毛利元就は、一代で中国地方を統一した安芸国出身の戦国時代の大名で、毛利家の12代当主です。

通常、毛利家の当主は長男が継承していましたが、毛利元就の兄である毛利興元が急死し、その息子で長男の毛利幸松丸も幼くして亡くなります。

そのため、家臣たちの要請により、次男である毛利元就が毛利家の家督を継承することになったのです。

毛利元就は、正室である妙玖が亡くなるまで側室をもたず、子供はわずか4人でした。しかし、妙玖が亡くなったあとに4人の側室を迎え、子供の数は7人増えます。

その後、子どもたちを養子に出したり、分家となったりして子孫は増え続け、現在も進行形です。

この記事では、毛利元就にとって身近な直系と現在の子孫たちをご紹介します。

毛利元就の直系子孫である毛利家当主

毛利家の長男として生まれ、必然的に当主となる子供たち。そんな毛利元就の直系子孫である毛利家当主たちは、どのような人物だったのでしょうか。

以下、当主として生きた3人の子孫をご紹介します。

毛利家の優れた内政手腕|長男・毛利隆元

毛利元就の長男である毛利隆元は、毛利家の13代当主です。

父である毛利元就から家督を継承しましたが、直接の権力を握ることはありませんでした。その代わり、優れた内政手腕によって、父の勢力拡大を支え続けます

温厚で情が厚く、誠実な性格を持ち、教養が豊かであった毛利隆元には、その反面気概や機転に欠ける部分がありました。毛利元就や家臣から何度も忠告を受けたとされています。

父である毛利元就の偉大な存在は、毛利隆元の人格形成に非常に大きな影響を与え、毛利隆元もそのことを自覚していました。

毛利隆元は内政や財務に優れており、毛利隆元の死後、毛利家の収入が約4,000石ほど減少したと言われています。

政治的にも、毛利元就の重臣たちと毛利隆元の直属の官吏たちとの間で、意見の対立が生じたことから、自ら独自の派閥を組織する能力があった人物でした。

豊臣政権五大老の一人|孫・毛利輝元

毛利輝元は毛利元就の孫で、毛利家の14代当主であり、長州藩の藩祖です。父である毛利隆元が急死後、毛利家の家督を継承しました。

毛利輝元は、毛利元就と二頭体制で領国の統治に取り組みます。毛利元就が亡くなると、自らが親政を開始し、領国の維持に尽力しました。

織田信長と豊臣秀吉の中央政権と争いを繰り広げ、毛利元就時代を超える広大な領土を獲得します

本能寺の変で、織田信長が亡くなった後も、数年にわたって争いが続きます。

やがて国境策定に同意し、毛利元就以来の領地を確保し、織田信長と豊臣秀吉政権との争いを終結させました。

さらに、豊臣秀吉の天下統一戦争にも協力し、四国と九州を攻略します。

豊臣政権下では、毛利輝元は豊臣秀吉の信頼を得て、豊臣政権五大老の一人として重要な役割を果たします

領国経営にも力を注ぎ、広島城を築城して整備し、支配体制の構築に努めました。

毛利家を藩主とする長州藩の初代藩主|ひ孫・毛利秀就

毛利秀就は毛利元就のひ孫であり、毛利家の15代当主です。また、毛利家を藩主とする長州藩の初代藩主でもあります。

長州藩は、関ヶ原の戦いに敗れ、8カ国の領地を周防・長門の二国に削減された、毛利家から成立した藩です。

毛利秀就は、大名である毛利輝元の息子として育ちましたが、若い頃は苦労知らずの生活を送り、素行が悪かったと言われています。

夜遅くまで遊んでいたため、昼間は寝不足で、政務などの仕事もまともにできません。

初めて領国に入った際には、非常に威圧的な態度を取り、百姓たちは逃げ出すほどでした。

家臣やいとこの毛利秀元の忠告も聞き入れず、父の毛利輝元も叱責しましたが、効果はありませんでした。

家督が正式に毛利秀就に譲渡されると、毛利秀就が単独で藩主を務めます。しかし、実際の藩政は、後見人である毛利秀元と家臣である益田元祥と清水景治らが担当し、毛利秀就に権力はほとんどなかったとのことです。

毛利家の分家となった毛利元就の直系子孫たち

毛利家には9つの分家があり、毛利元就には、毛利家の分家となった子孫たちが多く存在しました。

以下で、分家となった直系子孫をご紹介します。

吉敷毛利家|三男・小早川隆景と九男・小早川秀包

毛利元就の三男である小早川隆景と九男の小早川秀包は、吉敷毛利家の祖とされています。

吉敷毛利家は毛利家の庶流で、武家や士族、華族の家系です。江戸時代には長州藩の一門家老家として存在し、明治維新後は、最初は士族、その後に華族の男爵家として扱われました。

小早川隆景には実子がいなかったため、弟である小早川秀包を養子とします。

ところが、小早川隆景が豊臣家から秀秋を養子として迎えると、小早川秀包は廃嫡され、その際に独立した家を立てたのが吉敷毛利家の始まりでした。

小早川隆景は、兄である吉川元春とともに「毛利両川体制」の強力な水軍として活躍します。

一方、小早川秀包は毛利一族の中では目立たない存在でしたが、容姿が整っており、鉄砲術に長け、勇ましく非常に強い武将でした。

長府毛利家|孫・毛利秀元

長府藩は、現在の山口県下関市長府に位置し、江戸時代に存在した藩のひとつで、藩主は毛利家でした。

長府毛利家の初代藩主は、毛利元就の四男である穂井田元清の子供の毛利秀元です。

毛利秀元は、実子がいなかった毛利輝元の養子となっています。

しかし、毛利秀就の誕生により、毛利秀元は廃嫡されましたが、のちに毛利輝元から領地を与えられて大名となることが決定しました。

1599年6月、毛利秀元は一豊臣大名としての地位が認められ、長門国の一国と安芸国佐伯郡および周防国吉敷郡の合計17万石を与えられます。

これにより、毛利秀元は独立大名として別家を立て、長府藩の立藩となったのです。

厚狭毛利家|五男・毛利元秋と八男・末次元康

厚狭毛利家は、毛利元就の五男である毛利元秋と八男である末次元康を祖とした分家です。

関ヶ原の戦いのあと、長門厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に1万500石を与えられたのが始まりでした。

末次元康の跡を子供である末次元宣が継ぎ、2つの村を与えられ、末益村の郡に居館を構えたことにより、厚狭毛利氏というようになったそうです。

毛利元秋は、毛利元就の息子であり、毛利家の家臣でした。

毛利元就の命令で椙杜家へ養子に入っていた毛利元秋は、尼子氏から攻略した月山富田城の大将として任命されます

それによって、椙杜家との養子縁組を解消し、毛利家に復帰しました。

末次元康もまた、毛利家の家臣として活躍します。

末次元康は、椙杜家に養子に入っていた兄である毛利元秋の跡を継ぎ、椙杜家の家督を継いだともされていますが、詳細は不明です。さらに、急死した毛利元秋の家督を相続し、月山富田城主となりました

右田毛利家|七男・天野元政

毛利元就の七男である天野元政は、毛利元就の家臣であり、右田毛利家の祖でした。

右田毛利家は吉敷毛利と同様、毛利家の庶流で、武家や士族、華族の家系です。

江戸時代には、長州藩の一門家老家として存在していました。明治維新後は最初は士族、その後に華族の男爵家として扱われます。

天野元政は、大内氏庶流である右田氏当主・右田隆量の養子となりましたが、のちに姓を毛利に戻しました。

天野元政は、毛利元就の死後、父の抜け落ちた歯を肌身離さず持ち歩き、元就の三十三回忌に供養塔を建立し遺歯を納めたと言われています。

息子として、父である毛利元就への深い想いが表れているエピソードです。

毛利元就の死後も活躍した直系子孫の吉川元春

父である元就の生前、弟の小早川隆景と共に「毛利両川体制」で毛利家を発展させた次男の吉川元春は、毛利元就の死後も活躍します。

毛利元就が亡くなったあと、当主である甥の毛利輝元を弟の小早川隆景と共に補佐し、毛利家を支え続けました

また、その後織田信長との戦いが各地で続き、毛利家は一時期、劣勢となるときもありました。しかし、本能寺の変で織田信長が死去し、織田軍との戦いは終結を迎えます。

その後、毛利家は豊臣秀吉の天下統一に協力しましたが、弟の小早川隆景は積極的であったなか、吉川元春は出陣しませんでした。

吉川元春が、家督を長男の吉川元長に譲り、隠居を決意した理由として、豊臣秀吉に仕えることを拒否したからとされています。

毛利家が豊臣秀吉に下るまで、毛利家を発展させ活躍し、支え続けた吉川元春は、直系子孫の中でも名将と呼ぶにふさわしい人物でした。

毛利元就の子供12名一覧表

出生順 名前 生没年
1 長女 不明
2 毛利隆元 1523-1563
3 五龍国 1529-1574
4 吉川元春 1530-1586
5 小早川隆景 1533-1597
6 穂井田元清 1551-1597
7 毛利元秋 1552-1585
8 出羽元倶 1555-1571
9 天野元政 1559-1609
10 末次元康 1560-1601
11 小早川秀包 1567-1601
12  芳林春香 不明

毛利元就の現在の子孫

戦国時代から現代まで、毛利元就の子孫は途切れることがなく続いています。

毛利元就の現在の子孫で有名な人物が存在するのは、ご存じでしょうか。ここでは、毛利元就の子孫の活躍についてご紹介します。

芸能人の吉川晃司氏

芸能人の吉川晃司さんは、毛利元就の次男である吉川元春の子孫です。

広島県安芸郡府中町出身で、俳優やミュージシャンとして活躍されています。特に、布袋寅泰さんと共に組んだ「COMPLEX」は有名です。

また、俳優としても活躍され、過去に公開された大河ドラマ「天地人」では、毛利家と対立していた織田信長を演じました。その際、親族から敵役をやるのかと、異論があったそうです。

現在は、自身が設立した会社の代表取締役社長を務めています。

格闘家の毛利昭彦氏

格闘家の毛利昭彦さんは、山口県徳山市(現・周南市)出身で、毛利元就の子孫です。

現在は総合格闘家として活躍する傍ら、毛利昭彦さんが自ら開いた「毛利道場」の主宰も務めています。

毛利家に伝わる格言である「百万一心」が道場訓です。「皆で力を合わせれば、何事も成し遂げられる」という意味をもちます。

このことから、毛利家が大切にしてきた意志が、受け継がれていることがうかがえます。

会社の部長を務める毛利元栄氏

毛利元栄さんは、毛利家本家の32代目の当主です。毛利元就と同様、毛利家直系の子孫に当たります。

著名な芸能人などではないですが、毛利家本家の子孫であることで知られる方です。

現在の職業は、自動車・産業インフラ・エレクトロニクス関連分野を中心に、さまざまな高機能材料を製造する会社の部長を務めています。