孝謙天皇の生涯

史上初の女性皇太子

聖武天皇光明皇后の間には阿倍内親王(孝謙天皇)の他に第1子の基王がいましたが、早くに亡くなってしまっています。
その後も皇太子になる男児は生まれず、738年に阿倍内親王が立太子しました。史上初にして唯一の女性の皇太子です。

しかし当時の女帝は生涯独身であるという慣例があったため、阿部内親王が即位してしまうと後継者が途絶えてしまいます。
そのため、聖武天皇の側近であった橘奈良麻呂を中心に阿倍内親王に反対する勢力が現れました

孝謙天皇として即位

749年に聖武天皇の譲位を受け孝謙天皇が即位しました。就任後しばらくは光明皇后が後見を務め、光明皇后の甥だった藤原仲麻呂が勢力を拡大します。

この体制に危機感を感じたのは、孝謙天皇の即位に反対していた橘奈良麻呂をはじめとする勢力です。

橘奈良麻呂はクーデターを企てましたが、事前に計画を察知した藤原仲麻呂によって阻止され、政界を追われてしまいました(橘奈良麻呂の乱)。この一件によって藤原仲麻呂はさらに勢力を強めたのです。

太上天皇に就任

758年、孝謙天皇は光明皇后の看病を理由に淳仁天皇譲位し、太上天皇(上皇)となりました。
淳仁天皇の治世でも孝謙上皇、藤原仲麻呂は強い発言権を持っていたため、藤原仲麻呂を中心に政策が進められます。

藤原仲麻呂は官職の呼称を唐風に変更するといった改革を進めました。そのほかにも貨幣鋳造権を与えられるなど、朝廷に与える影響力が強かったことがうかがえます。

藤原仲麻呂の乱勃発

協調体制で朝廷を指揮していた孝謙上皇と藤原仲麻呂でしたが、光明皇后が亡くなったことを機に2人の関係は変わっていきました。孝謙上皇と淳仁天皇の関係も良好なものではなかったため、孝謙上皇対淳仁天皇・藤原仲麻呂という対立構造が生まれ始めたのです。

この対立をさらに深めたのは孝謙上皇が寵愛した道鏡の存在でした。孝謙上皇は光明皇后の死後体調を崩してしまい療養しており、その際に孝謙上皇を看病をしたのが道鏡です。

孝謙上皇は道鏡や孝謙上皇派だった吉備真備を要職に据える一方、藤原仲麻呂は自身の子達を軍事職に就けました。軍事勢力に子達を迎え入れたのは、孝謙上皇勢力への謀反を企てていたためでもあると考えられます。

藤原仲麻呂の反逆を感じ取った孝謙上皇は藤原仲麻呂から軍事権をはく奪しますが、この決定に反対した藤原仲麻呂勢力と戦闘が発生(藤原仲麻呂の乱)。しかし朝廷の敵となった藤原仲麻呂になすすべはなく、逃亡先で殺害されてしまいます。

天皇に重祚し、「称徳天皇」としての治世が始まる

藤原仲麻呂の乱の事後処理によって淳仁天皇も廃位されてしまったため、孝謙上皇が重祚し称徳天皇として第48代天皇に即位しました。
皇太子についてはふさわしい人物が現れるまで決定しない意向を発し、称徳天皇と道鏡によって約6年ほど政権が運営されました。

この時期は民衆の間では飢饉が発生し、政権内でも謀反が起こるなど非常に不安定でした。仏教を信奉していた称徳天皇は道鏡と共に道鏡の故郷にある弓削寺を訪れています。さらに称徳天皇はこの行幸中に道鏡を太政大臣に据え、政治権を道鏡に委ねました。

皇族でも貴族でもない道鏡の権力が強まるという、まさに異例尽くしの時代だったと言えます。

宇佐八幡宮神託事件

769年、大きな事件が起きます。宇佐八幡宮から称徳天皇へ「道鏡に天皇を継がせよ」という神託が奉納されたのです。

称徳天皇は独身で子どももいなかったため、当時の朝廷内の最大の関心は「誰が次期天皇に就くのか」でした。皇位継承に関してかなり敏感になっていた時期に、天皇の寵愛を受けていた僧侶が皇位を継ぐというニュースは当然政界に動揺をもたらします。

ここで真偽を確かめるため派遣されたのが和気清麻呂(わけのきよまろ)でした。和気清麻呂は宇佐八幡宮の神託は偽りである、と主張します。
この報告に怒った称徳天皇は和気清麻呂を左遷してしまったのです。

しかしこの直後、称徳天皇は体調を崩してしまい政治介入ができなくなってしまい、道鏡も自然と力を失っていきました。

和気清麻呂は皇族の尊厳を守った英雄であるとし、戦前までは高い評価を得ています。

53歳で崩御。死因は病死

病気がちであった孝謙天皇は770年3月に重い病で病床に臥せてしまいます。この時孝謙天皇の宮中に入ることができたのは女中のみで、以前病気の治療を手助けた道鏡は宇佐八幡宮神託事件のこともあってか立ち会うことは叶わず、崩御するまで出会うことはできませんでした。

その後病が回復することはなく、平城宮で崩御しました。享年53歳。孝謙天皇は生涯独身だったため子どもはおらず、天武系の天皇は孝謙天皇が最後でした。

鎌倉時代の説話集『古事談』には局部に関する理由で亡くなったという言い伝えが残されています。内容は書くに堪えないため割愛しますが、孝謙天皇の権威を落とそうとする噂話に過ぎないため、本当の死因となった病気について詳しい話は残っていません。

孝謙天皇とかかわりの深い人物

藤原仲麻呂

藤原仲麻呂は孝謙天皇の母、光明皇后の甥です。孝謙天皇が即位した際、後見であった光明皇后と孝謙天皇の信任により大納言に抜擢されました。非常に聡明な人物として知られ、ほとんどの書物を読破していたという伝承も残っています。

孝謙天皇とともに政権を指揮し、藤原氏の勢力拡大に大きく貢献しました。
淳仁天皇の治世でも政策を指揮し、民の労役の半減や物価を安定させるため穀物を貯蔵する倉庫を設置するなど徳治政策を推進しています。

道鏡

道鏡は孝謙天皇に仕えた法相宗の僧侶です。
孝謙天皇の病を治療したことをきっかけに寵愛を受け、孝謙天皇が重祚した際は太政大臣禅師として政界に進出。一時的に大きな権力を持ちました。

宇佐八幡宮神託事件や孝謙天皇の崩御をきっかけに力を失い、皇位に就くことはありませんでした。最終的には下野国(現在の栃木県)に左遷され、そこで息を引き取っています。
孝謙天皇と愛人関係であった、性的行為で孝謙天皇を惑わせたなど様々な憶測がありますが、いずれも根拠はありません。

吉備真備

吉備真備は聖武天皇の時代から活躍していた公卿、学者です。
遣唐使とともに留学生として唐に行っており、その際の功績が聖武天皇らに認められ異例の出世を遂げています。

孝謙天皇が即位後、藤原仲麻呂によって左遷されてしまいましたが、藤原仲麻呂が乱で敗れたことを契機に復権しました。この時点で吉備真備は70歳を超えています。
娘の吉備由利は女官として孝謙天皇に仕えており、孝謙天皇が亡くなる晩年唯一側仕えを許された人物でした。非常に信頼されていたことが分かります。

淳仁天皇

淳仁天皇は天武天皇の孫であり、日本の第47代天皇です。孝謙天皇が母の光明皇后の看病をきっかけに淳仁天皇へ譲位しましたが、孝謙天皇の時代から仕えていた藤原仲麻呂が中心となり政治を支配していたため、淳仁天皇は実質的な権力は握っていませんでした。

孝謙上皇が道鏡を寵愛しはじめたことで藤原仲麻呂と孝謙上皇の関係に亀裂が生じ、淳仁天皇と藤原仲麻呂は孝謙上皇に敵対するようになります。
しかし藤原仲麻呂が謀反の疑いにより殺害されたことで淳仁天皇は後ろ盾を失ってしまい、廃位に追い込まれました。

孝謙天皇にまつわるエピソード

仏教を深く信仰する

孝謙天皇は熱心な仏教政策を進めていたことでも知られています。西大寺の拡張や西隆寺の造営などを進めました。

孝謙天皇が仏教政策に重きを置いた背景には、数々の政権争いなどで朝廷が不安定だった時期だったことが挙げられます。仏教の力を借りて安泰させようとしていたのでしょう。
また、寵愛していた僧侶である道鏡の存在も欠かせません。政治が不安定だった765年10月には道鏡の故郷にある弓削寺へ行幸に訪れています。

敵対する人物にはひどい名前をつけていた

孝謙天皇に関する数少ないエピソードのひとつとして、自分に敵対した人物を無理やり改名させていたというものがあります。

例えば、橘奈良麻呂の乱に加担していた黄文王には久奈多夫禮(くなたぶれ)という愚か者を指す名前を付けました。宇佐八幡宮神託事件で道鏡の皇位継承を阻んだ和気清麻呂(わけのきよまろ)には別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という、「汚い」という言葉を入れた名前に変えさせています。

現代で考えると少し幼稚な仕打ちを与えていたようです。