道鏡の生涯

法相宗の僧侶・義淵(ぎえん)の元で学ぶ

道鏡の出生について、弓削氏の出自であり出身地は河内国(現在の大阪府八尾)であるということ以外はわかっていません。
若い頃法相宗の僧侶である義淵の元で学び、如意輪法・求聞持法といった密教の知識も身につけました。また、東大寺の僧侶・良弁からはサンスクリット語を教わっています。

さまざまな文献で学び、病気を治療する技術や、天変地異に関する知識や対応方法を身につけました。

孝謙上皇との出会い

孝謙天皇(上皇)と出会ったのは761年頃です。当時孝謙上皇は母・光明皇后の治療のため天皇を譲位していました。
この時期に孝謙上皇も体調を崩してしまいます。この治療にあたったのが道鏡でした。

道鏡は禅の知識も持っていたため、禅師として宮中に入ることも許されていました。
道鏡は神々へ祈祷を捧げる治療術により孝謙上皇の病を治し、孝謙上皇の信頼を獲得。側近として仕えるようになります。

この状況を良く思わなかったのは、当時の天皇だった淳仁天皇藤原仲麻呂でした。彼らは道鏡を排除するため出兵を企てますが失敗に終わり、処罰されてしまいます。

僧侶でありながら政治に関与

天皇の座が空白となってしまったため、孝謙上皇は重祚し称徳天皇として朝廷に戻りました。
道鏡は764年に太政大臣禅師の地位を与えられ、翌年には法王の地位も手にしています。称徳天皇の寵愛も強かった道鏡は、一介の僧侶でありながら積極的に政治に介入しました。

道鏡が法王になった背景には、すでに出家していた称徳天皇が天皇に就けるのだから、僧侶の天皇がいてもおかしいことではないという考えが根底にあったとされています。

宗教的には天皇よりも位の高い「法王」に道鏡が就任した後、道鏡の血縁者が続々と重職に就きました。この状況に藤原氏をはじめとする貴族は不満を高めていったのです。

称徳天皇は仏教政策を強く推進しました。称徳天皇は父・聖武天皇の仏教政策を引き継ぎながら、独自の政策を展開しています。
主な政策は以下の通りです。

・西大寺の造営、近隣には西隆寺という尼寺を設置
・木製の三重塔を製作し、全国の寺に設置
・鷹や犬といった生物の狩りを廃止し、京への肉、魚の献上を禁止する
・墾田永年私財法の一時的な廃止(寺領を除く)

上記の政策は道鏡から提案を受けて実施したものが多いと考えられています。

宇佐八幡宮神託事件

女性の天皇は生涯独身で子どもを授かることができないという制約がありました。称徳天皇もその慣例に従っていたため、次期天皇を誰に継がせるのかは当時の朝廷内の最大の関心事でした。

この頃前天皇である淳仁天皇が謎の死を遂げていたり、天武天皇の曾孫・和気王が処罰を受ける等、皇族内でも不審な動きが見られます。

朝廷内が皇位継承に関してかなり敏感になっていた時期である769年、宇佐八幡宮から称徳天皇へ「道鏡に天皇を継がせよ」という神託が奉納されました。孝謙天皇の命令で宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂(わけのきよまろ)はこの神託を疑い、独自に調査を行います。

その結果、この神託は道鏡の弟で大宰帥だった弓削浄人ら道鏡派閥が企てた虚偽の神託であったことが発覚。和気清麻呂は称徳天皇の怒りを買い処分を受けますが、同時に道鏡の天皇即位も白紙になりました。

この直後、称徳天皇は病にかかり亡くなってしまい、道鏡は左遷されました。その後左遷先の下野国で亡くなっています。

道鏡の性格


道鏡の性格について明確に書き記された史料などは現存していませんが、対人能力の高い人物だったのではないかと考えられています。

その根拠のひとつは、医療行為に対する評価の高さです。
道鏡の治療は民衆からも高い評価を得ていました。努力家だった道鏡は医療に関する知識も深く、多くの人の治療に携わっていたため、対人能力にも長けていたのではないかと考えられています。

また、当時の医療は今のような投薬治療ではなく、祈祷を捧げる治療が中心でした。天皇の病気治療を行った殆どが僧侶だったという記録も残っています。一人の天皇につき治療にあたった僧侶は100名を超えていたそうです。

孝謙上皇の治療においても同様のケースが考えられます。つまり、多くの僧侶がいた中でのしあがったのが道鏡だった、という見方もできるのです。

道鏡にまつわるエピソード

孝謙天皇と男女の関係だった?

道鏡と孝謙天皇の関係性については研究によって判断が分かれています。愛人関係だったとする説が有力でしたが、はっきりとした証拠はないので断言はできません。

道鏡と孝謙天皇の関係性をスキャンダラスに語り継いでいったのは、今後同じような事例が発生しないよう戒める目的もありました。
宇佐八幡宮神託事件の例を挙げ、女性の天皇は愚かであるという印象をつけ今後女帝が輩出されないようにしたのではないかと考えられています。

孝謙天皇と道鏡については長い間説話集などで語り継がれました。その過程で話が誇張され、道鏡の巨根説や床上手説が広まり、道鏡と孝謙天皇が愛し合っていたという結論に至ったのでしょう。

道鏡にまつわる俳句

平安時代以降、道鏡は孝謙天皇を惑わせた悪人として歴史書や説話集の題材になっています。特に江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」「道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)」といった下世話な川柳が詠まれることもありました。
当時の道鏡に対する民衆の考え、評価が分かる史料のひとつです。

道鏡の巨根説から、子孫繁栄の象徴として道鏡を祀る神社も建てられています。

「日本三悪人」に挙げられる理由

道鏡は平将門、足利尊氏とともに「日本三大悪人」と呼ばれています。

日本三大悪人は主に天皇を裏切ったり騙した人物を指しています。

道鏡が日本三大悪人に名を連ねているのは、皇族ではないにも関わらず天皇になろうとし、皇族の血筋を汚そうとした存在として扱われているためです。

道鏡とかかわりの深い人物

孝謙天皇

孝謙天皇は日本の第46代の天皇です。日本では数少ない史上6人目の女帝であり、重祚して第48代天皇にも就任しています。
自身の病を治療してくれた道鏡を寵愛、太政大臣禅師に就任させ政界進出を手助けしました。

孝謙天皇は熱心な仏教徒であり、道鏡と共に仏教政策を推し進めています。
また、道鏡の故郷にある弓削寺に行幸したり、弓削寺の近くに離宮を立てるなど一介の僧侶に対し非常に手厚い待遇を行いました。

和気清麻呂

和気清麻呂は奈良時代の貴族です。道鏡を皇位に就けよという神託を孝謙天皇が受けた際、神託の内容を宇佐八幡宮まで確認しに行った人物です。

道鏡の皇位継承を阻止した人物として、戦前までは勤王の象徴として評価されていました。

藤原仲麻呂(恵美押勝)

藤原仲麻呂は孝謙天皇の母、光明皇后の甥です。孝謙天皇の治世で政治を指揮していました。

孝謙天皇が道鏡を寵愛するようになったことをきっかけに二人と対立しクーデターを企てますが、実行前に計画が判明してしまい殺害されてしまいます。