年表|豊臣秀吉にかかわる出来事
1536年 | 豊臣秀吉(幼名・日吉丸、のち木下藤吉郎) |
1554年 | 織田信長に仕える |
1570年 | 金ヶ崎の戦い 光秀と共に殿を務める |
1575年 | 長篠の戦い 織田・徳川連合軍で信長の窮地を救う |
1577年 | 信貴山城の戦い 兵糧攻めにより鳥取城を落城させる |
1582年 | 本能寺の変 中国進軍の最中で信長の死を知る |
1582年 | 山崎の戦 中国大返しにて明智光秀を討つ |
1584年 | 小牧・長久手の戦い |
1585年 | 近衛前久の猶子となり関白の座に就任 |
1586年 | 正親町天皇から豊臣姓を賜り太政大臣に就任 |
1588年 | 刀狩令・海賊停止令発布・施行 |
1591年 | 奥州平定 豊臣秀次を関白に 秀吉は太閤となる |
1592年 | 朝鮮出兵 |
1593年 | 後継者豊臣秀頼誕生 母は側室の淀殿 |
1597年 | 2度目の朝鮮出兵 |
1598年 | 病により死去 |
歴史|豊臣秀吉の生涯
誕生から織田信長の信頼を得るまで
豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村郷で、父「木下弥右衛門」と母「なか」の間に産まれました。
15歳になる年に今川氏の「家臣の家臣」(陪臣)である松下氏の元で元服します。
その後、幼名の日吉丸から「木下藤吉郎」と改名しました。
1544年になると織田信長の奉公人として仕え、1561年には足軽組頭にまで出世しました。
同じ長屋に暮らしていた杉原定利の娘「ねね」と結婚したのもこのころです。
1566年、信長が美濃国の斎藤家へ侵攻する際、敵を目前に「墨俣城」を一夜で築きます。
材木を川の上流から下流に流し猛スピードで築城するというこの奇策により、秀吉は信長に目をかけられるようになったのです。
1570年には越前国敦賀郡の「金ヶ崎の戦い」では、「金ヶ崎の退き口」といわれる撤退劇により、被害を最小限にとどめたことで、黄金数十枚を得ています。
アイデアと思い切りの良さを、絶好のタイミングで知らしめたことで、秀吉は信長から信頼を勝ち取りました。
播磨・但馬を攻略!兵糧攻めで中国地方制圧まで
秀吉はいつか柴田勝家・丹羽長秀のような武将になると心に誓い「羽柴秀吉」に改名します。
すでにいくつかの功績を残してきた秀吉でしたが、1575年「長篠の戦い」でも活躍し、周囲の武将たちにも名が知れるようになっていきました。
しかし1577年秀吉は「手取川の戦い」において、柴田勝家ともめたことで勝手に兵を撤収してしまい、これにより柴田勝家は上杉謙信に敗北します。
信長はこれを聞き、激しく怒ったといいます。
汚名挽回とばかりに、信貴山城の戦いでは信長を2度にわたり裏切った松永久秀を討伐し、なんとか信長からの信頼も回復しました。
その後、中国地方攻略の命をうけた秀吉は、摂津国の荒木村重による突然の謀反にも屈することなく、秀吉得意の兵糧攻めに水攻めを展開し、中国地方制圧に成功したのです。
明智光秀討伐から天下統一まで
中国平定が順調だった最中、1582年明智光秀が謀反を起こします。
本能寺にいた織田信長は明智光秀に奇襲をかけられ、本能寺の御殿で命を落としました。
それを聞いた秀吉は「織田信長の死を隠し」、毛利輝元と講和を成功させ、京都へ踵を返します。
のちに「中国大返し」といわれた、秀吉ならではの奇策です。
秀吉は移動する中で諸大名を味方につけ、40,000という兵力で明智光秀を討伐しました。
信長亡き後は跡継ぎ問題で柴田勝家ともめていましたが、跡継ぎ問題をうまく利用し、賤ヶ岳の戦いに勝利します。
柴田勝家はお市の方とともに自害し、織田信孝も切腹を命じられたことで自害となり、秀吉は大阪城を築城しました。
その後、小牧・長久手の戦いで織田信雄と講和を結び、1586年には太政大臣へ、さらに1590年に小田原征伐に成功し天下統一を果たしたのです。
家系図|豊臣秀吉の一族
豊臣秀吉は戦国時代の武将の中でも実子が少なく、男子が3人、女子が1人です。
秀吉と同じ三英傑と呼ばれた織田信長は20人、徳川家康も16人の子がいましたから、比較してみてもかなり少ないといっていいでしょう。
また秀吉の子どもたちは家督を継いだ豊臣秀頼以外は、幼い頃に命を落としています。
正室である「ねね」とは子宝に恵まれず、出産経験のある側室も子どもに恵まれなかったといわれています。
相関図|豊臣秀吉と関わりが深い人物
織田信長
豊臣秀吉は百姓の出でしたが武士になろうと必死でした。当時、百姓から武士になるなどとても考えられなかった時代でした。
相手にされないことも多かった秀吉に対し、身分を気にすることなく雇ってくれたのが織田信長です。
当時の尾張国は守護であった斯波氏の力が弱くなり、守護代であった織田氏の側でも分家が複数あり混沌としていました。
信長は身内を信頼することができず、豊臣秀吉や明智光秀など、他人の家臣を重用していたのですね。
また信長はまだ子どもに恵まれていなかった頃の秀吉に、自分と側室との間に生まれた「於次丸」(のちの羽柴秀勝)を養子に出していますから、縁戚関係でもあったのです。
徳川家康
豊臣秀吉と徳川家康双方とも、小牧・長久手の戦いの際、「侮れない武将」と認識し、これ以上戦わない方がいいとして講和を結びました。
徳川家康の力量を知った秀吉は、何とか自分のところへ臣従させようと必死になります。
家康の底知れぬ力と知識を自分の味方にしておかないと、この先大きな壁となる・・そう考えたのでしょう。
ところが秀吉が関白になり従属を勝ち取ろうとしても家康は動きません。
そこで1586年5月、自分の実妹である「朝日姫(旭姫)」を輿入れさせたのです。
これにより秀吉と家康は「義兄弟」となりました。
また同年10月には朝日姫を見舞うという理由を付けて自分の実母である「なか(大政所)」を岡崎へ送っています。
これによってやっと徳川家康を臣従として迎えることができたのです。
五大老
豊臣の五大老とは徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜田秀家・上杉景勝です。
秀吉にとって徳川家康は、自分が亡くなった後に豊臣家を継ぐ秀頼の後援者と任命するほど頼りにしていた武将であり、逆に武将として力量が大きすぎる家康に恐れも持っていました。
家康を京都においたのは諸大名を見張ってほしいという思いと、関東に戻って不穏な動きをしないようにという思いもあったようです。
前田利家は秀吉と同じく信長に仕え、本能寺の変の後、秀吉と柴田勝家との戦いの際秀吉側につきました。
のちに加賀百万石の礎を築いた武将です。
毛利輝元は毛利元就の孫であり、中国地方などに120万石という領地をもつ大名でした。
宇喜多秀家といえば「謀将」(計略に秀でた武将)と名高い宇喜多直家の子です。
備前・美作の大名として秀吉に仕えていました。
秀吉の養女「豪姫」が嫁いでいることから、秀頼を盛り立ててくれるだろうと期待していたといいます。
上杉景勝は越後の雄と呼ばれた上杉謙信の養子でした。
信長の死後、秀吉に接近し親しい関係となり、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉方として戦っています。
北政所
浅野家の養女であった「ねね」が秀吉と結婚したのは14歳の頃です。
秀吉は信長に仕え7年目でありまだまだ身分が低かったため、ねねの実家である「木下」に婿入りという形をとり、この結婚によって木下藤吉郎となりました。
ねねは秀吉の妻であり教育役でもあり、加藤清正、福島正則などを立派な武将に育てたといっても過言ではありません。
武将の妻となると夫が城に不在とあらば、領地のことや外交など様々な権限を持って当たらなければなりませんでした。
ねねはこうした仕事を実にうまくこなしており、信長にも気に入られていたようです。
秀吉が勝家と口論し信長に報告もせず勝手に戦場を離れた際も、怒り狂っている信長のもとへ出向いたといいます。
信長もねねの顔を見ると少し怒りを収め、秀吉にもう1度チャンスを与えてくれたのです。
合戦|豊臣秀吉にまつわる戦い
金ヶ崎の戦い | 1570年 | 織田信長と朝倉義景の戦い。浅井長政の裏切りにより追い詰められた信長を殿で援護。危機に瀕した信長を救った戦いは金ヶ崎の「退き口」とも呼ばれている。 |
長篠の戦い | 1575年 | 三河国 長篠城をめぐる織田・徳川連合と武田勝頼軍の戦い。秀吉は信長本隊として参戦。連合軍の鉄砲攻撃により武田軍は大敗。 |
上月城の戦い | 第一次 1577年
第二次 1578年 |
中国平定を命じられた秀吉は藩州に入り宇喜多直家の拠点上月城を陥落させた。しかし毛利軍に属していた赤松政範の裏切りにより上月城が攻略され、織田軍の尼子氏滅亡。 |
三木合戦 | 1578年~1580年 | 播磨国の別所長治が籠城した三木城を2年近く包囲。秀吉の軍師である竹中半兵衛に策略の兵糧攻めにより多数の餓死者が出た。「三木の日殺し」とも呼ばれる。 |
山崎の戦い | 1582年 | 明智光秀が起こした「本能寺の変」で信長が討たれたことを知り中国大返しにて明智を追撃。明智は落ち武者狩りで死亡。 |
小牧・長久手の戦い | 1584年 | 秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間に起きた戦い。秀吉の重臣「池田恒興」らが討死。秀吉は信雄へ和議を申し入れ受諾され、秀吉と家康も講和となった。 |
名言|後世に残る豊臣秀吉の言葉
戦国時代に生きた武将たちは明言を残している方が多いのですが、豊臣秀吉も名言・格言を残しています。
- 「天下統一は、夢のまた夢だ。」
- 「返す返す秀頼のこと頼み申し候五人の衆頼み申し候頼み申し候。」
- 「人と物争うべからず、人に心を許すべからず。」
- 「人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。」
- 「負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。」
- 「人と物争うべからず、人に心を許すべからず。」
性格|豊臣秀吉の人物像が見えるエピソード
武将として魅力がある豊臣秀吉ですが、人間的にみてもとても魅力ある人物です。
大阪では「太閤はん」と現代でも親しまれている秀吉は、どんな人だったのでしょうか。
命尽きる前には疑心暗鬼になり秀吉らしからぬ行動もとっていましたが、若い頃の秀吉は誰からも好かれる「人たらし」な人物だったようです。
信長の下駄を懐で温めていた
ある寒い日の夜、信長が下駄を履くと下駄が温かかったので、下駄の上に腰かけていたのだろうと咎めようとした信長に対し、当時藤吉郎だった秀吉はこういいました。
「寒いので下駄を懐で温めておりました」
信長が見ると藤吉郎のおなかには下駄の跡がついていたといいます。
これ以降、信長は藤吉郎を目に書けるようになったのです。
降参するものに腹を切らせてはならない
あるとき秀吉が敵だった武将を味方に引き入れ信長のところに連れて行きました。すると信長は「心変わりしやすい者は切腹させろ」と言い出したのです。
これに対し秀吉は「降参するものに腹を切らせてはいけません」と進言しましたが、聞き入れてもらえませんでした。
しかし秀吉は味方に引き入れようとした者を殺すことなく、刀を投げ出し「逃げてください」と伝え逃がしたといいます。
この件が周囲に知れ渡り、秀吉の配下になりたいという人が多くなりました。
拠点|豊臣秀吉ゆかりの城
墨俣一夜城 | 岐阜県大垣市 | 信長が美濃を収める際、前線基地となった「一夜にして築城された」城。 |
加古川城 | 兵庫県加古川市 | 信長に中国平定を命ぜられた秀吉が協力者を集めて軍議を開いた城。優れた防衛施設があることでも有名だった。 |
姫路城 | 兵庫県姫路市 | 中国平定を行う際拠点となった城。名軍師黒田官兵衛の居城であったが譲渡された。のちに黒田官兵衛の意見を参考として3層の天守閣などを築造している。 |
大阪城 | 大阪府大阪市中央区 | 信長亡き後、権力争いに打ち勝ち不動の地位を得た秀吉が、その権威を示すために築いた城。瓦や装飾には金銀がふんだんに使用され、当時の建築技術の粋を集めた「難攻不落」の城。 |
徳島城 | 徳島県徳島市 | 秀吉の命によって築かれた城。墨俣一夜城で秀吉の元活躍した蜂須賀小六嫡男、蜂須賀家政が建築した。 |