数多くの家紋を持っていた、伊達政宗。
それが何故なのか、それぞれの家紋にはどういった意味があるのか、気になった人は多いのではないでしょうか。
また、有名な家紋である「竹に雀」の家紋が上杉家と酷似していることをご存じな人もいるかもしれません。
上杉家と酷似した家紋を使うようになったことにも理由があり、それに関係した出来事についてもまとめています。
この記事では、伊達政宗が多くの家紋を使うようになるまでの流れ、家紋のそれぞれの意味について解説していきます。
伊達政宗が使用した主な家紋5つとその意味
伊達政宗は10種類以上の家紋を持っていたと言われていますが、その中でも代表的な5つの家紋を紹介します。
当時は、正式な紋である「定紋」とその代替として使う「替紋」を備えているのが普通でした。
伊達家の10種類以上もある家紋はこの替紋を含んでおり、家紋を増やすことについて厳しいルールはなかったようです。
伊達政宗はそのルール内で自由に家紋を増やしていきました。
以下でそれぞれの家紋とそれに込められた意味を解説していきます。
竹と雀
竹笹の円の中心で雀が向かい合っている図を表現しています。
常に緑鮮やかに生える竹の中に群れを成す雀のように、子孫の繁栄や一族の栄華を願ったものとされています。
「竹に雀」は風雅な組み合わせとして伝統的なモチーフでした。
丸に竪三引き両
伊達政宗以前より最も古く引き継がれる伝統的な伊達家の家紋です。
伊達家の祖先が、源頼朝による奥州攻めに従軍した時に与えられたという歴史があります。
十六葉菊
元々、菊は皇室のモチーフでしたが、豊臣秀吉により使用を許されたために豊臣秀吉の配下へと与えられました。
配下であった伊達家も「十六葉菊」を替紋として使用することになります。
五七桐
桐も菊と同様、皇室のモチーフでしたが、豊臣秀吉の許可により伊達家も「五七桐」を使用することになりました。
豊臣秀吉は配下の者に使用を許可することにより、主従関係を強めていったとされています。
九曜
九曜の紋は、平安時代から厄除けとしての文様とされていました。
中心の丸が「太陽」、周囲を囲む丸が「星」を表現しており、星の信仰に由来しています。
加護を願うモチーフとして他の戦国武将も使用していました。
伊達家の家紋が多い3つの理由
家紋が増える条件としては3つありました。
- 天皇や将軍から与えられる
- 戦の功績によって、武功を上げた者に与えられる
- 結婚の際に相手の家紋をもらう
伊達政宗はこれら3つとも重視していましたが、特に戦の功績によって与えられることをステータスとしました。
手柄を立てれば立てるほど、功績を上げた者ほど、家紋が増えていくのです。
その仕組みを利用して、他の武将との力の差をアピールしていました。
有名な家紋「竹と雀」は上杉家と同じ?
伊達家は元々、古くから受け継がれてきた「丸に竪三引き両」を家紋として使っていました。
「丸に竪三引き両」は伊達政宗以前の長い間使われていましたが、ある事件をきっかけに「竹と雀」の家紋を使用するようになります。
本来、「竹と雀」は越後を守っていた上杉家の家紋でしたが、上杉家が自分の家を有利にするために伊達家に近づいたのがきっかけでした。
その具体的な経緯について説明していきます。
時宗丸事件
越後を守護する上杉定実には男子の跡継ぎがいないために家が断絶する危機に陥っていました。
そこで、上杉定実は養子を迎えて跡継ぎとさせるために奔走します。
上杉定実は、越後内の名家から養子を取るのは政治的な問題が発生すると見て、奥州に目を向けました。
そこにいたのが伊達稙宗(伊達政宗の祖父)です。
伊達稙宗は越後との交流もあり、深いつながりを持っていました。
加えてまだ若い息子が多くいたために、養子に関する双方の話し合いはスムーズに進みました。
しかし、越後国内の一部領主と、伊達稙宗の長男である伊達晴宗は養子交渉に反対します。
反対派がいたことにより、養子の話は数年延長されてしまいました。
それでも粘り強く交渉を続け、1542年(天文11年)までに賛成派が圧倒的多数となったために、伊達稙宗三男の時宗丸が上杉家の養子として迎えられることになります。
伊達天文の乱
越後側が時宗丸の迎えを遣わせた際、引き出物として、定実の1文字「実」・宝刀「長光」・家紋の「竹雀幕」を贈ったとされています。
しかしその数日後、時宗丸を養子とすることに反対していた伊達晴宗が、父である伊達稙宗を監禁してしまいました。
これは父子相剋である「伊達天文の乱」と呼ばれています。
伊達晴宗は脱走し、自分の陣営にあたる者達とともに交戦する姿勢を見せました。
この御家騒動で養子交渉は難航を極めることになってしまい、上杉定実は養子として時宗丸を迎えることができなくなってしまいます。
「伊達天文の乱」から6年後、伊達稙宗が引退を宣言したために伊達晴宗と和解する形になり、結果として伊達晴宗が勝利するという形になりました。
時宗丸は兄の元に引き取られており、元服して伊達実元を名乗って伊達家を守る形になります。
2年後、上杉定実は跡継ぎがいないまま病死し、越後の上杉家は断絶することになってしまいました。
上杉家の家紋を流用した伊達晴宗
父に勝利した伊達晴宗の手元には、上杉家から贈られた引き出物が残っていました。
「竹に雀」の家紋も例外ではなく、伊達晴宗はこれを伊達家の家紋として使うようになります。
伊達晴宗が家紋を流用した理由はよくわかっていません。
実際この家紋は時宗丸個人に与えられたもので、伊達家そのものに与えられたものではありませんでした。
しかし、それがいつの間にか有耶無耶になったようで、伊達晴宗が独断で流用してしまった話になっています。
伊達家は「竹に雀」をそのまま使うのではなく、少しアレンジして独自のものとしました。
しかし、伊達家が代々使ってきた「丸に竪三引き両」以外の家紋を使ったことには疑問が残っています。
可能性としては、敵となった伊達稙宗が伊達家代々の家紋を使用していたことに対して、伊達晴宗は同じ家紋の使用を避けたという説があります。