阿倍仲麻呂の生涯

阿倍仲麻呂は小さい頃から学才だった

阿倍仲麻呂は698年に大和国で阿部船守のもとに生まれました。父の阿部船守は、天皇の詔勅(天皇が公に意思を表す文書のこと)などを作成する「中務大輔(なかつかさたいふ)」として中務省で働いていた次官です。

仲麻呂は幼い頃から学問を好み、聡明で能力の高い子どもでした。716年になると遣唐使と共に唐に渡ることができる「遣唐留学生」に選出されます。そして717年、吉備真備・玄昉(げんぼう)らと共に遣唐使船に乗り、難波津(なにわづ)から明州に渡りました。

吉備真備は唐に入り国を治める思想、歴史、兵学など幅広い知識を身に着け、たくさんの書籍をもって帰国しました。玄昉は仏教を深く学び、帰国後は日本の仏教確立と広布に尽力した人物です。

朝廷に仕え異例の出世を果たす

仲麻呂は太学(官立の高等教育機関)で学び、科挙(官僚へとうりょうするための試験)に合格します。科挙は非常に難しく、やっと合格できる平均年齢が36歳くらいといわれる試験です。これに合格したことをみても、仲麻呂がいかに優秀だったかわかります。

その後、長安にて名前を「朝衡(もしくは晁衡)(ちょうこう)」とし、朝廷に仕えることになりました。初めての役職は「校書(きょうしょ)」で、皇太子の元、図書を写す・公正をするといった仕事です。通常、唐に来たばかりの外国人を皇太子のもとに置くことは異例であり、非常に稀なことでした。仲麻呂が人並外れた能力を持っていたからこそ、こうした役職にいきなり抜擢されたのでしょう。

その後は左拾遣(さしゅうい)(門下省・唐の中央官庁に属している仕事)という「官僚の出世コース」と呼ばれる官職になり、これらの仕事ぶりが玄宗皇帝の目に留まり高い評価を受けたのです。玄宗皇帝は仲麻呂を大層気に入り、さらに上の位である「左補闕(さほけつ 業務内容は左拾遣とほぼ同じ)」に抜擢しました。

阿倍仲麻呂が唐から帰国できなかった理由

阿倍仲麻呂は唐に渡ってから、一度も日本の土を踏むことなく「唐」で亡くなっています。なぜ唐から帰国できなかったのか、この理由にも仲麻呂の「優秀さ」が関わっているのです。

733年に日本から出向した第10回の遣唐使船が到着したため、吉備真備玄昉らと共に帰国するつもりでした。しかし仲麻呂は玄宗皇帝のもとで働いている身だったため、帰国するためには玄宗皇帝の許可が必要です。仲麻呂は玄宗皇帝に帰国の申し出を行いました。

玄宗皇帝にとって仲麻呂はすでになくてはならない人材だったため、帰国の申し出を拒否したのです。仲麻呂は玄宗皇帝の意志に背くことはできません。仕方なく帰国をあきらめましたが、その際に読んだと呼ばれる以下のような「漢詩」が残されています。

  • 慕義名空在 輸忠孝不全
    報恩無有日 帰国定何年

「皇帝に対し義を大切にして役職を得たけれど、異国にいるだけで故郷に錦を飾れないのなら名誉もむなしい。自分を産んで育ててくれた両親に恩返しできないことが辛い。日本に帰国できるのは何年後なのだろう

一時帰国の船でベトナムへ漂着

日本に帰国したいという思いを募らせる仲麻呂は、やっと753年になって帰国の許可が下りました。日本から遣唐使船がやってきたため、一時帰国の許可が下りたのです。しかしこの時も「一時帰国」であり、「唐の使者」という立場で日本に派遣される形での帰国でした。

それでもやっと日本に帰国できる仲麻呂は、大層喜びました。この時、あの百人一首で有名な歌を詠んでいます。

仲麻呂が日本に帰国する際、唐で友人となった詩人の「王維」や「李白」は別れを悲しみました。王維は別れを悲しむ歌を詠んだほどです。仲麻呂も長く暮らし学び、そして働いた唐を離れることは後ろ髪をひかれる思いでしたが、日本に帰国し両親に会えることを胸に唐を離れます。

しかし中国を出港した遣唐使船は「鹿児島県・奄美大島」あたりで遭難し、ベトナムに漂着してしまうのです。唐には船が沈み仲麻呂が死亡したと伝えられ、李白はひどく悲しみ「晁卿衡を哭す(ちょうけいこうをこくす)」という悲しみの歌を詠んでいます。

異国の地で閉じた生涯

なんとかベトナムに漂着した仲麻呂ですが、日本に帰国することはできませんでした。ベトナムから「唐」に戻り、その後も多数の責務ある仕事を全うし唐の朝廷を支え、770年に73歳で生涯を終えました。

日本に帰りたいと願った仲麻呂でしたが、とうとう帰国することなく生涯を閉じたのです。しかし仲麻呂は日本と中国にとって重要な人物であり、大きな影響を及ぼしました。その功績は仲麻呂ゆかりの場所で感じることができます。

奈良県の「阿部文珠院」には金額浮御堂(きんかくうきみどう)の中に阿倍仲麻呂座像が安置されています。また中国の興慶宮(こうけいきゅう 玄宗皇帝が執務していた場所)は公園となっており、この公園内には阿倍仲麻呂記念碑があります。日中友好の証として知られている記念碑です。

阿倍仲麻呂と百人一首「7番目の歌人」

百人一首というのは、歌人たちの代表的な和歌を100人分集めて作成された「和歌集」です。歌人たちの和歌から代表的な歌を、ひとり一首100人分集められています。

「藤原定家(鎌倉時代の貴族)」が「勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう 天皇・上皇の命により編纂した和歌集)」として編纂した「古今和歌集」の中で、阿倍仲麻呂は7番目の歌人として登場します。この歌こそ、仲麻呂がいよいよ日本に帰国できると喜び、故郷を想って「唐」の地で詠んだ歌です。

  • あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも
    「果てしなく広がる大空を仰ぐと美しい月が出ている あの月は奈良の春日にある三笠山に登っていた月と同じなのだなあ」

仲麻呂はいよいよ日本に帰ることができると思った時、万感の思いを込めてこの歌を詠んだのだと思います。故郷へのなつかしさと恋しさ、そして長い年月を過ごした唐への思いを重ねて詠んでいたのでしょう。

阿倍仲麻呂に関係する伝説

阿倍仲麻呂にはある伝説が残されています。これは吉備大臣入唐絵巻という絵巻に描かれているものです。

仲麻呂は藤原不比等の推薦を受け元正天皇の勅命によって、唐の玄宗から「金烏玉兎集」を借り日本に持って帰るように命じられます。唐に到着すると仲麻呂の高い能力を気に入った玄宗に重用され、唐の官人であった揚国忠・安禄山に恨まれてしまったのです。

仲麻呂は酔わされ高楼に幽閉されます。これを恨んだ仲麻呂は断食し34歳で死んでしまったのです。しかし死んでもなお、となり天皇に命じられた金烏玉兎集を求めます。

日本で仲麻呂は、昇進し天皇の命を忘れてしまったという噂があり、吉備真備が代わりに唐に派遣されました。するとまたしても揚国忠らが悪さをしようとしたため、鬼になった仲麻呂は吉備真備を助け、金烏玉兎集を持ち帰らせたという伝説です。こうした伝説が残るほど、仲麻呂は中国でも日本でも重用された人物だったのでしょう。

阿倍仲麻呂に関連する場所【中国「 興慶公園」の記念碑】

中国の西安にある興慶公園には、阿倍仲麻呂の記念碑があります。西安城外、東南郊外にあるこの公園は、唐の時代の興慶宮の一部です。公園内には当時の勤政務本楼遺跡や玄宗と楊貴妃が遊んだという沈香亭、長慶軒、竹翠亭などを見ることもできます。

阿倍仲麻呂の記念碑は、奈良市と西安の友好都市締結5周年を記念し、1979年に建立されたものです。記念碑には故郷を偲び仲麻呂が詠んだといわれる望郷詩と友人であった詩人李白の誌が刻まれています。

阿倍仲麻呂の生涯年表

西 暦 年 齢 出来事
698年 0歳 大和国で阿部船守の長男として誕生
717年 20歳 遣唐留学生として唐へ渡る
吉備真備玄昉らと同行)
725年 28歳 洛陽 司経局校書として任官
728年 31歳 左拾遺に就任
731年 34歳 左拾遺と官職を兼任
733年 36歳 第10次遣唐使来唐
帰国を申し出る皇帝の許可が下りず断念
752年 55歳 衛尉少卿に昇進
753年 56歳 秘書監・衛尉卿を授けられ一時帰国へ
暴風により漂流・ベトナムへ漂着
755年 58歳 ベトナムから長安へ戻る
760年 63歳 左散騎常侍・鎮南(安南)都護・安南節度使(正三品)を務める
761年 64歳 761年からハノイに6年間在任
766年 69歳 安南節度使へ昇進
770年 73歳 唐にて死去