柿本人麻呂の生涯

柿本人麻呂の出自

柿本人麻呂は、生没年が不明ですが、おそらく660年から724年と推測されています。
活躍した時代は689年から700年です。

家系としては、第5代孝昭天皇の皇子の天押帯日子命を祖とした家系です。一説では春日臣の流れを組む家系とも言われています。姓の由来は家門に柿の木があったからと伝えられています。

官位についての記述はなく、記録も少ない事から高位の官位ではない事はたしかです。

朝廷に仕えていた時は、近江・瀬戸内・四国・九州・中国に派遣または赴任していたと思われる和歌が残されています。

当時の皇子・皇女たちの和歌の先生であったとの説がありますが、本当のところは不明です。死去した時の官位は、古今和歌集の真名序から五位以上、正三位と推測されています。

三十六歌仙に名を連ねる飛鳥時代の歌人

柿本人麻呂は、飛鳥時代を代表する歌人で、三十六歌仙のひとりでもあります。

  • 三十六歌仙
  • 柿本人麻呂 / 山部赤人 / 大伴家持 / 猿丸大夫 / 僧正遍昭 / 在原業平 / 小野小町 / 藤原兼輔 / 紀貫之 / 凡河内躬恒 / 紀友則 / 壬生忠岑 / 伊勢 / 藤原興風 / 藤原敏行 / 源公忠 / 源宗于 / 素性法師 / 大中臣頼基 / 坂上是則 / 源重之 / 藤原朝忠 / 藤原敦忠 / 藤原元真 / 源信明 / 斎宮女御 / 藤原清正 / 藤原高光 / 小大君 / 中務 / 藤原仲文 / 清原元輔 / 大中臣能宣 / 源順 / 壬生忠見 / 平兼盛

 

人麻呂は、次の世代である大伴家持の時代に編纂された「万葉集」に多くの歌を残しました。

柿本人麻呂の晩年と死因

柿本人麻呂の死因については不明です。これは時代が飛鳥時代という事もあり、その時代のよほどの重要人物でなければ、詳しい記録は残っていないからです。

人麻呂の晩年は、通説では石見国(現在の島根県益田市)に居て生涯を閉じたと伝えられています。

その地には、高津柿本神社があり、人麻呂が祀られています。また、益田市には鴨島伝説と言う人麻呂に関する伝説が残っていますが、現在は鴨嶋が存在していません。水没したという説があり、これは地震と津波によるものです。

他にも、島根県にはこの地で死去したと伝わっていますので、ここを終焉の地と見ている研究者が多数います。

柿本人麻呂の歌風とは?

複雑で多様な対句が特徴の長歌

人麻呂の和歌の特徴が良く出ているのが長歌です。

この当時は、ひらがな・カタカナが無く「万葉仮名」という音に漢字をあてて表現していました。

長歌とは現代ではあまり聞きなれない言葉ですが、五語と七語の組み合わせを3回以上繰り返すのが長歌の特徴です。文字の制限はありません。

人麻呂が得意とする表現方法が、対句と枕言葉の絶妙な使い方でした。

宮廷歌人とも伝えられていますが、この事からも長歌を得意としたと考えられています。

恋歌・賛美・挽歌に特徴がある

人麻呂は長歌が得意と解説しましたが、歌の内容についても特徴があります。

中国の詩に比べ和歌の特徴としては、恋愛の歌が非常に多いのが特徴ですが、人麻呂も同じく恋歌を多く詠んでいます。

複数の女性に歌を詠んでいますが、斎藤茂吉はこの点から多くの妻妾がいたと考えていました。

また、他の歌人に比べ、賛美の歌や挽歌が多いのが人麻呂の特徴ですが、これは日本初の職業的詩人だからではないかという説があります。

特に賛美や挽歌は、天皇・皇子の関連が多く、歌を詠むと同時に行動や出来事の記録を担っていたとも思われます。

霊信仰に影響していると考えられる歌もある事から、歌を詠むことで朝廷内の儀式・儀礼的なものに参加していたと考えられます。

人麻呂の代表作

人麻呂の歌で、代表策と言われているのがこの2首です。万葉集からに収められています。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ (巻一・48)

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ    (巻三・266)

この2首は、斎藤茂吉・山本健吉・池田弥三郎などの研究者が共通して推している歌であり教科書にも掲載されています。見たことがある方も多いでしょう。

柿本人麻呂の歌が掲載されている和歌集

歌集名 説明
古今和歌集 醍醐天皇の命によって編集された和歌集で、撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑です。柿本人麻呂の歌の多くが「詠み人知らず」となっていますが、「あるひといはく、柿本人麻がなり」と記載されています。
万葉集 奈良時代に大伴家持によって編纂されたと言われている最古の和歌集です。第1巻については持統天皇や柿本人麻呂の関与があったと推測されています。
小倉百人一首 藤原定家が詠み人1名につき、歌1首をえらんだ歌かるたです。柿本人麻呂の馬「あしひきの…」の歌は、人麻呂自身の作では無く、「詠み人知らず」と言う説があります。

柿本人麻呂に大きく影響を受けた人物

大伴家持

大伴家持は、「万葉集」を編纂した奈良時代の歌人です。名門「大伴氏」の出自であり、高級官吏で中納言まで出世しました。

生前は、暗殺計画などの政変に巻き込まれ、地方に左遷されることが多々あり、決して順風満帆な人生とは言えない生涯を送りました。

地方赴任中に防人の検校についた事から、防人歌の収集の機会があり、万葉集に編纂されています。大伴家持が活躍した時代は、人麻呂はすでに一線を退いていました。

しかし、家持が幼少の頃には、和歌のお手本として人麻呂の歌を参考にしていたと容易に考えられます。

円空

円空は、江戸時代の修行僧であり仏師です。活動は全国に及びますが、特に愛知県や岐阜県に円空の作品が多く残っています。

生涯12万体の仏像を彫ったとも言われています。これらは「円空仏」と呼ばれています。和歌にも精通しており柿本人麻呂の像を生涯に4体残しました。

柿本人麻呂の和歌

〇長歌
やすみしし 我が大君
高照らす 日の皇子
神ながら 神さびせすと
太敷かす 都を置きて
こもりくの 初瀬の山は
真木立つ 荒山道を
岩が根 さへき押しなべ
坂鳥の 朝越えまして
玉かぎる 夕さり来れば
み雪降る 安騎の大野に
旗すすき 篠を押しなべ
草枕 旅宿りせす
古昔思ひて
(万葉集 巻一・四五)

やすみしし 我が大君
高光る 我が日の皇子の
馬並めて 御狩立たせる
若薦を かり路の小野に
猪鹿こそば い這ひ拝め
鶉こそ い這ひもとほれ
猪鹿じもの い這ひ拝み
鶉なす い這ひもとほり
かしこみと 仕へまつりて
ひさかたの 天見るごとく
まそ鏡 仰ぎて見れど
春草の いやめづらしき
我が大君かも
(万葉集 巻三・二三九)

〇短歌
淡海の海夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
(万葉集 巻三・二六六)

ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく船をしぞ思ふ
(古今和歌集 第九)

鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が まちつつあらむ
(万葉集 巻二・二二三)