戦国の世を生き抜いた長宗我部元親は、どのような性格の持ち主だったのでしょうか。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった知名度の高い武将は、その素性が細かく記されています。
しかし、長宗我部元親となると、大半の人は「名前は知ってるけど、どんな人物かわからない」という印象を受けることでしょう。
この記事では、長宗我部元親の性格をあらゆる角度から深堀しています。
元親が行った政策や戦場で実践した戦術などから目に見えない部分を探っていくことで、元親の性格の核となる部分が明らかになるでしょう。
長宗我部元親の性格に興味がある方は、是非、最後まで読んでみて下さい。
時系列で見る長宗我部元親の性格
長宗我部元親は、家臣思いで人情深い性格で知られている武将です。
しかし、武将として頭角を現す前や寵愛していた長男の死後で、その性格はかなり変わっていきます。
ここでは、ターニングポイントとなった時期を3つに分けて、元親の性格の変遷を見ていきます。
幼少期~初陣
長宗我部家20代当主、長宗我部国親の長男として生を授かった元親は、元来おとなしい子でした。
背が高く肌が白い見た目に加えて、屋内で本を読むことを趣味としていたため、将来家督を継がせる国親としては心配でなりませんでした。
周囲から「姫若子」(ひめわこ)と嘲笑されていた元親でしたが、長浜の戦いにて評判が一変します。
22歳で初陣を飾った元親は、武器の使い方と大将としての心得を家臣から教わったのち、50人ほどの部下とともに敵陣に突っ込んでいきました。
それまで、戦に向いていない性格と思われていた元親は、実は勇ましい気質を持った男だったのです。
この戦で殊勲を挙げた元親は、畏敬の念を込められて「鬼若子」(おにわこ)と呼ばれるようになりました。
家督相続~四国統一
「鬼若子」として活躍した長浜の戦いの後、父・長宗我部国親が亡くなってしまいます。
これにより長宗我部家21代当主となった元親は、土佐統一を視野に入れるようになりました。
天正3年(1575年)に勃発した「四万十川の戦い」で一条氏と対峙した元親は、あえて真っ向から挑まず、陽動作戦を敢行し勝利を収めたことで、土佐統一を果たします。
その後、四国統一に身を乗りだした元親は、阿波と伊予、讃岐に侵攻し、賤ケ岳の戦いと小牧・長久手の戦いを経て、四国を支配下に置きました。
このことから、元親は野心家であることが伺えるでしょう。
また、幼少期のおとなしい性格がベースにありながらも、一族の繁栄を願う家族思いの性格とも言えます。
晩年
悲願である四国統一を果たした元親ですが、羽柴秀吉に攻められ間もなく降伏しました。
天正14年(1586年)に、秀吉の命令によって赴いた九州討伐で事件が起こります。
九州の豪族である島津氏との戦で、元親の長男・長宗我部信親を亡くしてしまうのです。
とくに大事にしていた信親の死は、それまでの元親の性格を変えてしまうのでした。
家督相続の際、順番からして次男の親和が当主になると思われていましたが、元親は寵愛していた四男・盛親に家督を譲ります。
これに反対した家臣は身内であっても粛清されたことで、家臣たちは元親の変貌ぶりに困惑するばかりでした。
律儀で人情深く、懐の大きな性格な元親だからこそ生じた事件と言えるでしょう。
長宗我部元親の性格が読み取れる政策
長宗我部元親の性格は、自身が実行した政策からも読み取ることができます。
領民や家臣たちから慕われていた元親の人柄を、代表的な3つの政策から紐解いてみましょう。
一領具足
一領具足は、元親の父・長宗我部国親によって考案された施策です。
その内容は、平時には農民として生活し、有事には一領具足(ひととおりの武器や鎧)を持って召集に応じるというものです。
由来は、農作業時においても武器と鎧を田畑の傍に置くという半農半兵であったため、一領具足の呼称が定着したとされています。
国親が考案したものですが、最も効果的に活用したのが元親でした。
農作業によって鍛え上げられた身体と優れた集団行動によって、数々の土佐の豪族たちを撃破していきました。
農業の繁忙期は離脱せざる得ない状況を克服し、優れた運用能力を発揮した元親は、俯瞰して物事を見ることができる性格であったと言えるでしょう。
長宗我部地検帳
長宗我部地検帳は、天正15年(1587年)から数年に及んで実施された検地の成果を記したものです。
検地とは、農民から年貢を取り立てるために田畑の面積や収穫高を調査することで、豊臣政権以降に全国規模で行われました。
土佐国では七郡に渡って行われ、全368冊が近代まで活用されており、現在では国指定重要文化財となっています。
全国にある検地帳ですが、長宗我部氏のものは優れた検地帳として知られていることから、元親の業務に対する勤勉さが読み取れるでしょう。
長宗我部元家百箇条
長宗我部家百箇条とは、慶長2年(1597年)に元親と四男・盛親親子が制定した分国法のことです。
当時、元親は豊臣秀吉に仕えていた時代で、同年朝鮮出陣を控えており、領主不在のデメリットを埋めるべく定めたとされています。
おもな内容は、身分ごとの行儀や諸役、裁判や刑罰に加え、相続や財産などの規定が記されています。
同時期の分国法とは異なり、豊臣政権を推戴したり、喧嘩両成敗などの大名権力が強く表れている点です。
元親は、自身が不在でも国が機能するようにしており、決して土佐国の民を軽くみていたわけではないことが伺い知れます。
元親の情け深い性格が、随所に垣間見れる政策の1つでしょう。
長宗我部元親の性格が垣間見える戦術
続いて、長宗我部元親の性格を戦術から読み取っていきましょう。
元親は、一見不利な状況でも効果的な戦術を用いて自軍を勝利に導いてきました。
ここでは、元親の代表的な戦術から、その内面を覗いていきます。
外線作戦
元親が用いる戦術には、兵力を分けて攻めるという特徴があります。
上記でも紹介した四万十川の戦いは、兵力に頼った攻撃をせず、あえて別動隊を派遣することで勝利を収めました。
安芸氏との間で起きた八流の戦いでは、はじめから兵を分けたのち、海側と陸地側から挟撃する戦法によって敵軍を撃破しています。
また、阿波国を巡って勃発した中富川の戦いにおいても、本隊が南東、別動隊が西南、さらに後方部隊の追い打ちによって十河軍を撃破しました。
このように、地の利を活かした戦いを得意としていることから、冷静さに加えて合理的な性格も持ち合わせていることがわかります。
土佐水軍
長宗我部氏は、四国という土地柄から水軍を保有していました。
水軍と言うと毛利水軍が有名ですが、長宗我部氏も大規模かつ優れた水軍として活躍しています。
おもに、四国統一や朝鮮討伐において、兵士の移動や兵糧の運搬などで功績を挙げました。
四国は、中央部が山岳地帯であることから、沿岸部が生活や軍事の拠点となり水軍が発達した経緯があります。
ここで、長宗我部水軍にまつわる面白い話を紹介しましょう。
元親は、小田原の役に水軍を率いて参戦したのですが、浦戸湾で巨大な鯨と遭遇します。
その鯨を数百の兵力でもって捕獲し、秀吉のいる大坂城内へ持ち込んで周囲を驚かせました。
このことから、元親はユーモアを持った人物と言えます。
元親自身の能力
最後に、元親自身の能力です。
元親は、戦場での立ち回りや実力が優れている武将と言えます。
「姫若子」とあざ笑われていた物静かな幼少期とは違い、初陣で見せた功績はまさに「鬼若子」にふさわしいものでした。
そもそも、元来持っている資質が高いからこそ、はじめての戦にも関わらず戦果を挙げることができたのでしょう。
また、それに戦術や兵法が加わることで、歴史に名を残す武将になったと言えます。
元親が持っている性格が戦国の世にプラスに働いたとも捉えることができ、土佐平定、果ては四国統一を達成しました。
さらに、領民や家臣から慕われる人柄も相まって、後世に伝えられる人物とまでなったのです。
長宗我部元親の概要
天文8年 (1539年) |
長宗我部国親の長男として、土佐(高知県)国で生まれる |
永禄3年 (1560年) |
長浜の戦いで初陣を飾る。国親の急死によって21代当主となる。 |
永禄11年 (1568年) |
本山親茂を撃破し、土佐中部を平定する。 |
永禄12年 (1569年) |
安芸氏を八流の戦いにおいて撃破、土佐東部を平定する。 |
天正3年 (1575年) |
一条氏を四万十川の戦いで撃破、土佐統一を成す。 |
天正10年 (1582年) |
中富川の戦いで三好氏を撃破、阿波国を支配する。 |
天正11~12年 (1583~1584年) |
賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いで豊臣勢を撃破、讃岐を支配する。 |
天正13年 (1585年) |
河野氏を撃破、伊予国を支配し四国統一を果たすも、豊臣勢に敗れ土佐国のみ安堵される。 |
天正14年 (1586年) |
九州征伐において島津氏らと対峙、長男・信親が討死する。 |
天正16年 (1588年) |
家督継承問題が勃発、家臣らの反対を押し切り四男・盛親に相続する。 |
慶長4年 (1599年) |
京都市伏見区にある伏見屋敷にて死去する(享年61歳)。 |