後醍醐天皇の生涯
天皇として即位し親政を行う
1318年に後醍醐天皇は即位し、1321年から後醍醐天皇による親政が開始されました。関所の新設禁止や飢饉対策として米の高額販売を禁止するなど、従来の天皇とは異なった積極的な政策を展開します。
2度にわたる討幕計画で島流しに
後醍醐天皇は朝廷を支配している鎌倉幕府へ不満を募らせ、側近たちと共に討幕を企てました。
1度目は企てている最中に密告されてしまい、後醍醐天皇の側近日野俊基が六波羅探題に討たれてしまいます(正中の変)。この時後醍醐天皇は証拠がないことから無罪の判決を受けました。
2度目の企ては側近だった吉田定房の密告により鎌倉幕府に討幕計画が知られてしまいます。身の危険を感じた後醍醐天皇は、天皇家に伝わる「三種の神器」を持ち出し京都から脱出し挙兵するも、幕府との圧倒的な戦力差ですぐ捕まり、隠岐に配流されてしまいました。
後醍醐天皇が配流された後も、楠木正成を中心とする反幕府勢力は勢いを落としませんでした。戦いが長期化する中、後醍醐天皇は隠岐から脱出し再び挙兵。新田義貞、足利尊氏の活躍もあり、鎌倉幕府は滅亡したのです。
鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇による「建武の新政」が開始
鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇が政治を主導する「建武の新政」が開始されました。
後醍醐天皇は天皇による親政を理想としていたため、従来置かれていた摂政・関白や、征夷大将軍といった要職を配置せず、天皇の権力強化に努めました。
朝廷の機構の再編を行い、「記録所」、「恩賞方」、「雑訴決断所」といった新たな組織が設けられます。さらに軍事力の再編も行い、鎌倉幕府の御家人制度を廃止しました。
さらに、後醍醐天皇は自身の権威を誇示するため「大内裏(だいだいり)」と呼ばれる宮の造営を決行。そのための経済施策として新貨幣の鋳造や新税を導入します。
急進的な政策が打ち出される一方、疲弊している民衆には対処しきれない問題が多く、社会はさらに混乱してしまったといいます。さらに、土地に関する訴訟の乱立で朝廷内も混乱していました。北畠親房著作の「神皇正統記」にも当時の政策のひどさが書かれており、後醍醐天皇の側近ですら批判的だったことがわかります。
足利尊氏との対立
後醍醐天皇の政権は武士に対する恩賞が低く、足利尊氏をはじめとした武士たちの中で不満が高まっていきました。
そんな中、北条氏の残党・北条時行が後醍醐天皇に謀反を起こします(中先代の乱)。足利尊氏は鎮圧のため東国に行く許可と征夷大将軍の位を後醍醐天皇に求めますが、却下されてしまいました。足利尊氏は強硬で無許可のまま東国に赴き鎮圧。この件をきっかけに後醍醐天皇と対立するようになります。
後醍醐天皇が「南朝」を開く
後醍醐天皇は許可なく動いた足利尊氏を「離反」とみなし、新田貞義らに足利尊氏を討つよう命じました。足利尊氏は一度は破れ九州の方まで逃げ延びますが、翌年光厳天皇を擁立。再び京都を目指し兵を挙げています。
足利尊氏の上洛に際し後醍醐天皇は逃げて抵抗しましたが、最終的には和睦し三種の神器を譲渡しました。
その後幽閉されていた後醍醐天皇は再び脱出し、吉野で新たな朝廷を開きます。この政権は現在では「南朝」と呼ばれ、足利尊氏が開いた「北朝」と長い争いが繰り広げられました。
後醍醐天皇が討幕を企てた理由
鎌倉時代後期、天皇家は「大覚寺統」と「持明院統」という2つの派閥に分かれており、皇位継承をかけて争っていました。
この争いに幕府が介入し、皇位継承は両統交互に行うよう定めたのです。(=両統迭立)
後醍醐天皇はこの状況に不満を感じていました。後醍醐天皇は大覚寺統の天皇だったため、次の天皇は持明院統から選出されるため自身が院政を行うことはできません。
さらに後醍醐天皇の父・後宇多上皇の遺言で、後醍醐天皇の子は皇位継承権を剥奪されてしまいます。後醍醐天皇は一代限りの天皇だと決められてしまったのです。
上記の遺言は大覚寺統に仕える貴族にも伝わっています。一代限りの後醍醐天皇に協力する貴族はわずかで、後醍醐天皇の家臣は位の低い貴族や武士ばかりでした。
大覚寺統からも見放された後醍醐天皇は、両統迭立を定め朝廷を支配している鎌倉幕府を滅ぼすしかないと考えたのです。
後醍醐天皇の家系図
後醍醐天皇の家系図は以下の通りです。
後嵯峨天皇の息子2名から大覚寺統と持明院統に分かれ、皇位継承争いを行うようになりました。
後醍醐天皇は大覚寺統を開いた亀山天皇の孫にあたり、父・後宇多天皇の第二皇子として生まれています。
後宇多天皇は第一皇子である後二条天皇を正統な後継者と考えていましたが、後二条天皇が即位後急逝してしまったため、後醍醐天皇が皇位を継承しています。
後醍醐天皇のことは「一代限り」の天皇として扱いました。後宇多天皇は後二条天皇の血統に皇位を継ぐため、後醍醐天皇が譲位した後は後二条天皇の皇子たちが天皇を継ぐよう遺言を残しました。
後醍醐天皇と関わりが深かった人物
この項目では、後醍醐天皇とかかわりの深かった人物を紹介します。後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ人物の中でも、実際の立役者であった武士を中心にまとめました。
足利尊氏
足利尊氏は室町幕府を立ち上げた初代将軍です。元々は鎌倉幕府の御家人として仕えていましたが、元弘の乱の鎮圧に向かう中で反旗を翻し、鎌倉幕府を滅しました。
鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の元に仕えていましたが、中先代の乱をきっかけに後醍醐天皇との関係が悪化。後醍醐天皇の政権を滅ぼし、自身で室町幕府を立ち上げました。
亡くなる直前まで南北朝の統一に尽力していましたが、背中の腫れ物が原因で1358年に亡くなっています。
楠木正成
楠木正成は後醍醐天皇の腹心として活躍した武将です。おそらく河内の土豪の出身だったと考えられていますが、はっきりとした史料は残されていません。
『太平記』によれば、後醍醐天皇が楠木正成を呼び出したのは「神のお告げ」によるものだったとされています。
楠木正成は元弘の乱の頃から後醍醐天皇に従い、最期まで裏切ることはありませんでした。その忠誠心は後世にも語り継がれ、歌舞伎や浄瑠璃などの演目の題材にもなっています。
北畠親房
北畠親房は後宇多天皇、後醍醐天皇の時代から大覚寺統に仕えた公卿です。建武の新政が倒れ、後醍醐天皇が亡くなった後も皇太子である後村上天皇を支え、南朝の中心人物となりました。
『神皇正統記』を執筆したことでも知られています。
後醍醐天皇にまつわるエピソード
後醍醐天皇はその政策や破天荒な性格から、後世の評価が分かれる人物です。花園天皇からは「恥さらし」とまで評されていますが、ユーモア溢れる逸話も多数残っています。
この項目では後醍醐天皇の人物像に関連するエピソードを紹介します。
熱心な「茶人」
後醍醐天皇は熱心な茶人家としても知られていました。中世に流行した、茶の味を飲み分けて勝敗を競う「闘茶」を先駆けて行なったのは後醍醐天皇だったと言われています。
当時の茶席には酒宴の席も設けていました。身分など関係なく参加することができる「無礼講」の場を利用し、悪党とともに討幕計画を立てていたといいます。
後醍醐天皇のこれらの行いは建武の新政後も続いており、「自由狼藉」と民衆から批判を受けていました。
皇后・西園寺禧子への寵愛
後醍醐天皇は皇后の西園寺禧子を誰よりも寵愛していました。西園寺禧子は当時朝廷で強い権力を持っていた西園寺実兼の娘です。後醍醐天皇は禧子と密かに交際し、禧子が身ごもった際に西園寺家から連れ去り結婚しました。
『太平記』という歴史書には、元弘の乱で隠岐に流される後醍醐天皇の元に禧子は人目もはばからず訪ね、別れを惜しんだというエピソードが記されています。『増鏡』という歴史書でも2人を題材にした逸話が複数残されており、時代を代表するおしどり夫婦だったことがわかります。
配流地・隠岐からの脱出
南北朝時代の軍記物語『梅松論』には、元弘の乱で隠岐に流されてしまった後醍醐天皇がどのように隠岐を脱走したのかが描かれています。
隠岐に配流された後醍醐天皇は、側近だった千種忠顕(ちくさただあき)とともに脱出を図ります。後醍醐天皇の乗った船は敵に見つかり調べ上げられますが、大量のイカの中に隠れ、追手の目をごまかしました。天皇という高い身分の人がイカで体を覆うわけがないという「常識」を逆手に取ったのです。
後醍醐天皇の年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
1288年 | 尊治(後醍醐天皇)誕生。 |
1308年 | 持明院統の花園天皇の即位に伴い、皇太子に任ぜられる。 |
1318年 | 後醍醐天皇即位。 |
1321年 | 元号改元。この時期から実質的な親政が開始。 |
1324年 | 父・後宇多法王死去。正中の変が起こる。 |
1331年 | 元弘の変が起こる。 |
1332年 | 後醍醐天皇、隠岐に配流される。 |
1333年 | 隠岐を脱出し再度挙兵。足利尊氏が六波羅探題を滅ぼす。 新田義貞が関東で挙兵し、鎌倉幕府を滅ぼす。 「建武の新政」開始。 |
1334年 | 建武に改元。 |
1333年 | 隠岐を脱出し再度挙兵。足利尊氏が六波羅探題を滅ぼす。 新田義貞が関東で挙兵し、鎌倉幕府を滅ぼす。 「建武の新政」開始。 |
1334年 | 建武に改元。 |
1335年 | 北条時行が「中先代の乱」を起こす。足利尊氏・直義が鎌倉に向かい北条氏から奪還。この件を機に足利尊氏と後醍醐天皇の仲が険悪になる。 後醍醐天皇が足利尊氏討伐を命じる。 |
1336年 | 足利尊氏が蜂起。湊川の合戦で後醍醐天皇側の家臣を破る。 後醍醐天皇は奈良県吉野に逃げ、「南朝」を開く(南北朝時代の開始)。 |
1339年 | 後醍醐天皇死去。 |