戦国時代において、珍しく長生きをした毛利元就ですが、その人生の中で、数々の名言を残しています。
その名言が生まれた背景には、毛利元就が幼少期にどのように育ち、多くの智将、敵将と渡り合い、親族や部下を大事にしながら、
時として厳しい選択を迫られるなどの、人生の経験が反映されています。
毛利元就の教えが子や孫はもちろん、明治維新まで伝えられているのは、明治維新で活躍した志士達を見れば明らかです。
「三本の矢」に代表されるように、親族はもちろん協力関係にある者達と力を合わせる事が、いかに大事かを説いています。
今回は、この毛利元就の名言について解説します。
毛利元就の名言
毛利元就の名言を「戦いの心得」「志」「家臣の扱い」に分けて、まとめました。
毛利元就は、「謀神」と呼ばれる程、謀略の天才でありました。
謀略相手を、敵側から味方側に引き込み、「力を合わせて」自分の理想を実現する方法を多くとっています。
元就の志における名言は、実に謙虚です。健康にも言及しているのは徳川家康にも通じるところがあります。
元就の名言は、現代社会にも通じるものがあり、多くの経営者やビジネスマンが座右の銘にするほどです。
戦いについて残した名言
「この矢一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ず背くなかれ。」
元就の書状「三子教訓状」が、名言の由来と言われています。
「坂の縁故があるといっても、お主らを疑いはせぬ。わしには全く他意はない。もし疑うのなら、今わしは1人だから討ち殺すがよい!」
元就の異母弟・相合元綱が尼子経久の調略により元就に反旗を翻し反乱を起こしました。この時、家臣の坂氏が元綱に味方したため、坂氏の最長老が自害しました。残った一族が自刃しようとしたところを元就が懸命に説得しました。
「一芸もいらず、能もいらず、遊もいらず、履歴もいらない。ただ日夜ともに武略、調略の工夫をすることこそ肝要である。」
「敵が言いふらした計略かもしれないのに、それを我々父子の前で言い出すとはあるまじき事だ。」
「一年の計は春にあり、一月の計は朔にあり、一日の計は鶏鳴にあり。」
「謀多きは勝ち、少なきは負ける。」
「三人の半ば、少しにても、懸子へだても候はゞ、 ただただ三人御滅亡と おぼしめさるべく候々」
上の名言は、主に謀略について述べられたものです。
「尼子の勢力はまだ強く力攻めは成功しない、持久戦に持ち込んで調略を仕掛けた方がよい。」
第一次月山富田城の戦いで元就は大内義隆に進言したため、義隆は強硬に攻撃しましたが失敗、撤退中に大きな損害を出しました。
「上意に背いてでも、家を維持しないことには仕方がない。」
孫子の兵法には、「君命に受けざる所あり」という文章があります。
これは、「例え君主の命令でも、状況によっては従わなくても良い。」と言う意味になります。
この名言は、孫子の兵法に通じるものがあり、元就が孫子に精通している証拠でもあります。
また、幾度も尼子氏に毛利家を乗っ取られようとしましたから、この言葉は尼子のちょっかいは本当に面倒くさいという本音が混じっているのを感じます。
志について残した名言
「 我は酒が飲めぬから、かように長生きなのだ。酒を飲まなければ、70、80まで健康でいられて、めでたいことだ。」
元就は、父と兄を酒毒で早くに亡くしています。
元就は、自分の家系が酒毒で早死にするのを理解しており、それゆえ酒を飲みませんでした。
そのためか、元就は長寿を全うし、老齢でも元気だったそうです。
「中国地方の全部とは愚かなことだ。天下を全部持つようにと祈れば良いものを。天下を取ろうとすれば、だんだん中国地方は取れる。中国地方だけを取ろうと思えば、どうして取れるだろうか。」
「我、天下を競望せず。」
この上の2つの名言は矛盾した内容になっています。元就自身は天下を望んでいませんでした。
しかし、彼の家臣が神仏に祈願する際に「元就様が安芸国一国を支配できるよう」と祈願した事を聞いた元就は、「なぜ天下を取れるように祈願してくれなかったのだ」と言っています。
元就が言いたかったことは、「目標を高く掲げることで、目標に届かなくても、そこそこのところまで到達できるが、最初から目標が低いとその目標の到達までも難しくなる。」ということです。
現在の経営者にも、この考えに共感している方は多くいます。
「友を得て なおぞ嬉しき桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は。」
この句は、元就の辞世の句と言われています。
謀略家と言われる元就ですが、実は親族や家臣を大事にする性格だったそうです。
自分は真の友人がいないとも言っていたそうですが、老齢になり本当に心を許せる友に出会ったのではないでしょうか?
「体が強くもなく、精神的にも強くなく、知恵や才覚が人並み外れているわけでもなく、また常に正直で人並み以上に神仏の加護があるわけでもないのに、どういうわけか乱世を生き延びている。」
「思えば遠くきたもんだ。此の先まだまだ何時までか生きてゆくのであろうけど」
部下の扱いについて残した名言
「道を歩いてつまづくのはありがちなことだ。少しも気にすることはない。」
この言葉は、幼い元就が言った言葉だそうです。
粗相を詫びる世話役に言ったそうですが、英語で言うと「Take It easy.」という意味合いに受け取れます。
幼い頃から、このような気遣いが出来るのはさすがと言えます。
「百万一心」と石碑に彫って人柱のかわりに埋めろ」
吉田郡山城の築城で、トラブル続きだった時に普請奉行が人柱を提案しました。
元就は、この案を却下し、「石柱に百万一心と刻んで埋めよ」と命じます。
その後、城は何とか無事に完成したとの事です。
「家臣が喧嘩して一方を殺した場合、殺したものをお助けになりますか?この鳥はまさか狐に対して不埒なことも致しますまい。それなのに食べ殺した罪は、決して軽くはありません。鳥も私の家来。狐もこの邸地にいるから家来も同然です。だから、狐を殺すのは道に外れていません。」
元就が7歳のころ、1羽の鶏を可愛がっていました。
ある時、狐に愛する鶏を食べられます。怒った元就は狐を退治しようとします。
慌てた母は、元就に止めるように言いますが、この時に言った言葉が上の名言です。
「部下の命を守るのにこれしきのことをするのは当然だ。」
戦いの最中、家臣が矢を射られ、膝に矢じりが残ってしまいました。
このままでは足を切断しなければならないと言われていたところ、元就は子の家臣の傷口を吸って矢じりを取り出しました。
この時に言った言葉と言われています。
中国,戦国時代末期の韓の思想家 韓非子(かんぴし)による、「傷口を吸われた部下は、傷を吸った将軍の為なら喜んで死ぬだろう」というこれに似た話もあります。
リーダーたるものの心得を聞いた気がします。
「言葉は心の使いである。言葉によって、その人が善か悪か、才能があるかないか、剛勇か臆病か、利口か愚かか、遅いか速いか、正直か正直でないか、そうしたことがすぐに分かるものだ。」
相手を思いやるのは、まず言葉使いからという意味で、家臣・国人に配慮した元就ならではの名言です。
毛利元就が残した名言の背景
これまで元就の名言を紹介しました。
元就は、どのように思ってこれらの名言を言ったのか、興味があるところです。
ここでは、元就の人生を振り返って、名言が生まれた背景を見てみましょう。
養母に育てられた幼少期
元就は、幼少期に父母を10歳にして亡くします。
さらに家臣に裏切られ、城を追われて生活に困窮します。
そこに救いの手を差し伸べてくれたのが、養母の杉大方です。
杉大方は信心深く、高名な僧がいると聞くと、元就を連れて一緒に話を聞くことをしたそうです。
また、杉大方が亡くなった時は、大変感謝していると周囲に漏らしていました。
人格が形成されつつある幼少期に杉大方に育てられたことは、家臣や周辺国人の心配りに表れています。
本家を立てた後見人時代
元就は、毛利弘元の次男であったことから、自ら分家としての立場をわきまえていました。
兄・興元が存命中は、兄を立てて従っていました。
その興元がストレスの為酒に走り、早世すると、その子・幸松丸が継ぎますが、幼かったことから元就が後見人として幸松丸を立てています。
しかし、尼子経久の無理強いで鏡山城の戦いに連れ出された幸松丸は、その後亡くなります。
毛利家の家督は、尼子経久の次男・尼子豊久に渡りかけますが、毛利家臣の必死の抵抗により阻止され、元就が家督を継ぎました。
元就は分家ということで謙遜をし、連歌で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱」と詠っています。
このように自分を立ててくれる家臣達を、ぞんざいに扱わないようにしていたと考えます。
尼子氏に翻弄された尼子氏服属時代
尼子経久は幾度となく、毛利家を自分の思う通りにしようと、家督争いを画策します。
元就はそれを我慢強くこらえ、離脱する機会をうかがっていました。
尼子経久は「謀聖」と呼べれるほど、謀略に長けています。
この謀略に立ち向かうには、親族・家臣・国人の一致団結が大事だと気付いたのでしょう。
そして、敵への調略には、この信頼関係を壊すことが最も効果があると考えていました。
大内氏服属から中国地方統一へ
元就は、不信感を抱く尼子氏から離れ大内氏の傘下に入りました。
大内義隆は、尼子の様に毛利に干渉しませんでした。
この時期は、尼子晴久との戦いに明け暮れます。
周辺国人は寝返りやすく、幾度も戦いで不利な状況に追い込まれました。
年齢もすでに50歳を超え、人生についても考える時期でした。
父と兄は酒に溺れ、早くに亡くなっています。元就は、酒を飲まず、孫の輝元にも酒の飲み方についても慎むように言っています。
大内氏・尼子氏に打ち勝ち、中国地方を統一しましたが、「我、天下を競望せず。」と言っています。
元就の人生を見ると、本当に中国地方の統一、ましてや天下統一を目標としていたとは思えません。
多くを望んで滅ぶ家が多くある中で毛利家が存続し続けたのは、お家と領地の安寧を第一と願ったからでした。
名言「三本の矢」の時代背景
元就の代表的な名言「三本の矢」については、あまりにも有名で映画の題材になるほどです。
元就が戦ってきた時代の背景では、国人の裏切り・寝返りが頻繁に起こっています。そして、「寝返ったから一族全員殺される」ことも無かったようです。まさに将棋の駒のようです。
周辺国人がこのような感じなので、一族の結束がとても重要だと元就は考えていました。
その考えが顕著にあらわれているのが、「毛利両川体制」です。
元就の子を、毛利氏・小早川氏・吉川氏のそれぞれに継がせ、協力体制を強める事を説いています。
このように、元就は毛利氏の中国地方での影響力を強固なものとしてきました。
元就の合理的な考え方を示す「百万一心」
「百万一心」の名言は、吉田郡山状の築城時の話になります。
城の築城が難工事であったため、譜代奉行が人柱によって難工事を治めようとしました。
しかし、元就は石柱に「百万一心」という文字を刻ませ、人柱の変わりとしました。
この話は、三国志の諸葛孔明が荒れた河を渡るときに、河の神への捧げものとして生贄の代わりに、頭の形をした肉まんを捧げた話とよく似ています。
元就が三国志のこの話を知っていたかは定かではありませんが、当時の風習だった人柱をやめさせたのは、迷信にとらわれない合理的な考えを持っていたからと思われます。
また、この時代には珍しく人命を尊重していたとも考えられます。