北条時頼の生涯
北条時頼は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(1246-1256年)です。
鎌倉時代というと源氏の将軍をイメージしがちですが、実は北条氏が執権に就いていて政治の実験を握っていた期間のほうが、はるかに長く続いています。
鎌倉時代を生き抜いた北条時頼が、どのような生涯を辿ったのかご紹介します。
北条時頼が執権になるまで
北条時頼は1227年に京都にて誕生しました。北条時氏の次男として生まれますが幼くして父を亡くし、祖父に育てられます。
兄は4代執権北条経時でしたが、病状が芳しくない経時の代理として1245年に鶴岡八幡宮の大鳥居の検分を行います。
満10歳の時に元服し、12歳にして毛利季光の娘を正室として迎えます。1246年に兄 経時が亡くなると、20歳にて北条時頼が執権を引き継ぎます。
鎌倉幕府5代執権に就任
鎌倉幕府が開かれた当初は源頼朝の独裁政治でしたが、北条政子の動きにより、北条家の執権政治が始まりました。
そんな中、北条時頼は1246年に兄から執権を引き継ぎ、得宗専制政治を開始しました。
この当時、幕府政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半が、庶流から後を継いだ時頼の下に着く意志はなかった様子でその後、宮騒動が起こりました。この騒動で時頼は勝利し、逆に執権としての地位が磐石なものとなりました。
得宗専制政治は、鎌倉幕府において北条家一族の惣領や家長が絶対的な権力を握り、執権や幕府の他の役職を支配した体制です。そのため時頼は鎌倉幕府で最も権力を保持していたことになります。
執権時代の北条時頼
北条氏の有力な分家にあたる名越光時が4代将軍・藤原頼経と共に執権奪取を企てていることを知り、執権就任後の北条時頼は名越光時を伊豆に、藤原頼経を京都へ追放しました(宮騒動)。
また、得宗専制政治に反対する北条家傍流の北条光時の反乱も鎮圧しました。1247年に鎌倉幕府内で北条氏と三浦氏の権力闘争が激化し、北条時頼が三浦泰村一族を滅ぼしています。(宝治合戦)。
これらの行動により時頼は得宗専制政治を確立し、幕府内で大きな影響力を持ち続けました。さらに、幕府の儀式も取り仕切るなど、その支配力を強固なものとしました。
北条時頼の最期
1256年9月15日、麻疹に罹患するも一度は回復を見せました。しかし、11月13日には赤痢にかかり小康状態となったため、時頼は義兄の北条長時に権力を譲る決断をします。
11月22日 時頼は現在の神奈川県鎌倉市に位置する「最明寺北亭」で亡くなりました。
『吾妻鏡』によれば、臨終の際には袈裟を纏い、座禅を組んで阿弥陀如来像の前で静かに息を引き取ったと伝えられています。
鎌倉幕府第5代執権 北条時頼が実施した政策
北条時頼が執権についた際、どのような政策を行ったのかを見ていきましょう。
豪族三浦一族を滅ぼし、執権北条氏の権力を確立
北条時頼は鎌倉幕府の5代執権として、その権力を確立するために多くの改革と戦いを行いました。
特に1247年の宝治合戦では、豪族である三浦一族との激しい戦闘の末にこれを滅ぼし、北条氏の支配力を強化しました。安達景盛と協力して三浦泰村一族を討伐し、幕府内での権力基盤を一層強固にしています。
これにより、北条時頼は得宗専制政治を確立し、鎌倉幕府の内部統制を強化、北条氏の権力を確立しました。
評定衆の下に「引付衆」を設置
北条得宗家への権力集中を隠すために、1249年 鎌倉幕府の司法機関のひとつ、「引付衆」(ひきつけしゅう)を設けました。
引付衆は、御成敗式目(ごせいばいしきもく)に基づき、幕府内外の訴訟や裁判を担当し、公正な裁判を実現するために設置されました。
この制度により訴訟手続きが効率化され、幕府の統治能力が向上しました。また、引付衆の設置は北条氏の権威を高め、幕府の支配体制を強化にもつながります。
北条時頼の家系図
北条時頼の名言
北条時頼は名言を残しており、現代でも書籍や名言集で紹介されることも多い、北条時頼の名言をご紹介します。
業鏡高く懸げ三十七年一緒にして打ち砕き大道坦然たり
北条時頼の辞世の句です。
この世の善悪を写し取る鏡(業鏡)のように、邪悪をただすことに専念した37年間、今では一槌のもとに打ち砕いて、人の踏み行うべき道が平坦に続いているという意味です。
事足りなん
兼好法師の「徒然草」に記載されています。
母の松下弾尼が倹約のために障子の切り貼りをした逸話や、小皿の味噌を見つけて肴は「これで充分」と、大仏宣時と酒を楽しむ逸話です。
年表|北条時頼に関すること
西暦 |
出来事 |
---|---|
1227年 (喜禄3年) |
京都にて誕生 父北条時氏、母松下禅尼の次男として生まれました。 4歳で父を亡くし、祖父、母から質素・倹約の教育を受けながら育ちます。 |
1237年
(喜禎3年) |
祖父北条泰時邸で元服、五郎時頼と称す
11歳の時元服し、征痍大将軍九条頼経の偏諱を賜り、五郎時頼を名乗ります。 |
1239年
(延応元年) |
毛利季光の娘と結婚
13歳で鎌倉幕府の御家人で大江広元の4男、毛利季光の娘と結婚し正室に迎えます。 |
1246年
(寛元4年) |
執権につく
兄経時が病に倒れ、20歳で執権につきました。 |
1246年
(寛元4年) |
前将軍の藤原頼経を鎌倉から追放(宮騒動)
時頼の側近であった名越光時が、頼経を擁した軍事行動を企てましたが、時頼は機先を制して企てを挫きます。 この時光時ら将軍側近を処断し、時経の京都送還を断行しました。 |
1247年
(寛元5年) |
三浦泰村を滅ぼす(宝治合戦)
外戚の安達氏と協力し、有力御家人であった三浦泰村一族を滅ぼします。 続いて千葉秀胤に対しても追討の幕命を下し、上総国で滅ぼしました。 これにより、北条氏得宗の独裁政治が強まりました。 一方で三浦方についた毛利季光の娘と離縁し、北条重時の娘葛西殿と結婚しています。 |
1248年
(宝治2年) |
長男時輔誕生
側室の讃岐局との間に長男として時輔が生まれます。 |
1253年
(建長5年) |
建長寺が落慶
建長寺を創立しました。開山の蘭渓道隆は、1246年に来日した中国宋の禅僧です。 道隆は数年間京都にいましたが、活躍の場を求めて下向し、壽福寺に寓居を置きました。 それを知った時頼は、道隆を常楽寺に移し禅の道場を開きます。 1255年には、後の国宝である建長寺の麓鐘が鋳造されました。 |
1256年
(康元元年) |
赤痢病を患い執権を辞す
1256年9月に麻疹、11月に赤痢に罹患してしまいます。 奇跡的に快復を見せたものの度重なる病に出家を決意します。 11月23日最明寺で出家します。 |
1263年
(弘長3年) |
11月22日 死去
1263年から体調を崩していき、11月に入ると病状が悪化し、死去しました。 臨終の際に、袈裟を纏い坐禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取ったとされています。 |