道元は何した人?生い立ちを解説


鎌倉時代に活躍した僧侶・道元は、中国から曹洞宗をもたらして日本に定着させた人物として有名です。また大本山である福井県の永平寺も、道元が開いたことで知られます。

しかし道元がどのような生い立ちで曹洞宗と出会い、日本にもたらしたのかは意外に知られていません。道元の波乱万丈の生涯を見ていきましょう。

京都で生まれ13歳で比叡山に入る

道元は1200年に京都の公家である久我(こが)家で生まれました。父は当時内大臣だった久我(源)通親、母が太政大臣の松殿(藤原)基房の娘と、名門の血筋を引いています。なお、幼名は「信子丸」や「文殊丸」とも言われていて、はっきりしません。

幼少期の道元は3歳で父を、8歳で母を失うという不幸に見舞われます。両親の死後、異母兄である堀川通具(みちとも)の養子になり、漢籍を読むなど神童ぶりを示しました。母方の松殿家から養嗣子になる話もありましたが、両親を失った後に感じた無常ゆえに、出家を決意します。かくして道元は13歳で比叡山延暦寺に入り、法名を授かって修行に明け暮れました。

放浪の末に禅と出会う

道元は比叡山にて修行したり多くの経典を学んだりする日々を送っていたものの、自身の抱く苦悩はなかなか晴れません。ついに比叡山での修行に見切りをつけて、各地を放浪し始めます。なお放浪の最中の1215年には近江の三井寺で公胤(こういん)に師事して天台の教えを学びました。

放浪の日々を過ごした末、道元は臨済宗の開祖・栄西が京都に開いた建仁寺を訪れます。当時栄西はすでに亡くなっており、彼の教えも弟子である明全(みょうぜん)が受け継いでいました。道元は臨済宗、ひいては禅の教えこそが自分を苦悩から救うと信じます。そして苦悩の果ての悟りを目指して、建仁寺での修行三昧の日々が始まりました。

宋にて座禅の中に悟りを見出す

建仁寺で禅の修行に打ち込むうち、道元はより深く学びたい気持ちに駆られます。そこで1223年、師匠である明全らとともに博多経由で宋(当時は南宋)に渡りました。

宋に上陸した道元らは、各地の禅宗寺院を巡っては様々な僧侶の教えを受けます。やがて天童山景徳寺を訪れた道元は、住職の如浄(にょじょう)から曹洞宗の教えを受けることになりました。曹洞宗は問答を重視する臨済宗と異なり、ひたすら座禅に徹しながら修行するのが特徴です。しかも毎朝3時から夜の11時まで丸一日座禅を組むというものでした。

道元は徹底して座禅を組む日々を送る中で、座禅を通じて自我を消すことこそが修行であると悟ります。こうして悟りを見出した道元は、師である如浄から教えを受け継ぐ許しを得ました。

帰国後京都にて活動

宋で悟りを得た道元は、1227年に28歳にして日本に帰国します。そして1233年には京都南方の宇治にて国内最初の曹洞宗寺院である興聖寺(こうしょうじ)を開きました。その傍らで執筆活動も開始していて、彼が生涯かけて残した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』も帰国後から著しています。

やがて道元のもとには多くの弟子たちが入門してくるなど、彼の活動は順風満帆かに見えました。しかし興聖寺を建立した翌1234年、比叡山延暦寺の激しい弾圧を受けてしまいます。弾圧によってせっかく建立した興聖寺も一部が破壊されました。

越前に永平寺を開く

延暦寺による弾圧を受ける中、道元は門徒で越前国内の地頭だった波多野(はたの)義重から招かれます。1243年に義重の所領がある越前志比荘(現在の福井県永平寺町一帯)に赴いた道元は、義重より土地の寄進を受けました。寄進された土地の山中に大仏寺を建立した道元は、改めて曹洞宗修行の地とします。なお、大仏寺は1246年に「永平寺」と名を改められました。

新しい修行の場を得た道元は、弟子たちとともに座禅を中心とした修行を行う一方、『正法眼蔵』の執筆も継続させます。加えて1247年から49年にかけては、時の執権である北条時頼(時宗の父)から鎌倉に招かれ、布教活動に従事しました。

越前に来て以降、精力的に活動した道元は、1253年に54歳で世を去ります。

道元の人物像を名言やエピソードとともに紹介

道元は少年時代から抱えていた苦悩を機に出家し、曹洞宗を日本にもたらしました。彼はどのような性格の持ち主で、彼の思想の特徴は何だったのかを知っておくと、1人の人間としての道元に迫れます。

自他ともに厳しい高潔な人物

道元は自他ともに厳しい高潔な人物でした。悟りを開いた後も、弟子たちとともに座禅を軸に厳しい修行に明け暮れます。当時の後嵯峨天皇から最高位の僧侶を示す紫衣(しえ)を賜っても身に付けず、執権北条時頼から寺院建立の話があっても断ったほどです。

弟子たちとの修行でも、座禅や読経だけでなく日常生活の細かい部分に至るまで厳格な作法を設けました。生活も修行のうちである点は、現在の永平寺での雲水修行にも受け継がれています。

「只管打坐」を掲げ座禅を教えの中心に

道元の教えは「只管打坐(しかんだざ)」が中心です。何らかの境地に達して悟りを開くのではなく、悟りを目指して座禅による修行に打ち込む姿勢こそが悟りの境地であることを力説しました。

しかも道元は日常生活の所作全ても禅の修行の一環と考えています。食事や掃除、立ち居振る舞いさえにも注意することで品のある人格が形成されるというものです。

道元の残した名言も紹介

道元は54年の生涯の中で名言も多く残しています。ここでは道元が生前に残した名言をいくつかご紹介しましょう。

“当山の兄弟(ひんでい)、直に須らく専一に坐禅すべし。虚しく光陰を度ること莫れ。人命無常なり、更さらに何れの時をか待たん。”
引用:永平広録

道元が永平寺に集った弟子たちに、ひたすら座禅することの大切さを説いたものです。しかも「今すぐ座禅せよ」とまで呼び掛けているのだから、道元がいかに座禅を重要視していたのかがうかがえます。

“仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。”
引用:正法眼蔵

仏道修行は自分事で学ばなければならないことを力説した言葉です。同時に自己へのこだわりを手放すことで、仏の教えの真理を理解できることも伝えています。

道元の死因は何だったのか?

道元は1253年、54歳で世を去りました。死因は「瘍(よう)」、つまり現代でいう悪性腫瘍(がん)とされています。悪性腫瘍は現代の日本人にとっては最もメジャーな病気の1つに道元も苦しめられました。

ちなみに道元は亡くなる直前、自らが就いていた永平寺の住職の職務を愛弟子である孤雲懐奘(こうんえじょう)に託しています。

道元より後の曹洞宗はどうなった?

道元が亡くなった後の曹洞宗は、永平寺の住職となった孤雲懐奘が第2祖として受け継ぎます。そして積極的な布教を展開し、室町時代には全国に普及しました。

江戸時代には幕府の命で、能登にあった総持寺も永平寺と並ぶ大本山とされます。この総持寺は明治時代に火災に遭った後に横浜の鶴見に移転し、東日本における曹洞宗の一大拠点となりました。