八田知家の生涯

八田知家(はったともいえ)は、鎌倉幕府の初期に活躍した武将です。源頼朝に従って功を立てながら、幕府にも有力御家人として参画しています。

また頼朝の死後は、北条時政や大江弘元らとともに13人の合議制の一角を占めました。鎌倉時代初期の重要人物だった八田知家がどのような生涯を送って来たのかを見ると、有力御家人の生き様に触れられます。激動の時代を生きた知家の生涯を一通り見ていきましょう。

下野の宇都宮宗綱の子として誕生

八田知家は1142年、下野の武士である宇都宮宗綱の子として誕生しました。知家の父・宗綱は隣国常陸の八田(現在の茨城県筑西市)を所領とし、後に知家も八田の所領を継いだため、八田姓を名乗ります。また知家の姉妹である寒河尼(さむかわのあま)が頼朝の乳母でもあったことから、知家と頼朝とは早くから深い関係にありました。

1180年に頼朝が伊豆で平家打倒の兵をあげると、知家も頼朝のもとにはせ参じます。頼朝は参陣した知家に下野の茂木(もてぎ:現在の栃木県茂木町)の地頭に任命しました。

1183年には頼朝の叔父で、頼朝に従わない志田義広が鎌倉を攻めようとします。知家は頼朝から義広への対応を命じられた小山朝政の指揮下に入り、下野の野木宮で義広と戦って勝利に貢献しました。

平氏討伐や奥州征伐で功を挙げる

野木宮合戦の後、知家は頼朝の弟・範頼の指揮に入って平家討伐に参加します。1185年の壇ノ浦の戦いでも手柄を挙げ、平家滅亡と源氏の勝利に尽力しました。

ただ知家は平家討伐に出陣中、頼朝の許可なく後白河法皇から右衛門尉(うえもんのじょう)の官位をもらっています。御家人の官位授与で自ら統制しようとしていた頼朝はこの話を聞いて怒り、知家など勝手に官位をもらった者に糾弾する書状を送りました。

官位の無断拝受という失策はあったものの、知家は頼朝のもとで着実に功績を重ねていきます。そして1189年の頼朝による奥州藤原氏征伐では、太平洋沿いに進軍する東海道軍の大将に抜擢されました。

常陸の支配権を勝ち取る

知家は頼朝のもとで軍功を挙げる中、1185年には常陸守護に任命されています。ただ常陸国内にある知家の所領のすぐ隣には、彼の従兄弟である多気義幹(たけよしもと)の領地がありました。そして知家と義幹は常陸の覇権をかけてしのぎを削り合います。

両者が対立する中、1193年に頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催しました。ただこの巻狩りの最中に工藤祐経が曽我兄弟に討たれる事件が起きます。突然の事件に幕府が混乱する中、知家はこの混乱を利用して義幹を討とうと策をめぐらせました。

まずわざと知家が義幹を討とうとしているという流言を流し、義幹が軍備を整えるように仕向けます。続いて知家は「頼朝のところに一緒に行ってほしい」と義幹に依頼しました。義幹が知家を疑ってなおも軍備を整えたため、知家は頼朝に義幹の叛意を訴えます。やがて義幹は領地を没収され、知家は常陸の支配権を不動のものとしました。

頼朝死後の13人合議制の一角になる

1199年、頼朝が53歳で世を去ると、彼の嫡男・頼家が鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)の地位を受け継ぎます。しかし頼家は専制政治を始めたため、有力御家人など13人が補佐して行き過ぎた専制を抑える体制が発足しました。

知家もこの13人の合議制に参画し、頼家を支えます。そして1203年には亡き頼朝の異母弟で、当時謀反を企んでいた阿野全成を将軍頼家の命で誅殺しました。

やがて頼家が北条時政によって失脚させられると、彼の弟・実朝が3代鎌倉殿に就任します。知家は実朝にも忠節をもって仕えました。晩年は子に家督を譲って出家したとされています。なお知家の没年は諸説あり、1218年とも1221年以降ともされてはっきりしません。

八田知家の家系図や子孫を紹介


八田知家は鎌倉幕府の創建に貢献した人物ではあるものの、彼の家族について知らない方も多いかと思います。知家の家族に加えて祖先・子孫について見ていくと、意外な繋がりにも気付けるため、新たな発見になること間違いありません。

知家の家系や祖先・子孫について、詳しく見ていきましょう。

八田知家の家系図


八田知家は父に宇都宮宗綱を、兄に宇都宮朝綱がいます。朝綱は宇都宮宗家を継ぎ、彼の子孫である貞綱は元寇で、公綱(きんつな)は南北朝の争乱で活躍しました。

また知家の子には、小田家の祖となった知重や、茂木家の祖となった知基などがいます。八田家自体は知重や知基以外の子である知尚(ともひさ)が継ぎました。

祖先には紫式部と結婚した藤原兼隆

知家の宇都宮家(八田家)は意外なことに紫式部とも関係があります。宇都宮家自体が藤原家の血を継いでいるためです。

知家の4代前の人物に、紫式部と結婚した経歴のある藤原兼隆がいます。兼隆の孫が宇都宮家初代の宗円ですが、この宗円の父兼房は兼隆と藤原賢子(けんし)の間に生まれたため、紫式部と血縁関係はありません。

そして八田知家は宗円の孫です。兼隆から見ると知家はひ孫の子(玄孫)に当たります。

子孫には戦国最弱の大名小田家

八田知家は子孫が戦国大名の小田家であることでも有名です。具体的には知家の子で小田家初代となった知重から12代後の子孫が小田氏治となります。

氏治は戦国時代から安土桃山時代に小田城を拠点とした武将です。しかし上杉謙信や佐竹義重の侵攻を前に何度も城を失って逃走しています。あまりにも負けが多かったことから「戦国最弱の大名」という汚名も付きました。ただ奪われた小田城を奪還したことも数度あったことから、「常陸の不死鳥」の異名でも有名です。

八田知家の家紋

八田知家の家紋は、「州浜(すはま)紋」と呼ばれています。もともとは川が海に注ぐ河口に土砂が堆積してできた砂州を紋章にしたものです。

ただし古来から州浜を模した台である「州浜台」が、おめでたい場での縁起物として使われてきました。州浜台は不老不死の仙人が住むとされる蓬莱山を州浜に見立てたものです。台には松竹梅や鶴亀の衣装を飾ったことから、めでたいしるしということで家紋でも州浜紋が登場するようになりました。

八田知家のゆかりの地


八田知家については、彼にゆかりのある場所もいくつかあります。知家にゆかりのある場所を知っておくと、実際に出かけた際に知家の生きざまについて少しでも触れられるのではないでしょうか。

八田知家にゆかりのある場所として、以下の2つが挙げられます。もしできれば実際に訪れてみてください。

知家の墓は茨城県笠間市にある

まず八田知家の墓は、茨城県笠間市にある宍戸(ししど)家墓所内の五輪石塔です。宍戸家は知家の四男である家政が開いた家で、知家の墓も家政のものの右側に並ぶように建てられています。

なお墓碑銘には「宍戸四郎知家の墓」と刻まれていて、知家が宍戸家の祖であることを示すものです。そして墓自体も江戸時代の1769年、宍戸家の末裔である一木理兵衛が建てました。

居館跡は現在茨城県つくば市の小田城跡に

八田知家にゆかりのある場所として、茨城県つくば市にある小田城跡も有名です。小田城はもともと知家の居館がルーツで、後の時代には本格的な城郭として整備されています。城の構造も一重の堀の中に居館を設けるものから、時代とともに居館のある本丸の周りに虎口を設けるものへと複雑化しました。

なお知家の子孫である小田家は南北朝時代に南朝方に味方しています。そして城にも南朝方の重鎮である北畠親房が入城し、東国における南朝の一大拠点となりました。ちなみに親房は、南朝の正統性を伝える『神皇正統記』も小田城で執筆しています。