宗尊親王とは?誕生から死亡までの生涯を解説
宗尊親王(むねたかしんのう)は鎌倉時代中期に鎌倉幕府の将軍となった人物です。当時の将軍は実権のない名目上の存在と化していたため、影の薄い存在でした。
しかし宗尊親王の生涯は、当時の政治状況が色濃く反映されたものであった上、彼自身も文化面で大きな足跡を残しています。宗尊親王の生涯について、当時の将軍の立場や政治状況などとともに詳しく見ていきましょう。
後嵯峨天皇の第一皇子だが皇位継承権はなかった
宗尊親王は1242年に、当時皇位についていた第88代後嵯峨天皇の第一皇子として生まれました。皇族の第一皇子は現代の感覚であれば次の天皇になれる存在のように思われます。しかし宗尊親王は母親の身分が低かったため、皇位継承の可能性は極めて低い状況でした。
結局皇位は母親の身分が高かった亀山天皇が、続いて異母弟の後深草天皇が継ぎます。宙に浮いた状態の宗尊親王ではあったものの、やがて鎌倉幕府執権の北条家から皇族出身の将軍を要請されたため、11歳で鎌倉に下向しました。
北条時頼の要請で初代の皇族将軍に
1252年、11歳になった宗尊親王は当時の鎌倉幕府5代執権・北条時頼(時宗の父)の要請で、鎌倉に次期将軍として下向しました。鎌倉幕府の将軍は初代頼朝から3代実朝まで源氏が継ぎ、4代目と5代目は公家の九条家の人物が将軍位に就いています。
ただ5代将軍九条頼経の祖父であった九条道家がしきりに幕政に介入しようとしていたため、時頼ら北条一族は危機感を抱いていました。加えて後嵯峨天皇も皇位を継げない宗尊親王の将来を案じ、何とかしたいという思いを抱きます。
そこで時頼はより常を帰京させる代わりに、宗尊親王の下向を請うことで、九条家による幕政への介入を阻止しようと考えました。後嵯峨天皇も宗尊親王が将軍になることで将来が保証されると考え、時頼の要請を受け入れました。こうして宗尊親王は皇族出身者の将軍である皇族将軍として、第6代将軍となります。
突然将軍を解任され無念の帰京に
宗尊親王は将軍になったものの、先の2人の将軍と同様に実権の全くない名目上の存在でした。ただ時頼の嫡男でいずれ執権職を継ぐ時宗が元服した際は烏帽子親を務め、自身の名前から1字を与えています。
一方実権を握っていた幕府の執権も、5代の時頼から6代の長時、7代の政村へと移り変わっていきました。宗尊親王が10代から20代になっても、政治の実権は相変わらず北条家が握ったまま推移します。
そして1266年、宗尊親王は突然将軍を解任されました。当時25歳だった親王がまだ10代の時宗をいいように動かすことを北条家が恐れたためです。加えて宗尊親王の正室・近衛宰子の不倫の噂も広まっていました。そこで幕府は親王が病に伏したのを機に、将軍解任へと動きます。こうして突如解任された親王は無念のうちに都へと戻っていきました。
晩年は出家の末若くして世を去る
将軍を解任された宗尊親王は、都に戻った後に静かな日々を過ごします。幕府の次の将軍には息子の惟康(これやす)親王が就任したものの、宗尊親王は子との対面も許されないままでした。まもなく正室の宰子も鎌倉から戻った上で、翌1267年に出家しています。
その後数年は平穏な日々を過ごしていたものの、1272年に起きた二月騒動で側近が捕らえられる憂き目に遭いました。しかも同じ時期に父である後嵯峨法皇(1246年に譲位、1268年に出家)が崩御してしまいます。
宗尊親王は父法皇を失った悲しみの中で出家しました。そして出家して2年後の1274年、33歳の若さでこの世を去ります。ちょうど蒙古襲来1回目の文永の役と同じ年で、日本中が激動の時代に突入しようとした矢先の最期でした。
宗尊親王は和歌にも長じた将軍だった
宗尊親王は皇族として初めて鎌倉幕府の将軍になったものの、実権はなかったために政治面では功績を残せませんでした。一方で和歌の才能に長じていて、3代将軍で和歌に造詣の深かった源実朝と並ぶほどでした。
しかも親王は鎌倉でも多くの和歌を残しています。悲劇的な名目上の将軍とは一味違った宗尊親王の側面を見ていきましょう。
実権がなかった分和歌に熱中する
宗尊親王はわずか11歳で鎌倉幕府の将軍になったものの、政治的な実権はなかった分、日々時間を持て余していました。やがて親王はあり余る時間で和歌に熱中し、時には歌会まで催していました。
親王の和歌の才能は見事なもので、父の後嵯峨上皇の命で編纂された『続古今和歌集』でも歌人では最も多い67首が収められたほどです。なお、この和歌集の選者(載せる和歌を選ぶ人)の1人である藤原光俊は親王の和歌の死で、親王が鎌倉に下向した後も何度か指導しに赴いています。
当時の鎌倉で作成された歌集にも多く和歌を残す
和歌の才能を花開かせた宗尊親王は、鎌倉にも和歌の文化を根付かせました。頻繁に催した歌会には御家人たちも多く参加していて、島津忠景のように御家人でありながら歌人として名を馳せる人物も登場しています。
加えて親王自身も『初心愚草』や『柳葉和歌集』など、複数の和歌集を編纂していました。彼が自ら記した和歌は現在にも伝わっていて、名筆家の側面があった点も評価されています。
宗尊親王の家族たち
宗尊親王は皇族出身であったため、父や兄弟など多くの人物が皇位につきました。父の後嵯峨天皇は88代目で、親王が生まれた時にはすでに皇位についています。
親王の異母弟が次に皇位についた後深草天皇です。4歳で皇位についたものの、後嵯峨上皇に頼まれて17歳の時に弟の亀山天皇に譲位しています。この後に後深草天皇や亀山天皇の子孫は皇位継承で対立し、持明院統と大覚寺統の争いにまで発展しました。
なお、亀山天皇の孫が、鎌倉幕府を倒して建武の新政を行ったことで有名な後醍醐天皇です。後醍醐天皇から見ると宗尊親王は大叔父に当たります。
宗尊親王の父・後嵯峨天皇は幕府の温情で即位
宗尊親王の父・後嵯峨天皇が第88代天皇として皇位についたのは、宗尊親王が生まれたのと同じ年です。そして後嵯峨天皇の即位は実は幕府の温情が働いていました。
天皇の父・土御門天皇は後鳥羽上皇が起こした承久の乱に反対していたものの、乱が終息した際に自ら申し出て流罪となっています。幕府は土御門天皇の思いを汲む意味で、子である後嵯峨天皇を即位させました。
即位の経緯から、後嵯峨天皇は鎌倉幕府や執権北条家との関係の安定に力を尽くしています。
宗尊親王についてよくある質問
最後に宗尊親王に関してよくある質問をいくつか紹介しながら、各質問に答えていきましょう。宗尊親王についてさらに理解を深める際の参考にしてください。
宗尊親王はいつ頃の皇族将軍ですか?
宗尊親王は鎌倉時代中期に幕府の将軍だった人物です。1252年から1266年の14年にわたって将軍位にありました。
親王以降幕府が滅亡するまで就任した4人の将軍は、いずれも皇族であったため「皇族将軍」と呼ばれます。
宗尊親王以降皇族将軍が4人続いたのはなぜですか?
鎌倉幕府の皇族将軍は宗尊親王以降4人が就任しました。皇族将軍が4人いたのは、執権を務めた北条家が皇族を主君としていただくことで幕府の権威を高めようとしたためです。