年表|前田利家に関わる出来事

1539年 尾張国にて、前田利春の四男として生まれる。
1551年 このころから、織田信長の小姓として使える。
1552年 萱津の戦いにて初陣。元服して前田又左衛門利家と名乗る。
1556年 右目下に矢傷を受けながらも小姓頭を打ちとる
1558年 このころ赤母衣衆に抜擢される。まつと結婚。長女 幸が生まれる。
1559年 信長の寵愛を受けている拾阿弥を争いの上、斬殺、そのまま出奔する。浪人暮らしとなる。
1560年 出仕停止処分にもかかわらず、無断で桶狭間の合戦に参戦、三つの首を挙げるも信長に許されなかった。
1561年 森部の戦いにて、足立六兵衛を打ち取り帰参を許される。
1569年 家督を継ぐ。
1574年 柴田勝家の与力となる。
1581年 能登城主となる
1583年 賤ヶ岳の戦いで、戦わず戦線離脱。羽柴秀吉に降伏。
1584年 末森城の戦い。佐々成政に勝利する。
1598年 この頃五大老・五奉行の制度により、五大老の一人となる。
1598年 大阪で病没、享年62歳。

歴史|前田利家の生涯

槍の又左衛門とよばれた赤母衣衆時代

最初は織田信長の小姓として仕えていましたが、成長するに伴い赤母衣衆に抜擢されます。

母衣衆は黒母衣衆と赤母衣衆の二つがありますが、どちらも信長の親衛隊です。

利家は槍の名手であり、それゆえ「槍の又左衛門」と呼ばれています。

エリート街道を走っているように見えますが、信長お気に入りの拾阿弥を争いの上殺してしまい、出世街道から外れてしまいます。

本来、手打ちでも仕方がない所、森可成や柴田勝家のとりなしがあり出仕停止で済みました。

柴田勝家の与力、その後の運命を決めた賤ヶ岳の戦い

押しかけ参戦によって手柄を立てるに従い、信長から出仕停止が解かれた利家は、柴田勝家の与力として、佐々成政と共に北陸方面の攻略に尽力を注ぎます。

上杉謙信の西上があり、危機が訪れた場面もありましたが、謙信の急死によって、危機を脱しました。

本能寺の変後、柴田勝家と羽柴秀吉の戦い「賤ヶ岳の戦い」では、当初柴田勝家勢として参戦していましたが、戦うことなく居城の府中城に撤退し、秀吉とはこの後和議を結びました。

利家と秀吉の良好な関係はこの後も続き、前田家の発展に繋がっていきます。

豊臣政権を支える五大老

豊臣政権を支える立場となった利家は、上杉景勝や伊達政宗の東北大名と秀吉の取次役として活躍します。

秀吉晩年には、秀頼を支える体制として五大老・五奉行の制度が出来ました。

利家は五奉行に任ぜられ、徳川家康と共に豊臣政権を支える立場となります。

しかし秀吉死後、徳川家康の度重なる約束違反を繰り返す家康と石田三成を始めとする五奉行との対立が激しくなる一方で、利家にも病魔が忍び寄ります。

見舞いに来た家康に利家のことを頼む一方で布団の中には抜き身の太刀を忍ばせていたエピソードは、皆さんもご存知の方も多いでしょう。

家系図|前田利家の一族

相関図|前田利家と関わりが深い人物

前田利家は、人柄が良いからか、多くの人に慕われているのが記録からわかります。その中で、前田利家が生涯を通して影響力があった人物を3人挙げていきます。

豊臣秀吉

若い頃から苦労を共にした秀吉と利家ですが、夫婦共々仲が良かったことは有名です。自分の子がいなかった秀吉夫婦に娘の豪を養子に出し、後に宇喜多秀家と一緒になりました。

お伽衆や五大老で、常に秀吉は傍に利家を置きたがっていた事は明らかです。臨終の際は、子の秀頼を託すと言わせるなど、どれだけ利家を信頼していたかが理解できます。

佐々成政

共に母衣衆として、信長家臣団の中ではエリート集団に属しており、成政は黒母衣衆の筆頭、利家は赤母衣衆の筆頭でした。

信長の同僚ということで、仲は良かったものと思えますが明確に示す記録がありません。ただ、奥さん同士は仲が良かったようです。

小牧・長久手の戦いでは、両者とも秀吉からの要請で本人たちは出動しなかったのですが、兵を出しています。秀吉側の戦況が悪くなると成政は、家康側について利家の朝日山城・末森城を攻撃しています。

結果としては、利家が勝利し、秀吉が大軍で成政を包囲し降伏しました。

その後、秀吉のお伽衆を経て肥後の大名になるも、国人の一揆が抑えられず、秀吉から切腹を言い渡されます。

高山右近

前田利家は、性格的には寛大なところが大いにあるようで、旧友であれ敵であれ、落ちぶれた相手にはスカウトという、救いの手を差し伸べています。

その中でも、高山右近は有名です。

高山右近はキリシタン大名で、織田信長の配下では有力な武将でした。

豊臣秀吉の伴天連追放令に伴って、棄教を拒否したため領地と財産を捨てる事になります。

その後前田利家が預かる事となりますが元々築城技術が優れていたため、金沢城や高岡城の設計を行い、現在では名城と詠われています。

合戦|前田利家にまつわる戦い

桶狭間の戦い

1560年

織田信長が今川義元を討った戦いでしたが、この時利家は出仕停止処分であり、押しかけ参戦して武功を立てています。しかし信長からは帰参の許しは得られませんでした。
森部の戦い 1561年 織田信長と斎藤竜興と美濃森部にて戦い、この時も利家は無断で参戦し、武功を得て帰参を許されます。
手取川合戦 1575年 上杉謙信の西上で、手取川で対峙しました。この時柴田勝家以下北陸方面が従軍していましたが、七尾城が落とされた事がきっかけで敗走しました。
賤ヶ岳の戦い 1583年 豊臣秀吉と柴田勝家が、信長の後継者をめぐって戦いました。この時柴田陣営にいた利家でしたが、戦線離脱し秀吉に降伏しました。
末森の戦い 1584年 小牧・長久手の戦いから派生した佐々成政との戦いです。成政が進軍してきましたが、利家はこれを打ち破って、北陸での地位を確立しました。

家紋|加賀梅鉢紋(かがうめはちもん)

前田家の家紋は、加賀梅鉢紋です。

しかし前田利家が実際に使用した家紋は梅鉢紋の方で、加賀梅鉢紋は江戸時代から使用されています。

加賀梅鉢紋は、菅原道真に由来する梅鉢紋から来ています。前田家は、菅原道真の子孫と称しており家紋についても梅鉢紋を用いています。

天神信仰があった武将は梅鉢紋を家紋にしており、前田利家の他には筒井順慶が梅鉢紋でした。

名言|後世に残る前田利家の言葉

前田利家が残した名言には、次のようなものがあります。

  • 散らさじと 思ふ櫻の 花の枝 吉野の里は 風も吹かじな
  • 戦場に出でてはわが思うようにして、人のいうことを聞き入れぬが良し
  • 兵力一万と三千の合戦では、三千がたびたび勝つ
  • 天下に道有り則ち見、天下に道無し則ち隠、能く謀りし者は未萌を慮る。智者は千慮に必ず一失有り、愚者は千慮に必ず一得有り
  • どのような結果が出ても出陣する。そのつもりで占って欲しい

性格|前田利家の人物像が見えるエピソード

前田慶次との関係

花の慶次では、前田利家は慶次よりも年上の様に描かれていますが、実際には慶次の方が年上です。前田慶次は兄の前田利久の養子であり、実際は滝川一益の子です。

利家が家督を継ぐ時、本来なら長兄である利久が継ぐはずでしたが、信長の命令によって利家が継ぐ事になり、これが両者の関係にわだかまりが生じます。

慶次の逸話として有名な水風呂馳走事件がありますがおそらく江戸時代の創作と言われています。

しかし出奔した慶次を追うことなく、慶次の子供たちを家臣として召し抱えています。

利家とまつのエピソード

利家22歳、まつ12歳の時に結婚しています。

二人の間には、11人の子供がおり、その中は睦まじいと伝えられています。

豪気な気性らしく、末森城の戦いの際は、「末森の城が陥落したら生きて帰るな。そのときは私も諸将の妻子とこの尾山城に火を放ち自害しよう。」と言い放ち激励し、利家には「この金銀を召し連れて槍を突かせたら」と、皮肉って尻を叩いて合戦に向かわせたエピソードがあります。

茶の湯と千利休

織田信長が茶の湯を部下に奨励している影響を受け、当然利家も茶の湯をたしなんでいます。

利家は千利休から茶道を学んでおり、利家と利休の交流を記録している資料が数多くあります。その資料から見て、茶道以外に政務でも交流があり、その縁で高山右近を食客として招きました。

利家の息子の利長は、一時期利休七哲にも挙げられたほどの茶道の名手で、その後金沢を中心として独自の茶の湯文化が発展していきます。

拠点|前田利家ゆかりの城

府中城 福井県武生市 前田利家が最初に大名となった時に入った城。柴田勝家の与力であり、一向一揆の鎮圧後、領地の立て直しを図った。
小丸山城 石川県七尾市 能登領主となった際に、畠山氏の居城であった七尾城を捨て、七尾湾に近い小丸山に築城した。山城から平城への転換点となる。
金沢城 石川県金沢市 北加賀二郡を得た利家は、佐久間盛政家臣から金沢城を接収した。豊臣秀吉の意向として北国の守りを利家に任せる意図があった。その後金沢城を中心に加賀文化が発展する。
末森城 石川県押水町 佐々成政との激戦の舞台となった城。利家配下奥村永富が城将として成政の猛攻を耐え、結果として利家を勝利に導いた。「花の慶次」で戦いの舞台になった城。