年表|徳川吉宗に関わる出来事

年表|徳川吉宗に関わる出来事

徳川吉宗は、江戸幕府の第8代将軍として、享保の改革を断行し、幕府財政の再建に尽力したことで知られています。以下に、徳川吉宗の生涯における主な出来事を年表形式でまとめました。

1684年(貞享元年) 紀州藩主・徳川光貞の四男として誕生し、幼名は源六
1705年(宝永2年)  兄・綱教の死去に伴い、紀州藩主を継承
1716年(享保元年) 第7代将軍・徳川家継が死去し、家継に嗣子がなかったため、御三卿のひとつ、紀州徳川家から将軍を継承することとなり、吉宗が第8代将軍に就任
1717年(享保2年) 大奥の経費削減や衣服の規制など、倹約を奨励する政策を開始
1721年(享保6年) 目安箱を設置し、民意の吸い上げを図る
1722年(享保7年) 上米令を発布し、諸大名に米を納めさせる
1722年(享保7年) 定免法を導入し、年貢の安定化を図る
1723年(享保8年) 足高の制を定め、旗本・御家人の知行を削減し、新田開発を奨励
1745年(延享2年) 将軍職を長男・家重に譲り、大御所となる
1751年(寛延4年) 享年64歳で死去

歴史|徳川吉宗の生涯

歴史|徳川吉宗の生涯

徳川吉宗は、江戸幕府第8代将軍として、幕府財政の危機を救った「名君」として知られています。その大胆な改革と民衆の声を聞く姿勢は、現代の私たちにも多くの学びを与えてくれます。

ここでは、徳川吉宗の生涯を紐解いていきましょう。

紀州藩主から徳川8代将軍へ

徳川吉宗は、紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれ、兄たちの早世により1705年に紀州藩主を継承します。徳川吉宗は、藩主として藩政改革に取り組み、財政再建や新田開発を推進し、手腕を発揮していきました。

1716年、7代将軍・徳川家継が早世し、後継者が不在となってしまいます。このとき、徳川吉宗は御三卿のひとつである紀州徳川家の出身でありながら、将軍職を継承することになります。

これは、徳川吉宗の優れた能力と人望が評価された結果といえるでしょう。将軍就任後、徳川吉宗は「享保の改革」を断行し、幕府財政の立て直しに尽力しました。

幕府財政再建の享保の改革

徳川吉宗は、深刻な財政難に陥っていた江戸幕府を立て直すため、「享保の改革」を断行しました。自ら倹約を実行し、大奥の縮小や衣服の規制などを行います。

諸大名にも倹約を奨励し浪費を戒め、「上米の制」を導入し、年貢の徴収方法を改善することで年貢を増徴しました。新田開発を奨励し耕作地を拡大するとともに、商業を振興し都市部の経済を活性化させる政策も推進していきます。

これらの施策により、幕府財政は徳川吉宗の治世末期には大幅な黒字を計上するまでに回復しました。

晩年の将軍継承と徳川吉宗の死

享保の改革を成功させ、幕府の財政再建に尽力した徳川吉宗は、1745年(延享2年)に将軍職を長男・徳川家重に譲り、大御所となりました。徳川家重は病弱で言語障害があったため、徳川吉宗は将軍職を譲った後も政治の実権を握り続けます。

大御所となった徳川吉宗は、徳川家重を補佐しながら、幕政に携わり続けました。しかし、徳川家重の病状が悪化すると、徳川吉宗は家重の後見役として、田沼意次を抜擢します。

田沼意次は、徳川吉宗の政策を継承しつつ、新たな政策も積極的に展開し、幕府の安定に貢献していきます。1751年(寛延4年)6月20日、徳川吉宗は江戸城にて享年68歳で死去しました。

その死は幕府内外に大きな衝撃を与え、徳川吉宗の墓所は、東京都港区にある増上寺にあります。

家系図|徳川吉宗の一族

家系図|徳川吉宗の一族

相関図|徳川吉宗の一族と関わりが深い人物

相関図|徳川吉宗の一族と関わりが深い人物

徳川吉宗の生涯において、深く関わった人物を、関係性ごとにまとめました。

親族(父母兄妹)

  • 徳川光貞(父):紀州藩第2代藩主で、徳川吉宗の政治手腕を高く評価し、将軍継承を後押しした
  • 浄円院(母): 側室出身だが、徳川吉宗を嫡男として養育し将軍就任に尽力する
  • 徳川家重(長男)第9代将軍で病弱であったため、徳川吉宗が後見として政務を執った
  • 徳川宗武(次男):田安徳川家の祖で、徳川吉宗の政策を支持し、協力する
  • 徳川宗尹(三男):一橋徳川家の祖で、徳川吉宗の政策を支持し、協力する

側近・幕閣

  • 大岡忠: 江戸町奉行として徳川吉宗の享保の改革を支え、名奉行として知られる
  • 水野忠之:老中として改革を補佐し、徳川吉宗の信任が厚かった
  • 柳沢吉保:第5代将軍・徳川綱吉の側用人で、徳川吉宗の将軍就任に反対したが、後に和解
  • 新井白石:第6代将軍・徳川家宣の側用人で、徳川吉宗の将軍就任を支持した

対立・敵対勢力

  • 徳川宗春(尾張藩主):徳川吉宗の倹約政策に反発し、派手な政策を展開するが、後に蟄居を命じられる
  • 徳川継友(水戸藩主):徳川吉宗の改革に批判的であった
  • 間部詮房:第7代将軍・徳川家継の側用人で、徳川吉宗の将軍就任に反対した

合戦|徳川吉宗にまつわる事件

合戦|徳川吉宗にまつわる事件

徳川吉宗の時代は、国内が平和な時代であり、吉宗自身が直接指揮を執った合戦はありません。しかし、徳川吉宗の治世中に起きた出来事として、以下のものがあげられます。

絵島生島事件 1714年(正徳4年) 1714年、江戸城大奥で絵島が歌舞伎役者の生島新五郎と密会した疑いで遠島処分となり、1400名以上が処罰されました。この事件は大奥の権力闘争の一環として利用されています。
享保の内裏火災 1721年(享保6年) 江戸城内で発生した大火事で、この火災では、江戸城の一部が焼失しましたが、吉宗は迅速な復興を指示し、被害を最小限に食い止めました。この事件を契機に、江戸の防火対策が一層強化されました​
享保の大飢饉 1732年(享保17年)〜1733年(享保17年) 享保17年に発生した大規模な飢饉で、冷夏や長雨、虫害などが原因で、西日本を中心に多くの餓死者を出しました。吉宗は、被災地への食糧輸送や救済策を講じるなど、対応に追われます。
元文の改鋳 1736年(元文元年) 享保改革の一環として行われた貨幣の改鋳です。元文元年に実施されたこの改鋳は、金銀の含有量を減らし、流通量を増やすことを目的としていました。しかし、この改鋳によりインフレーションが発生し、経済に混乱をもたらす結果となります。

徳川吉宗の家紋

徳川吉宗の家紋

徳川将軍家の家紋「三つ葉葵」は、徳川家康が天下統一を果たした時代から、江戸幕府の権威を象徴するシンボルとして使用されてきました。

三つの葵の葉が輪を描くように配置されたデザインは、賀茂神社の神紋に由来し、徳川家康が征夷大将軍に任命された際に下賜されたと伝えられています。以来、この家紋は将軍家の権威を示すものとして、幕府の旗印や武具、調度品など、あらゆる場面で使用されました。

三つ葉葵は、単なる装飾的な紋章ではなく、徳川幕府の権力と正統性を象徴する存在といえます。この家紋を目にすることは、当時の人々にとって、将軍家の権威を肌で感じる瞬間であり、幕府の統治下にあるという意識を強く印象付けるものでした。

性格|徳川吉宗の人物像が見えるエピソード

性格|徳川吉宗の人物像が見えるエピソード

徳川吉宗は、その政策や業績だけでなく、さまざまなエピソードから、その人柄や性格を垣間見ることができます。ここでは、徳川吉宗の人物像を浮かび上がらせるエピソードをいくつか紹介します。

質素倹約を絵に描いたような生活

徳川吉宗は、将軍という最高権力者の地位にあっても、質素倹約を徹底したことで知られています。その生活ぶりは、まさに「質素倹約」を絵に描いたようであり、人々に感銘を与えました。

彼は日常的に木綿の着物を着用し豪華な絹を避け、食事も一日二回の一汁三菜という質素なものだったといいます。この質素な生活は、徳川吉宗が単に言葉で倹約を説くだけでなく、自らも実践することで家臣たちに範を示すためのものでした。

当時の幕府財政は厳しく、役人たちに質素倹約を強いることは容易ではありませんでしたが、徳川吉宗が自ら実践することで、その意志を示したといいます。

鷹狩り好きで自ら農村を視察

徳川吉宗は鷹狩りを非常に好みましたが、これは単なる娯楽ではなく、農村の実情を把握するための手段でもありました。彼は鷹狩りの名目で頻繁に農村を訪れ、その際に農民たちの生活や農業の状況を自らの目で確認していたといいます。

この視察を通じて、農民の声を直接聞き、政策に反映させることを目的としていたようです。徳川吉宗は農村視察を通じて、農民たちの実情を理解し、農業生産を奨励するための具体的な政策を立案しました。

例えば、米の生産性を向上させるために新しい農業技術や作物の導入を奨励し、飢饉対策としてさつまいもの栽培を推進していきます。徳川吉宗の農村視察は、単に統治者としての義務を果たすだけでなく、自ら現場に赴くことで家臣たちに範を示すものでした。

これにより、徳川吉宗は現場の実情に基づいた実践的な政策を展開し、幕府の財政再建や社会改革を推進していきました。

目安箱の設置と民意の重視

目安箱は、庶民が抱える問題や意見を直接将軍に届ける手段として設置されました。これにより、幕府は庶民の声を政策に反映させることが可能となります。

例えば、町医者の小川笙船が江戸の貧民の窮状を訴え、無料の医療施設である小石川養生所の設立を要望した結果、実際にこの施設が建設されます。徳川吉宗は目安箱を通じて、庶民の声を積極的に取り入れようとしました。

この取り組みは、徳川吉宗が民意を重視し、庶民の生活改善に努めたことを示しています。実際、目安箱に寄せられた意見の中からいくつかは実際に政策として採用され、町火消しの整備や新田開発の推進などが行われました。

徳川吉宗の目安箱の設置と民意の重視の姿勢は、彼がいかに庶民の生活を考え、実際に改善しようと努力していたかを示す重要なエピソードです。

人材登用にも積極的で家臣を大切にする優しさ

徳川吉宗は、享保の改革の一環として「足高の制」を導入しました。これは、実力があるにもかかわらず、俸禄が低いために重要な役職に就けない者に対し、役職に就任する期間中だけ俸禄を引き上げる制度です。

これにより、才能のある人材を適切なポジションに配置し、幕府の運営を効率化しました