藤原不比等の生涯
藤原不比等の誕生と父の死
藤原不比等(ふじわらのふひと)は中臣鎌足の次男として、現在の奈良県明日香村で誕生しました。不比等が11歳の時、699年に父が亡くなります。鎌足が亡くなる少し前に「藤原」姓に改姓していたため、不比等も藤原姓を継承しました。
古代日本最大の乱と呼ばれる「壬申の乱」が起きた際、不比等はまだ14歳だったため、近江朝の処罰対象にも、天武朝の功績対象にもなりませんでした。しかし鎌足の同族有力者が近江朝要人として処罰を受けたため、天武朝初期には朝廷の主軸から外され、不比等も後ろ盾を持たない状態となってしまったのです。
そのため不比等は673年の大舎人(おおとねり 律令制の中で天皇に使え雑使などをした下級官人)の登用制度を利用するしかなく、この制度を利用し、下級官人としてなりました。
法律家「藤原不比等」大宝律令制定の中心人物となる
不比等は政治的な後ろ盾もなく、下級官人として働き始めましたが、次第に能力を発揮し、少しずつ地位を回復しました。701年の大宝律令の策定では主軸の人材として作成にかかわることができたのです。
大宝律令とは「唐」の律令をもとにして作られたもので、大宝律令の制定は日本が中央集権国家の基盤を作る際、非常に重要なものとなりました。
父が亡くなり大きな後ろ盾もなかった不比等ですが、こうして国にとって重要な人物となっていったのです。
天皇家と固い絆を築く
大宝律令の編纂で中心的な働きをみせたことで、元明天皇(女帝)の付女官であった橘三千代(不比等と婚姻関係だったとみられる女性)によって皇室との関係が深くなりました。文武天皇が即位した後には、不比等の娘「藤原宮子」が天皇の妻となっています。
不比等は天皇家の外戚となり、孫の首皇子(おびとのみこ)を即位させようと画策しましたが、首皇子がまだ7歳の時、文武天皇が亡くなります。まだ7歳の首御子に即位は無理な話です。不比等は元明天皇を立て、首御子が大きくなるまでの時間を稼いだといわれています。
698年、不比等の子孫だけが藤原姓を名乗っており、また太政官という職に就くこともできています。不比等の従兄弟らは、中臣朝臣姓となって神祀官という職で祭祀のみを行う役割でした。藤原姓を持つものと、中臣姓を持つもので、職業が大きく分けられたのです。不比等は天皇家との固い絆を築くことで、藤原氏の権力基盤をしっかりと築きました。
藤原不比等が成したこと
大宝律令によって国家運営の土台を作った
藤原不比等の功績はいくつもありますが、中でも律令制度を作ったという点は日本の歴史の中でも重要なことです。不比等が主軸となって策定された「大宝律令」は、日本が中央集権国家を作るために必要不可欠なものでした。
不比等たちが作った大宝律令という法典があったからこそ、国全体を統制することができたのです。国家運営の基盤の最も重要な土台を作ったといって過言ではないでしょう。
税制の整備を行った
大宝律令が制定されたことで、税制もしっかり整備されました。それまでは税の徴収についてもばらつきがあり、安定的に徴収できずにいたのです。しかし法の整備が整ったことで、土地や人口について緻密に調査し、それをもとに公平で安定的な税の徴収ができるようになりました。
国としては安定した税の徴収により、財源を確保することができます。また国造りにおいても、地方統治の仕組みを作り、中央から地方へ指示がしっかり伝わるようになりました。こうしたことにより、国内での情報が伝わるようになり、物資の流通なども活発に行われるようになったのです。
平城京に遷都推進
不比等が成したことの中で、平城京の遷都も偉業といえます。律令制度を根底から支える政治的、また文化的な中心地を明確に定めるために、平城京の遷都は重要なことでした。ただ694年に持統天皇が作った藤原京も素晴らしいものです。
藤原京は、本格的な都で首都機能もしっかりそろった都でした。しかし不比等は遷都を元明天皇に推進しました。なぜ不比等が平城京の遷都を推進したのかというと、以下の点を考えたからです。
- 飛鳥地方の豪族が影響しないように
- 孫の首皇子が天皇となる場所を造るために
元明天皇は不比等たちの推進もあり、710年に遷都を行ったのです。
天皇家の外戚となる|家系図
697年に娘である「宮子」が文武天皇に嫁いだことで、不比等は天皇家の外戚となりました。孫の首皇子は不比等の死後、不比等の息子たち「藤原4兄弟」の武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)たちの尽力により、聖武天皇として即位しています。
下級役人から始まり、裁判を担う官人となって政界に立ち、持統天皇から重用される立場となった不比等は、最終的に天皇家と外戚にまで上り詰めたのです。
藤原不比等ゆかりの場所
大極殿
大極店(だいごくでん)は、天皇が儀式の際に利用した宮殿で、2010年、平城遷都1300年祭に合わせて、9年という歳月をかけ復元されたものです。平城京最大級の宮殿として知られています。天皇が儀式の際、着座される高御座(たかみくら)などが展示されています。
不比等が推進した平城京遷都により、平城京にこうした宮殿ができ、様々な行事が行われたのです。天皇の即位など、国の重要な儀式を執り行ってきました。
法華寺
法華寺は不比等の邸宅だったといわれている場所にあります。天皇がお住まいだった場所から徒歩で10分くらいの場所です。こうした天皇のお住まいとの距離を考えると、不比等がいかに力を持っていたかわかります。
不比等が亡くなると、不比等の娘であり聖武天皇の妃「光明皇后」が不比等の財産を相続しました。その財産を寄付し建立したのが総国分尼寺「法華寺」です。
光明皇后は当時流行していた天然痘を何とかしたいと、蒸し風呂を造り皇后自ら千人の垢を落としたと伝えられています。その「から風呂」は現在も残されています。
海龍王寺
法華寺から歩いてすぐの距離にあるのが海龍王寺です。法華寺と同じようにもともとは不比等の住まいでした。不比等の死後、光明皇后が創建したお寺です。北東の隅に建立されたことから「隅寺」とも呼ばれています。
飛鳥時代に建立されましたが、平城京の鬼門にあたる東北を守護するために、改めて創建されました。第八次遣唐使の玄昉(げんぼう)という人が、帰国する途中で海が荒れ、唐の経典の「海龍王経」を唱えたところ無事に帰国できたといいます。それから遣唐使の安全祈願をこの海龍王寺で行うようになったそうです。
光明皇后が自ら造った十一面観音をもとに鎌倉時代に仏師が造立したご本尊の十一面観音菩薩立像は、国の重要文化財となっています。
東院庭園
平城京には当時、東院、東宮と呼ばれている場所がありました。東宮は皇太子の宮殿という意味があります。不比等はこの東宮に隣接する場所に邸宅を構えていました。不比等は孫の首皇子の成長を近くで見ていたいという気持ちを持って、この地に居を構えたそうです。
1967年に平城京跡東側で庭園の遺跡が発掘されました。文献以外で知ることのなかった奈良時代の庭園が、この発掘によって明らかになったのです。庭園は東院庭園として復元されました。
池を中心として造られた東院庭園は非常に美しく、平安時代以降の庭園を現在でも見ることができます。
朱雀大路跡と朱雀門
平城京は「唐」の都であった「長安」を見本に造られたといわれています。不比等らが推進し造られた平城京がどれほど素晴らしいものだったのか、大いに感じられるのが朱雀大路跡と朱雀門です。
朱雀大路は南北に約3.7km、路面の幅は約75mにも及んでいます。南の端は正門の羅城門、北が南正門の朱雀門です。平城京の東西南北を守っていた四神「青龍」「白虎」「玄武」「朱雀」の、朱雀から大路の名がつきました。
当時、海外の使節賓客は朱雀大路を通り平城京へ案内されたといいます。当時の都がどれほどの力を持っていたのか、知ることができる場所です。
宇奈多理坐高御魂神社
不比等の邸宅があったとされる東院庭園の横に、静寂さ漂う森があります。その森の中に由緒ある寺があり、それが「宇奈多理坐高御魂神社」です。この寺は不比等の娘「光明皇后」が建立した法華寺の鎮守だった古寺でした。本殿は室町時代築の「三間社流造」で、国の指定重要文化財でとなっています。
この寺は日本書紀に「菟名足(うなたり)」という名で、住吉大社や伊勢神宮とともに記載されている由緒正しい寺です。「桜梅神社」と刻まれている石燈籠は、光仁天皇の離宮「揚梅宮」の跡といわれています。