年表|立花宗茂に関わる出来事

西暦 出来事
1567年 豊後国で高橋紹運の長男として誕生
1581年 初陣。
1581年 第2次太宰府観世音寺の戦いで堀江備前を討ち取る。
1581年 立花道雪の娘の誾千代と婚姻、立花家の婿養子となる。
1582年 岩戸の戦い。
1583年 吉原口防戦。
1584年 筑後奪回戦。
1584年 秋月種実の襲撃から、立花山城を死守する。
1585年 立花道雪、陣中で病死。立花家の家督を継ぎ立花家当主となる。
1586年 島津軍、筑前国侵攻。高橋紹運、岩屋城で討死。
1586年 立花城死守。高鳥居城を攻略、岩屋城、宝満城奪還。
1587年 大友氏が豊臣秀吉の傘下入り。
1587年 柳川城の城主・秀吉の直臣となる。肥後一揆を平定する。
1587年 肥後一揆を平定する。
1590年 小田原征伐参戦。
1592年 文録の役参戦。
1597年 慶長の役参戦。
1600年 関ヶ原の戦い。大津城攻め。
1600年 柳川城で降伏、改易。
1602年 正室・誾千代死去。
1603年 蟄居の後、徳川家康の御書院番頭、陸奥棚倉大名となる。
1614年 大坂冬の陣。
1615年 大阪夏の陣。
1620年 筑後国・柳川の大名に復帰。
1638年 島原の乱。
1642年 死去。

歴史|立花宗茂の生涯

大友氏の家臣と島津氏との戦い

立花宗茂には2人の父が居ました。
一人は実の父の高橋紹運、もうひとりは養父であり義父の立花道雪です。高橋紹運の嫡男であった宗茂は、道雪の熱烈な(養子にくれという)要請で、立花家の養子となり、道雪の娘である誾千代と結婚しました。

高橋紹運と立花道雪は共に大友宗麟の重臣であり、道雪においてはかの武田信玄も会いたがっていたと言われています。
高橋紹運は、ルイス・フロイトの手記にも「稀代の名将」と言われており、名声が高く死亡した際には島津軍の中にも涙するものが多くいたそうです。

立花宗茂が初陣したころは、九州では大友氏、島津氏、龍造寺氏が九州の覇権を争っていました。

龍造寺隆信が島津氏との戦い「沖田畷の戦い」で戦死し、九州の覇権は大友氏と島津氏が争うこととなります。
そうした中の戦いで、立花道雪は陣中で病死し、高橋紹運は「岩屋城の戦い」で島津氏の大軍を相手に籠城戦を行い、多くの島津兵を戦死させました。
しかし、籠城に耐えきれず、最後は切腹して果てました。

大友宗麟が豊臣秀吉の臣下となり、秀吉が九州征伐に乗り出すまで、立花城を守り切りました。
援軍が来ると、今度は退却する島津軍を追撃して占領された城を奪い返す功績を見せています。

豊臣秀吉の直臣として活躍

九州征伐の結果、島津氏が豊臣秀吉に降伏し、秀吉の臣下となりました。
また、これまで大友氏の家臣だった宗茂は、秀吉の直臣となり柳川の大名となります。

秀吉の元では、小田原征伐肥後国人一揆朝鮮出兵で華々しい活躍を見せ、秀吉からは、徳川家康の家臣である本多忠勝と並ばせ「西の無双立花宗茂、東の無双本多忠勝」と皆の前で褒めたたえました。
慶長の役では加藤清正を救援しており、これが後に宗茂の助けとなります。

このように、秀吉から可愛がられた宗茂は、秀吉死後の関ケ原の戦いでは、秀吉から受けた恩義の為西軍に属し大津城の戦いを勝利しますが、関ケ原の戦いでは駆けつけた頃には勝負が蹴ってしていました。

その後宗茂は、居城の柳川城に戻り籠城しますが、領民を巻き込みたくなかった宗茂は降伏し開城しました。
その後改易され、浪人生活となります。

関ヶ原以後と徳川幕府の名相談役

関ケ原の戦いで改易となった後、しばらくは浪人暮らしをしていましたが、本多忠勝の計らいで御書院番頭という家康の親衛隊隊長となります。
これを皮切りに、柳川の大名に返り咲くなどして、家康・秀忠・家光の信頼を得ていきます。

大阪の陣では、家康は宗茂が寝返ることを心配して、寝返らないように説得したとの事でした。
また、秀忠の補佐役として任命し、戦経験の少ない秀忠を支える立場になります。

家光の代になると、島原の乱に松平信綱の補佐役として参戦。
敵の様子から夜襲の予見をして的中させて味方を驚かせ、自ら戦場に立ち戦功を挙げました。

普段は、秀忠・家光に相伴衆として仕えており、戦国時代の様子を語り聞かせた他、相談役として徴用されていたようです。

家系図|立花宗茂の一族

相関図|立花宗茂と関わりが深い人物

誾千代

立花誾千代は立花道雪の娘で、現在資料で判明している唯一の女城主です。誾千代は、道雪の娘ということもあり武芸全般に通じ、また学問にも秀でていました。

立花宗茂が道雪の養子となると、宗茂と誾千代は結婚します。しかし、子供はいませんでした

豊臣秀吉の直臣になる頃より別居しており、一説では仲が悪かったと言われています。しかし、関ケ原の戦い後に宗茂を自ら率先して出迎えるなど、決して不仲とは思えない記録も多く残されています。

宗茂不在の際は、自ら武装するなど勇ましい女性だったようです。

島津義弘

島津義弘と立花宗茂は、かつては敵同士でしたが、共に豊臣秀吉に仕えるようになり、朝鮮出兵ではある程度仲が良くなっていたようです。
その証拠として、文禄の役の際には、島津義弘から戦功を賞賛する書状を貰っていることからも見受けられます。

慶長の役でも、合流して共に戦っております。

二人の仲が深まったのは、関ケ原の戦いの後でした。
島津義弘が「島津の退き口」で必死の撤退劇を演じ、薩摩に帰る際に宗茂と同じ船に乗り合わせました。

宗茂の家臣は、実父の仇をここで討つべしという家臣の言葉に取り合わず、それどころか薩摩までの護衛を申し出ています

島津義弘は、この時の恩に報いるため、黒田・加藤・鍋島の軍が宗茂の柳川城を奉仕した際に援軍を出しています。
残念ながら、援軍到着前に降伏・開城となり、恩を報いることは出来ませんでした。

加藤清正

加藤清正は秀吉が育てた武将です。
豊臣秀吉の直臣となった頃加藤清正と出会っており、お互いによく似た性格と感じていたようです。

二人の関係が密接となったのは、慶長の役です。
秀吉死去で撤退戦となった際に、蔚山城を守備していた加藤清正が敵に周囲を包囲されてしまいました。

残った諸将で清正救出の会合を持ちますが、評議が決まらず「評定のみに日を送っても無駄なことです。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう。」と言って、兵千人を引き連れて救援に向かい、清正軍と共に明・朝鮮軍を撃退しました。

この時清正は、宗茂の事を「日本一の猛将」と讃えています。

関ケ原の戦いの後、宗茂の柳川城を包囲し、黒田如水と共に降伏するように説得し、宗茂は受け入れます。

宗茂が改易になった後は、家臣と共に清正の食客として迎えられました

合戦|立花宗茂にまつわる戦い

年代 戦い名 対戦相手 勝敗
1581年 第二次太宰府観世音寺の戦い 秋月氏、筑紫氏
1582年 岩戸の戦い 秋月氏・原田氏・宗像氏
1583年 吉原口防戦 吉原貞安、宗像氏貞
1584年 筑後奪回戦 龍造寺氏、島津氏
1586年 島津氏 筑前国侵攻 島津氏
1587年 九州平定 島津氏
1587年 肥後国国人一揆 肥後国衆
1592年 文禄の役(碧蹄館の戦い) 明(李如松)
1597年 慶長の役(蔚山の戦い) 明(陳?)、朝鮮軍(李舜臣)
1600年 関ケ原の戦い(大津城の戦い) 京極高次
1600年 柳川城籠城 加藤清正、黒田如水、鍋島直茂 負(無戦降伏)
1614年~1615年 大阪冬の陣、夏の陣 豊臣秀頼
1638年 島原の乱 天草四郎

家紋|杏葉紋(ぎょうようもん) と祇園守紋(ぎおんもりもん)

まず、立花宗茂の実家である高橋家の家紋を見ると、「抱き杏葉紋」です。この家紋は宗徳の実父である高橋紹運の家紋で有名です。抱き杏葉紋は主君である大友氏から使用を許されて宗茂が使用していました。

次に、養子となる高橋家の家紋は、「祇園守紋」です。

この二つは、場合によって使い分けていました。

名言|後世に残る立花宗茂の言葉

後世に残る宗茂の名言には、将としての心得に関する言葉が主に残されています。

  • 「戦は兵数の多少によるものではない。一和にまとまった兵でなくては、どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。」
  • 「彼のなすところをもって、これ我になせば、すなわち克たざることなし」
  • 「将は軍に在りて君命を受けざるところあり」
  • 「特別なことはない。日頃から下の者には子に接するように情をかけ、下の者から親のように思われていれば、下手な命令をしなくても思う通りに動いてくれるものだ」

性格|立花宗茂の人物像が見えるエピソード

聡明な子供時代のエピソード

宗茂が8歳のころ、付き添いの家来と見世物見物に出かけた時に、群衆の中で喧嘩が起こり殺害となりました。

付き添いの家来が、宗茂に何かあったら大変だとその場を離れようとしますが、当の本人は落ち着いた様子で「お前たちが慌てるのはおかしな話だ。私たちはあの争論の相手ではないから、どうして切ってくるような事があるだろうか。」と言い放ちました。

程なくして、騒ぎが収まり、宗茂は最後まで見物していたとのことです。

このように、武芸だけでなく、聡明で豪胆な気性が幼い頃から備わっていたエピソードでした。

二人の父から学んだこと

宗茂には、実父の高橋紹運、養父の立花道雪というふたりの父がいます。
どちらも、名将の誉れ高く武士の鑑と称されます。

宗茂が立花家に養子に出される際に紹運から刀を送られ、「高橋家と立花家の間に戦が起こった場合、おぬしはどうするつもりか。」と問います。
この時宗茂は「高橋に味方します。」と答えたところ、紹運から叱られ、「養子に入った以上、高橋勢の先鋒となりわしを斬れ。不行跡で道雪殿から義絶されれば、高橋家に帰ろうとは思わず、その刀で自害して果てよ。」と諭されます。

立花道雪は、宗茂が養子に入ると高橋家の家督を継がせるために厳しく教育をしました。

宗茂の名言を見ると、道雪の教育には儒教や孫子などの兵法が含まれていたと思われます。

領民に愛される名君

立花宗茂は、戦上手であっただけでなく、領地経営にも優れた手腕を発揮しています。

柳川の領主となってから、農地改革に着手し、半人工運河の花宗川を開発を指揮しました。

関ケ原の戦いの後、柳川城での籠城から降伏・開城を決断した宗茂に対し領民たちは共に戦う決意で、「降伏しないでくれ」と懇願しますが、宗茂は領民を巻き込見たくはないので開城するのだとと話し、この言葉を聞いた領民たちは皆号泣したとの事です。

拠点|立花宗茂ゆかりの城

解説
立花山城 大友氏家臣の時代の居城。養父立花道雪が城主であったが、娘の誾千代に譲り、その後誾千代が宗茂と結婚して宗茂が城主となりました。
高鳥居城 高鳥居城の戦いで、宗茂が島津家家臣星野吉実・吉兼兄弟の守る高鳥居城を攻略して、星野兄弟を討ち取っています。宗茂の名声を挙げた城の一つです。
岩屋城 宗茂の実父高橋紹運が島津氏との戦いで最後に守備した城です。島津軍2万に対し高橋軍700と圧倒的な劣勢の中、多くの島津兵を討ち取り足止めをしました。最後には籠城に耐えきれず紹運は櫓にのぼり切腹しました。
柳川城 豊臣秀吉の直臣となった際に、与えられた城です。元々は鍋島直茂、龍造寺家晴の龍造寺側の城でした。関ケ原の戦いまで城主であり、家康に仕えるようになってから城主に返り咲きました。 しかし後年は柳川城に帰れず生涯江戸でくらしました。
大津城 関ケ原の戦いで、京極高次が守備していたのが大津城です。 大津城の戦いでは勝利しましたが、時間がかかりすぎてしまい、関ケ原の戦いに間に合いませんでした。峰重の西軍1万を前に足止めした功績は、後に家康から評価され若さ国主となります。