四国を代表する戦国大名長宗我部元親は、小領主から四国の覇者にまで上り詰めた人物です。家督相続から25年で土佐だけでなく四国全域の平定まで成し遂げた彼の生涯は、注目に値します。

同時に元親の生涯に登場する城も様々です。居城だった岡豊城や浦戸城などのほか、長浜城や朝倉城のように転機となった城もあります。元親の関わった城を見ていくと、彼の60年以上の激動の生涯を知る際に便利です。加えて四国に行った際に城跡を訪れると、元親の活躍ぶりに思いを馳せられます。

長宗我部元親の生涯を彩った城について、居城や彼が深く関わった城から見ていきましょう。

長宗我部元親が過ごした城

土佐の小領主から四国統一を成し遂げた長宗我部元親は、生涯で4つの城を居城として過ごしました。彼の居城の中には、かつての土佐である高知県以外にあった城も含まれるため、四国統一にまい進した元親の生涯を追体験できます。

同時に元親の居城を見ていくことは、彼の人となりや苦労を理解する上でも欠かせません。長宗我部元親が60年以上にわたる激動の生涯の中で居城とした城をご紹介します。

岡豊城

岡豊(おこう)城は高知県南国市を流れる国分(こくぶ)川沿いにある山城です。遅くとも15世紀に築かれた城で、以来長宗我部家の代々の居城として使われます。標高97mの岡豊山を活用していて、山頂一帯に築かれた主郭に当たる一辺約40mの「詰(つめ)」を中心に、一ノ段から四ノ段までの4種類の曲輪も備えていました。

加えて詰の西には「伝厩跡曲輪(でんうまやあとくるわ)」が、南側には「伝家老屋敷曲輪(でんかろうやしきくるわ)」があり、主郭防衛の拠点でした。合わせて詰の周辺部にも急斜面や堀切がそびえていたり、城の各所に井戸があったりするため、攻城戦に耐えられる造りです。

元親は1539年に岡豊城で生まれ、1560年に22歳で長宗我部家の家督を継いでいます。以来岡豊城は土佐を含む四国全域の統一の本拠地として活用されました。1591年に元親の浦戸城移転に合わせて廃城となっています。

白地城

白地(はくち)城は、徳島県三好(みよし)市の吉野川が望める丘陵上に築かれた城です。

1575年に土佐統一を成し遂げた元親は白地城に目を付けます。白地城は東へは徳島平野に出られる上、西の伊予や北の讃岐を狙う上で戦略上便利であったためです。1577年に白地城を落とした元親は、以来四国統一のための拠点として活用します。しかし四国統一を成し遂げた1585年、攻め込んできた豊臣秀吉に屈服して土佐のみを安堵されたため、白地城は廃城となりました。

現在城跡は大西神社や地元のホテルの敷地になっているため、遺構はほとんど見られません。ただ大西神社の背後に土塁跡があるほか、神社の境内に城があったことを示す碑文が建てられています。

大高坂城

大高坂城は高知市内を一望できる標高45mの大高坂山にあった城です。なお、最初は南北朝時代に地元豪族の大高坂家が築いたとされています。1585年に豊臣秀吉に臣従した元親は、今までの本拠地であった岡豊城から大高坂城への移転を決めました。山城で麓に広い城下町が望めなかった岡豊城と異なり、大高坂城は高知平野に面していて広い城下町づくりが期待できたためです。

ただ城下を流れる川の水害に悩まされたため、城下町づくりは困難を極めます。結局元親は大高坂城の築城を諦め、南方にある浦戸(うらど)城を新たな居城としました。

大高坂城は関ケ原の戦い後、長宗我部家に代わって土佐を支配した山内一豊が活用します。高知城として再建された大高坂城は、以降江戸時代を通じて土佐藩の本拠地となりました。

浦戸城

浦戸城は大高坂城と同じく高知市内にある城です。現在の高知市で非常に有名な景勝地である桂浜のすぐ後ろにそびえる標高59mの浦戸山に築かれていました。元々は土佐に割拠した有力豪族・本山家の城でしたが、本山家滅亡後は長宗我部家が支配しています。

1591年に元親は居城として改築した上で、山の北側にも城下町を築きました。移転後は1599年に世を去るまでの数年にわたって居城とします。元親亡き後も家督を継いだ四男の盛親が居城としたものの、関ヶ原の戦い後に長宗我部家が没落すると、山内一豊が居城としました。

城自体は太平洋を望む半島に位置し、東・北・南の三方は海に囲まれています。城跡にはわずかに堀切や石垣が残るだけです。

長宗我部元親と関わりが深い城


長宗我部元親の城は自ら居城にしたものに加えて、彼の生涯で大きな意味を持った城もいくつかあります。以下に紹介する城も元親が居城とした居城ととも、元親の激動の生涯を知る上で欠かせません。

元親と関わりが深い城として、以下の3つをご紹介します。いずれも元親が生涯の中で経験した主要な戦いに関わる城ですので、ぜひ読んでみてください。

長浜城

長浜城は高知市でも南方にある城の1つです。土佐の有力豪族である本山家が、当時関係の悪化していた長宗我部家に備える目的で築きました。現在では山の北側が団地となり、遺構もほとんど残っていません。

1560年5月、海を挟んだ対岸にある長宗我部方の種崎城への兵糧搬入を本山軍が妨害したことから、両家の間で先端が開かれます。元親も22歳にして初陣を果たすことになりましたが、出陣前に家臣に槍の扱い方を聞いたために父・国親から不安がられました。

長宗我部軍は岡豊城を出陣して長浜城を夜襲で奪い取った後、翌日には近くの戸ノ本で本山軍と野戦となります。元親は乱戦の中で大活躍して初陣を飾り、「鬼若子(おにわこ)」の異名で恐れられるようになりました。合戦の後、元親は急病で世を去った父の跡を継ぎます。

朝倉城

朝倉城は高知市西側の朝倉地区にあった山城です。高知大学朝倉キャンパスの西にそびえる標高100mの丘陵を活用していました。山頂部分に築いた20haの平坦地に本丸を設けていたほか、少し低い部分にもいくつかの出丸が築かれていたのが特徴です。

朝倉城は1532年に本山家が築城したと考えられています。やがて、朝倉城は長宗我部家との抗争の舞台になりました。

元親が朝倉城の攻略に乗り出したのは、家督を継いで間もない1562年のことです。3000の兵を率いて朝倉城を攻めたものの、本山家当主・茂辰(しげとき)の前に敗退しています。

しかし、元親は翌年も侵攻し、本山軍を土佐北部の本山城に追いやりました。朝倉城も本山軍の撤退で炎上した挙句、廃城となっています。

勝瑞城

勝瑞(しょうずい)城は徳島県板野郡藍住(あいずみ)町にあった平城です。現在見性寺がある一帯が本丸で、周りにも土塁や水堀が残存しています。

勝瑞城は当初阿波守護の細川家が本拠としていました。細川家の衰退後は、家臣の三好家が台頭するとともに、勝瑞城は引き続き四国における一大拠点として活用されます。しかし三好家も内部争いなどで衰退すると、阿波には長宗我部元親が進出してきました。

1582年、元親は阿波の完全掌握を目指して大軍で出陣します。勝瑞城主で三好一族の十河存保(そごうまさやす)は5000の兵で抗戦したものの、最終的には北の讃岐へと退きました。存保の撤退で元親は阿波の大部分を掌握し、四国統一事業で大きな一歩を残しましています。

城下町作りに苦労した長宗我部元親

長宗我部元親は生涯に居城とした4つの城のうち、晩年近くになって移転した大高坂城と浦戸城では城下町作りにも力を注ぎました。しかし土佐特有の事情も重なったために、城下町作りに苦労した跡もうかがえます。

大高坂城は北に江の口川が、南に鏡川が流れていて守りに適していた上に、周囲にも平野が広がっているのが特徴でした。早速城下町作りを始めた元親でしたが、雨が多い季節に町作りを始めたため、2つの河川の水害に悩まされます。雨が止んだ後も水はけが悪かったため、結局元親はさらに南の浦戸城を居城としました。

浦戸城でも城下町を作り始めますが、今度は家臣の多くが移住を嫌がります。自身の持つ土地で農作業を行う人々が多く、土地を捨てたくなかったためです。浦戸城下に移り住んだのは長宗我部家でも重臣クラスの人々ばかりでした。

長宗我部元親とは何をした人?


長宗我部元親は1539年に長宗我部国親の長男として誕生しました。1560年に父の病没で家督を継いだ後は着実に土佐国内の敵対勢力を滅ぼし、1575年に土佐を統一します。

土佐統一後は阿波や伊予、讃岐に進出し、1585年に四国統一を成し遂げました。四国の覇者に上り詰めた元親は、「土佐の出来人」の異名で知られるようになります。

その後四国に攻め込んできた豊臣秀吉に抵抗したものの、圧倒的な戦力差で降伏しました。