鑑真とはどんな人?

鑑真の生い立ち

鑑真は中国の唐朝揚州江陽県で688年に誕生しました。幼い頃から頭がよく、14歳という若さで「得度(僧侶となるための出家の儀式)」を受け仏門に入ります。20歳になると長安に入り、律宗や天台宗などを学び、特に僧侶が守らなければならない「戒律」について研究する宗派であった「律宗」で高い評価を受けていました。

「盛唐時代」といわれ政治や経済、そして文化などでも繁栄を極めた時代の中で、鑑真は「南山律宗」の継承者として、4万人を超える人々に授戒を行っていたのです。

鑑真は日本に本当の仏教を広めた人

戒律を授けられる僧侶を求め、また正しい戒律を僧侶に学ばせたいという聖武天皇の願いに応え、から日本に来てくれた僧侶です。

日本から招かれ渡航しますが、何度も失敗し両眼を失明しながらも、6回目にしてようやく日本にたどり着きました。翌年、奈良の平城京へ入り「東大寺」を朝廷より賜ります。

そしてこの地に日本で初めての「戒壇(戒律を授ける儀式を行う場所)」を設け、たくさんの人たちが正式な僧侶となりました。その後、鑑真は九州や北関東にも戒壇を設け、日本に「本当の仏教」を広めたのです。

鑑真が日本に来た理由

鑑真は長安で仏教を学び、淮南(わいなん)で律宗の戒律を人々に広めました。戒律というのは僧侶が順守しなければならないルールで、僧侶となるためには位の高い僧侶から戒律を授けてもらわなければなりません。

唐にはこうした戒律を授けられる僧侶がいたのですが、当時の日本には私度僧と呼ばれる国の許可を得ず勝手に出家した僧侶がほとんどでした。これを何とかしたいと考えていた「聖武天皇」は、質の高い僧侶に来てもらうため、「栄叡(ようえい)」と「普照(ふしょう)」を唐に向かわせました。

栄叡と普照は第十次遣唐使船に乗り唐に渡ると、洛陽の大福先寺において「三師七証」という戒律の儀式を受け、日本に来てくれる僧侶を探します。

そして栄叡と普照が見つけたのが、高僧として唐で尊ばれていた「鑑真」だったのです。

日本へ!「鑑真」6度の挑戦

唐に渡り戒律を受けた栄叡と普照は、次の遣唐使船が唐に到着するまで、日本に渡り戒律を授けてくれる僧侶を探していました。1年・2年と月日ばかりが過ぎ、日本に渡航してくれる僧侶はなかなか見つかりません。

9年もの歳月が過ぎたある日、何千人というお弟子さんを持つ「鑑真」という僧侶の話を聞き、鑑真のもとを訪れ、戒律を授けられる方を日本に使わしてほしいと頼みます。しかし手をあげる者がいません。

すると鑑真は仏教のためなら命を惜しむことはないと、自分が渡航する決意を固めたのです。

第1回渡航「僧侶の密告により失敗」

鑑真が日本へ渡航することを決意すると、師匠が行くなら私もと志願する僧侶が相次ぎ、結局21名がともに渡航することになりました。遣唐使船はいつ唐に来るのかわからないため、743年、日本へ密航する決意を固めます。

玄宗皇帝の近臣の権力者が南へ向かう書状を書いてくれたので、もしも唐に吹き戻しとなっても問題ありません。

いよいよ出発となった時、鑑真が日本に渡航することを良しとしていなかった僧侶が、役人に栄叡と普照は「海賊の仲間だ」と嘘の密告をしたのです。栄叡と普照は逮捕されたのですが、書状を書いてもらっていたため釈放されました。しかし渡航は失敗してしまったのです。

第2回渡航「船の大破により失敗」

第1回渡航を計画した同じ年に第2回の渡航計画を実行しました。12月に大陸から吹く北西の風を利用し、日本に渡ることを考えたのです。今回は密告されることもなく無事に出発したのですが、海がひどく荒れ、船が壊れてしまいました。

仕方なく船を岸で修理し、近い島まで行って1か月くらいしてから出発しました。しかしまた海が荒れ船は暗礁に乗り上げ、今度は大破してしまいます。

近くの島に打ち寄せられた一行は、3日後、天候が回復したことから、近くを通った人に声をかけ、さらに5日後、役人によって救出されました。しかしこれもまた密航だったため、阿育王寺に収容されます。こうして第2回目の渡航も失敗に終わったのです。

第3回渡航「栄叡の逮捕により失敗」

2回目の渡航の翌年、744年にも日本に渡る計画をしたのですが、計画をしている最中に栄叡が逮捕されます。役人に対し、栄叡が「鑑真をだまし日本に連れていく」という密告があったのです。

栄叡はまるで重罪人のように扱われ、首枷までつけられてしまいます。しかし心労が重なったためか病気になり、それを見た役人が都へ護送される途中で「死んだことにするから鑑真のところに戻り役目を果たせ」と逃がしてくれたといいます。

しかし第3回目の渡航計画も密告により失敗に終わりました。

第4回渡航「弟子の密告により失敗」

同じく744年、今度は台湾対岸の福州というところから渡航する計画を立てます。福州まで長い道のりの後、やっとの思いでたどり着いたのですが、鑑真を心配した揚州の弟子が密告してしまったのです。

栄叡と普照は役人に捕まって離れ離れになり、鑑真は揚州の寺に返されました。このとき鑑真は密告した弟子に対しこう立腹したといいます。

「心配してくれるのはありがたいが、今行おうとしていることは仏法のため、苦しむ人を救うためだ。不惜身命の決意をもって仏法を東に伝える役割があるのに。日本の人がこちらに来てほしいと熱望している。日本へ仏法を伝える事こそ仏法者だ。この志を曲げるとは、我が弟子ではない!

密告した弟子は朝から夕方まで立ったまま鑑真に詫びましたが許されず、やっと許してくれたのは他の人の取りなしがあったからといわれています。弟子が鑑真に許してもらえたのは60日もたってからでした。第4回目の渡航も失敗です。

第5回渡航「遭難・弟子の死・失明により失敗」

栄叡と普照は1年後に釈放されました。それから3年ほど消息が不明でしたが、748年、鑑真の元に帰ってきました。そして日本に向け、今度は揚子江から出発です。このときすでに鑑真は61歳になっていました。

しかしまたしても天候が悪化し、近くの島で停泊を余儀なくされます。1ヵ月以上の停泊が続き9月に再出発しますが、また天候が悪くなり、もう1ヵ月、近くの島にとどまることになりました。

10月に改めて出港しますが、沖に出るほどに風が強くなり、黒潮に流され、船は完全に漂流します。120日も漂流し、到着したのは台湾よりもはるかに南下した「海南島」という島でした。

鑑真たちは疲労しきっており、仕方なく海南島に1年滞在し、それから中国本土に帰ったのです。しかしこの頃、栄叡の病気がひどくなっていました。普照に鑑真さまを日本に必ず連れて行ってくれと言葉を残し、栄叡は命を落としました。日本から遣唐使船で唐に渡り16年、とうとう日本の土を踏むことなく生涯を終えたのです。

栄叡の死は鑑真にとっても大きな出来事でした。鑑真はこれまでの無理もたたり、また栄叡の死のショックから失明しました。この時、鑑真の愛弟子であった「祥彦」も亡くなっています。第5回目の渡航も失敗でした。

第6回渡航「遣唐使船により成功・鹿児島に到着!」

752年になり、20年ぶりの遣唐使船が唐に到着しました。普照は日本の責任者にあい、鑑真を乗せてくれるように話を付けます。玄宗皇帝の許可はおりませんでしたが、753年、日本に向けて鑑真は出発しました。

鑑真は第2船、普照は第3船に乗り出向しましたが、海がまたしても荒れ狂います。遣唐使船の第4船はベトナムの方に流れましたが、普照の乗っていた第3船と鑑真の乗っていた第2船は、11月にやっと沖縄に着きました

それから鑑真の乗った第2船は鹿児島に着き、第3船は和歌山に到着しました。栄叡と普照が鑑真を見つけ日本への渡航をお願いしてから、実に12年もの歳月が流れていました。栄叡を含め、志を共にした36人の仲間たちが亡くなりましたが、鑑真はようやく日本の地に足を下したのです鑑真の渡航は第6回にしてようやく成功しました。

鑑真が日本で成したこと

日本初 東大寺に「戒壇」を築く

鑑真が奈良の平城京に到着すると、朝廷は東大寺を与えました。ここで鑑真は聖武上皇が望んでいた授戒の準備に入ります。東大寺に日本で初めての戒壇を造ったのです。

戒壇の設立の着工から2か月、東大寺大仏殿に戒壇が築かれました。鑑真は聖武上皇や光明皇太后、さらには第46代孝謙天皇ら400名に対し、授戒を行っています。この授戒が日本初の「正式な受戒」です。

東大寺に戒壇が造られると、他の場所にも戒壇が欲しいという声が多く、761年には九州の太宰府「観世音寺」と栃木の「下野薬師寺」に戒壇を造りました。観世音寺下野薬師寺、そして東大寺の戒壇を合わせて「本朝三戒壇」といいます。

律宗総本山「唐招提寺」を建立と役割

鑑真は759年新田部親王(第40代天武天皇の皇子)が利用していた旧宅を譲り受けました。そしてこの場所に律宗の総本山「唐招提寺」を建立します。こちらにも戒壇を設け、また薬草などの大陸の知識や学問をここから日本に伝えました。

鑑真によって正しい受戒が行われるようになったことで、僧侶の質が格段に向上し、日本の仏教は正しい方向に進んでいったのです。

鑑真はすでに60歳を超えていましたが精力的に活動し、「悲田院」と呼ばれる貧しい人たちを救済する場所も併設しました。また唐招提寺には日本最古と呼ばれる鑑真の彫像が残っています。この彫像は弟子の「忍基」が造ったもので、写実的に作られているといいます。当時の鑑真を現代に伝えてくれる「国宝唐招提寺鑑真像」は、非常に貴重な品といえるでしょう。

鑑真の死

これからますます仏教を全国に普及したいと考えていた鑑真ですが、長年にわたり渡航の困難に向き合い、また若い頃から体を駆使する修行も行っていたこともあり、763年、76歳で逝去しました。

最後まで仏教の布教に努めた鑑真は、唐に帰ることなく、唐招提寺で生涯を閉じたのです。鑑真の生き様、日本で成したことを知ると、現代に生きる私たちにもたくさんのことを教えてくれるような気がします。