後、長宗我部氏は土佐内で寺奉行といった重要な役割を担うようになり、応仁の乱には軍として参戦しています。
それまでも家督相続の不和などで危機を迎えましたが、元親の時代には混乱が収束しています。
長宗我部氏の滅亡の危機
長宗我部氏の滅亡の危機は、元親が溺愛していた長男・信親の死が発端と言えます。
天正14年(1586年)に秀吉の配下にあった元親は、九州征伐へ赴きます。
この戦において長宗我部信親が討死してから、元親の言動や思考に変化が起きました。
元親の人柄をよく知る家臣からは「律儀で情に深く、大きな度量を持ったお人だ」と言われるほどに、いわゆる「できた人」だったのです。
しかし、信親の死後に行われた家督相続においては、家臣たちの意見を聞かず、本来の相続順を4男の盛親に継がせました。
盛親の死後、次男・親忠は病死、3男・親忠は盛親に殺害された挙句、5人の子どもの父だった盛親は大坂の陣で敗北し、息子ともども処刑されてしまったのです。
ただ、元親の3女と4女が生き延びたため、傍系としては現在も続いています。