戦国時代に一代で中国地方を統一した毛利元就は、75歳で亡くなりました。その死因には、自然死説と病気説のふたつあります。

戦国時代の男性の平均寿命は37~38歳であり、現在の男性の平均寿命が81歳であることを考えると、当時の寿命は現在の約半分でした。短命の原因に、病気や栄養不足が考えられています。

毛利元就は兵糧として「」を用いていました。餅は白米より腹持ちがよく、糖質を含むため、すぐにエネルギーとなり滋養強壮効果があります。

これが毛利元就の長寿の一因とされています。約200戦を経験した毛利元就ですが、戦略に長けていただけでなく、健康管理にも工夫があったのです。

そんな、長寿を全うした武将の最期はどのようなものだったのでしょうか。ここでは、毛利元就の死因や食事以外の長寿の秘訣についてご紹介します。

毛利元就の死因

毛利元就は1947年安芸国の吉田郡山城で生まれ、1571年6月14日に75歳で亡くなりました。死因については、老衰とする説もあれば、食道がんとする説もあります

毛利元就の体調変化は記録に残っていますが、食道がんに関しては、現代の食道がんに見られるような症状は記録されていないため、死因が食道がんだったという説は信ぴょう性に欠けるといえます。

1560年代前半から、毛利元就はたびたび体調を崩し、1566年2月には、長期間の出雲出陣の疲労が原因と考えられる大病にかかりました。

その後、医師の治療により一時的に回復しましたが、1569年4月に再び病に倒れます。病身で無理を続けた結果、同年9月に体調が悪化し、動けなくなりました。

しかし、自身の節制と毛利輝元や家臣たちの熱心な看病のおかげで、体調が回復します。さらに、1571年の3月には体調が落ち着いていましたが、5月になると再び悪化し、症状は進行していきました。

同年6月13日には激しい腹痛を起こし、危篤に陥ります。そして、翌日の6月14日、息子の小早川隆景と孫の毛利輝元に見守られながら、生まれ故郷である吉田郡山城で亡くなり、生涯を終えました

毛利元就が長寿を全うした秘訣

毛利元就が長寿を全うした秘訣は、お酒を控えることでした。その理由は、父である父の毛利弘元と兄の毛利興元の死因が酒毒だったからです。

父と兄をお酒が原因で亡くした毛利元就は、節酒によって寿命を延ばす効果を信じていました

そのため、息子である毛利隆元には「お酒は適量を守って飲み、お酒で気を紛らわすようなことがあってはならない」と、お酒を控えることの重要性を説いています。

また、孫の毛利輝元の元服後、毛利輝元の実母に「小さいお椀に一杯か二杯ほど以外は、飲ませないように」と、忠告しました。

さらに、家臣や周辺国人の中で、お酒を控える者がいる場合には「お酒を飲むとみんな気が短くなり、あることないことを言ってしまう、お酒ほど有害なものはない」と、述べています。

ただし、家臣や周辺国人の中でもお酒を望む者がいる場合には、提供していました。その際「寒い中で川を渡るような行軍の時にはお酒の効能を褒めるべきではないが、普段はお酒が最高の気晴らしになることがある」という配慮もあったのです。

毛利元就の最後となる戦い

1568年、毛利元就は病にかかり体調はよくありませんでしたが、容体はそれほど重くなかったため、長府に出陣し立花城の戦いで督戦します。

この出陣が、毛利元就の最後となる戦いとなりました。

立花城の戦いは、毛利家と組んでいた大友家の家臣であり立花城の当主である立花艦載が、大友家の当主である大友宗麟に謀反を起こして、立花城に立てこもったことで始まった戦いです。

立花艦載は毛利元就の策略に従い、毛利軍と共に防戦しますが、立花城は大友家の家臣である戸次艦連と吉弘鎮信らによって攻略されました。

毛利元就の最期

毛利元就は亡くなる10年ほど前から体調を崩したり、回復したりする日々を送っていました。

以下、毛利元就の最期を、息子たちのエピソードも含めてご紹介します。

毛利元就が亡くなるまでの行動

毛利元就は亡くなるまでの10年間、体調を崩しながらも戦いに出陣し続けました。

1565年の「第2次月山富田城の戦い」で尼子軍を降伏させた有名な戦いのあと、毛利元就は中国地方の8カ所を支配する戦国大名となります。

しかし、このとき毛利元就の体調はすでに良くありませんでした。

尼子軍との戦いのあと、毛利元就は大病を患います。その際、毛利元就の見舞いに足利義輝が派遣した名医の曲直瀬道三が、毛利元就の治療を行いました。

道三門下の専門医との往復文通を通じて治療が進められ、毛利元就は完全回復に至ります。

この治療をきっかけに、曲直道三が派遣され、毛利元就の領国の医療基盤の弱さが一気に改善されました

また、毛利元就は病気の完治祈願のために、出雲国の日御碕神社に社領50貫を寄進したといわれています。

しかし、その祈願から3カ月後、毛利元就は息を引き取りました。

毛利元就が亡くなるまでの息子たちのエピソード

1570年9月、毛利元就が重病に陥ったとの知らせが、出雲国にいた息子の吉川元春と小早川隆景、孫の毛利輝元に届きます。

毛利輝元は、吉川元春を出雲に残し、小早川隆景と共に急遽安芸国にもどり、毛利元就の看病に努めました

看病の甲斐もあって、毛利元就は孫の輝元に比較的長い返書を送っており、病状がある程度回復したことがわかります。

しかし、誤字や重複が見られることから、完全には回復していないことがうかがえたのです。

1年後の1571年5月、毛利元就の症状が再び悪化したため、小早川隆景は出雲に残った吉川元春と協議し、京から医師を招くことを決めます

将軍・足利義昭の命で毛利家と大友家の平和の仲介のため、安芸国を訪れていた聖護院道増も毛利元就のために快復を祈願しましたが、毛利元就の病状は徐々に悪化していきました。

毛利元就が亡くなるまでの間、息子たちは看病や医師の手配に奔走しましたが、毛利元就の体調は悪化し続けます。

そして、1カ月後の6月14日、毛利元就の生涯が終わりを迎えました。

毛利元就が息子たちに説いた逸話「三本の矢」

毛利元就が、息子たちに説いたことで有名な「三本の矢」があります。

三本の矢
1本の矢なら簡単に折れるが、3本の矢と一緒に折ることは困難である。この矢のように、1人では困難なことも、3人が力を合わせれば乗り越えられる。

毛利元就が死ぬ間際に、3人の息子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景を枕元に集め、教訓を説いた逸話とされています

しかし、毛利元就が亡くなる際には、長男の毛利隆元はすでに他界しており、次男の吉川元春は出雲国に残っていました。

最期を看取ったのは、三男の小早川隆景と孫である毛利輝元です。

そのため、この逸話は毛利元就が書いた書状「三子教訓状」に基づく創作と言われています。

毛利元就の死後

毛利元就の死後は、領国と政治の指揮を、当主である毛利輝元が執りました。

ここでは、その毛利輝元の活躍と毛利元就への功績をたたえる出来事をご紹介します。

織田信長との同盟と決別

1569年半ば以降、毛利家と織田信長の交流が始まり同盟を結びます

1576年2月、織田信長と対立していた室町幕府の15代将軍である足利義昭が、紀伊国の畠山から毛利家の領国である備後・鞆に居所を移してきました。

しかし、このことは毛利輝元に事前の連絡なしに行われたため、織田信長との同盟関係を考慮し、毛利輝元は足利義昭の受け入れを避けなければなりませんでした。

毛利家が足利義昭を受け入れないことは、織田信長との約束だったからです。毛利輝元にとって、織田信長との同盟は領国を守るために重要であり、全面戦争を望んでいません

ところが、織田信長は毛利家と対立する浦上宗景に軍事支援を行ったのです。織田信長が、毛利家との軍事対決も辞さない態度を示したことで、毛利輝元は織田信長と足利義昭との間で揺れ動きます。

最終的に、毛利輝元は反信長として立ち上がり、織田信長との同盟を破棄し決別しました。その後、毛利輝元は足利義昭から副将軍の任命を受け、足利将軍家の家紋を授かります。

豊臣秀吉との講和

1577年10月より、織田信長に命を受けた家臣の豊臣秀吉が、毛利輝元の勢力圏である中国地方への侵攻を開始します。

豊臣秀吉は、毛利家の備中国高松城を攻略し、中国地方への支配を確立しようとしました。

豊臣秀吉は高松城を包囲し、城の周囲に堤防を築いて水を流し込み城を水没させる「水攻め」を実施します。

高松城の攻防戦の最中、織田信長が明智光秀によって討たれる本能寺の変が発生しました。この情報を得た豊臣秀吉は、織田信長の死を秘密にしたまま、毛利輝元へ講和を持ちかけました。

毛利輝元は、毛利家の諸将の多くが豊臣秀吉の調略を受けていると知らされ、疑心暗鬼に陥り、講和を受け入れるしかありませんでした。

ただし、この講和は停戦協定に過ぎず、正式な講和ではないという見方もあります。

高松城の講和以降、毛利家は豊臣秀吉の勢力拡大に対応せざるを得なくなり、最終的に毛利輝元は豊臣秀吉に臣従しました。

毛利輝元は、養女を豊臣秀吉の養子と婚姻させ、領地の大部分を領有することが認められ、徳川家康に並ぶ大名となります。

こうして、毛利輝元と豊臣秀吉は正式に講和し、織田信長と豊臣秀吉との長く続いた戦いは終結したのです。

毛利元就への追賞と追贈

毛利元就の葬儀は、出身地である安芸国吉田の吉田郡山城の大通院で盛大に執り行われ、埋葬されました

戦国大名にふさわしく、多くの家臣や関係者が参列したと伝えられています。

織田信長は毛利元就への弔意を、息子の小早川隆景宛ての書状に記しており、使僧を派遣して弔問し、弔辞を述べさせました

死後も毛利元就への追賞と追贈は続き、明治時代まで行われました。下記が、その詳細です。

西暦 追賞・追贈
1572年 朝廷は毛利元就の功績をたたえて、従三位の位と「惟徳惟馨」の諡(しごう、死後に贈られる名)を授けた。
1770年 毛利元就の200周忌の際、毛利元就・息子の毛利輝元・孫の毛利秀就を祀る神社が萩に創建され、朝廷は毛利元就の神霊に「仰徳大明神」の神号を授けた。
1829年 上記の神社に正一位の位階を授けられた。
1869年 毛利元就を祀る神社に「豊栄神社」の神号が贈られた
1908年 毛利元就に正一位の位が追贈された。

毛利輝元が安芸国の城内に、毛利元就の菩提寺として建立した洞春寺跡の現在は、荘厳で立派な景観を誇り、パワースポットと称されています。