北条泰時|年表

年代 出来事
1183 北条義時の長男として誕生。幼名は金剛。
1194 13歳で元服、烏帽子親は頼朝が務めた。
1202 三浦義村の娘と結婚
1203 長男時氏が誕生する。
1203 比企能員の変、討伐軍に参戦
1212 次男時実が誕生。
1213 和田合戦に参戦、恩賞として陸奥遠田郡の地頭職に任じられた
1218 侍所別当となる
1219 従五位上・駿河守に叙位・任官される
1221 承久の乱、総大将として京に攻め上る、六波羅探題北方就任
1224 父義時急死。鎌倉に時房と共に戻る。伊賀氏事件が起り、三代執権となる
1225 大江広元・北条政子が相次いで亡くなる。
1225 京にいた叔父の時房を呼び戻し「両執権」として合議政治を始める
1226 4代将軍として、九条道家の子三寅が藤原頼経を名乗り就任する。泰時は宇都宮辻子という場所に幕府を新造する。
1227 16歳の次男時実が、家臣に殺害される
1230 長男時氏が病の為死去
1231 寛喜の飢饉、被害を受けた民衆に対し税の免除・米の配布など救済を行う
1232 泰時が中心となり、連署の時房、評定衆の一部で御成敗式目を制定。
1238 新将軍藤原頼経に同行し上洛する。
1240 連署であった時房が死去する。以後は単独で執権となる。
1241 自宅に有力御家人・実務官僚を呼び、経時を後継者に指名、実時にその補佐を依頼する。
1242 四条天皇が崩御し、次の天皇として後嵯峨天皇を強引に即位させたことで朝廷との関係を悪化させる。
1242 以前より体調を崩していたが、赤痢と高熱により死去。享年60歳

北条泰時とは何をした人?

承久の乱の総大将として乱を制圧

泰時は、「承久の乱」では総大将として鎌倉武士を率いて、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と戦いました。後鳥羽上皇は、1221年に鎌倉幕府の討伐を掲げ、上皇配下の武士や北条氏に不満のある武士を集めて挙兵しました。

「義時追討」という院宣を発することで、義時を朝敵にして味方になる御家人を無くす考えです。後鳥羽上皇は、北条氏に不満のありそうな三浦氏、小山氏、武田氏に院宣を送っています。

しかし北条政子の演説により鎌倉武士は結束を固め、泰時の鎌倉軍は上皇軍を討ち破りました。その結果、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇は流罪となり、彼らの膨大な荘園は戦いに参加した御家人たちの恩賞として与えられました。

その戦後処理を指揮したのが、京に居た泰時でした。

鎌倉幕府の第三代執権に就任、仁政を行う

北条義時が急死して、京にいた泰時は鎌倉に戻ります。

「伊賀氏事件」で、伊賀の方の実子の「政村」を執権につける動きがありましたが、北条政子と大江広元の働きで、泰時が執権となり義時の弟の時房は連署(副執権)となりました。

三代目執権となった泰時は、京で学んだ朝廷の政治を生かして、「撫民」政策を行いました。「撫民」というのは、いわゆる「仁政」であり、朝廷ではこれを「徳政」と言っています。

仁政を行った例として、寛喜の飢饉の際に百姓の税を免除したり、米を支給したりしています。泰時がこのような政治姿勢を取ったのは、後に述べる明恵の教えによるものと言われています。

朝廷との関係を修復

承久の乱後、泰時は京にとどまり戦後処理を行いました。鎌倉幕府は六波羅探題を設置し、その北方に泰時を就任させます。

六波羅探題の目的は、朝廷の監視・承久の乱後の処理・西国御家人の統括でした。泰時は、自ら主導して朝廷との関係を修復します。京の治安維持に努め、朝廷内の情報を集めていました。

朝廷から学ぶことが多くありました。例えば、御成敗式目の制定には律令がお手本になります。

また、承久の乱以後朝廷が行った徳政について、参考にして政務を行いました。泰時は、親族や御家人とも争いを起こさないようにふるまっていましたが、朝廷に対しても争いを避け良好な関係を保つように心掛けていました。

六波羅探題の北方に就任

鎌倉幕府は、平清盛邸の跡地に朝廷を監視する機関として六波羅探題を設置しました。

六波羅探題の北方に泰時が、南方に叔父の時房が就任しています。この時、六波羅探題の基礎が出来上がり、鎌倉幕府末期まで存続していました。

承久の乱後、朝廷の武士団を解体した事で京を守る軍事力が低下し、その代わりを六波羅探題が引き受けました。また、六波羅探題では裁判も行い、西国の訴訟はこちらで処理されました。

朝廷とは皇位決定の取次も行っており、監視を含め朝廷と連絡を取り合う機関となりました。六波羅探題に就いた期間はわずか3年ですが、泰時にとって3代執権となるためには大きな経験でした。

御成敗式目を制定

泰時の最も大きな功績は、「御成敗式目」の制定です。御成敗式目は、朝廷の律令をお手本とした武士の為の法典です。

御成敗式目の目的の一つとして、東国と西国で違いがあった道理を共通化させることでした。

この御成敗式目の思想として、「力の弱いものが不利益にならない、平等な世の中を作り上げる」というものでした。

御成敗式目は、鎌倉時代以降も武士の規範として活用され、戦国時代は分国法という国ごとの法律を作る際にベースとなっています。

江戸時代には、寺子屋で教科書として使用されていました。女性の権利についても言及しており世界的にみても先進的な法典と言えます。

北条泰時と関係が深い人物

人物名 説明
源頼朝 鎌倉幕府の初代将軍であり、泰時の烏帽子親です。頼朝は泰時を非常に可愛がり、元服の際には頼朝の「頼」の字をもらい「頼時」と名乗っていました。
北条義時 北条義時は、泰時の父で2代目執権です。頼朝挙兵時には頼朝に仕えており、鎌倉幕府を陰から支えていました。初代試験時政を失脚・追放させた後は二代目執権となり幕府の政治を行い、承久の乱に勝利しました。
北条時房 泰時の叔父で、義時の弟になります。承久の乱後は共に六波羅探題の北方・南方となり戦後処理を行いました。後に「両執権」体制で泰時が執権、時房が連署となります。時房と泰時は叔父・甥の関係ですがお互い良きライバルとして関係を築いていました。
源頼家 二代目将軍です。泰時とは年齢も近く、泰時は頼家の近習として仕えていました。蹴鞠に夢中になっている頼家に対し泰時は諫言したとのことです。
明恵 栂尾高山寺の僧であり華厳宗中興の祖といわれています。承久の乱の敗走兵をかくまったことから泰時との交流が始まり、仁政の思想に大きな影響を与えました。

北条泰時|家系図

北条家は桓武平家の流れを汲んでいると言われていますが、これは疑問視されています。初代北条時政の孫、2代目執権北条義時の息子になります。

また、北条政子は叔母、北条時房は叔父になります。

北条家の家紋|三つ鱗紋

北条家の家紋は、三つ鱗紋です。デザインは、三角形を3つ、ピラミッドのように配置したものです。

後の時代、北条早雲が祖となる後北条氏もミツウロコ紋ですが、こちらは横に扁平されたデザインとなっています。