農民から天下人まで成り上がった豊臣秀吉に、皆さんはどのようなイメージをもっているでしょうか。秀吉に対して「人たらし」「明るい」「誰の心にも入り込む」といったイメージを持っている人が多いと思います。しかしすさまじい戦国の世を生き抜き、しかも天下統一まで果たした男です。その一生の中ではただ「いい人」、「明るくて人懐こい人」では生きていけない場面もありました。
天下人となるまでには信頼していた人に裏切られ、また秀吉自身が人を裏切らなければならない場面もあったはずです。また自分がこうしたいと思っていたことも、最終的には全く違う結果になることもあったでしょう。豊臣秀吉は「人たらしな人」であるほかに、どういう人だったのか?豊臣秀吉の性格について解説します。
豊臣秀吉の性格は?
現在でも大阪に暮らす人たちは、「太閤秀吉」に愛着を持っているといいます。商人の街をつくった豊臣秀吉は大坂の人々にとって戦国武将の中で、近しい存在なのかもしれません。しかし秀吉はただ「人がいい人たらし」ではありませんでした。今回は豊臣秀吉の「性格」について詳しく紹介します。
豊臣秀吉は器が大きい?
豊臣秀吉はときに、思いもよらない「出方」で度量の大きさを見せつけてきました。島津義久・伊達政宗とのエピソードには、秀吉の度量の大きさが見て取れます。
島津義久は「九州の役」で秀吉に降伏し、伊達政宗は「小田原の戦い」に遅参することで服従の意志を示しています。秀吉は島津義久と対面する際、自分の「佩刀(はかし 刀を腰に帯びる)」を島津義久に与えました。また小田原征伐の際、石垣山の崖の上で対峙し、自分の佩刀を伊達政宗に預けたといわれています。島津義久も伊達政宗も秀吉の圧倒的な度量の大きさに、島津義久は降伏、伊達政宗は遅参という形で服従したのです。
しかし逆に、豊臣秀吉ってこんなに器量が狭い男だったのか?と思われる場面もあります。それは聚楽第に落書きが書かれていた時の話です。
淀殿が秀吉の子を授かった時、京都にある聚楽第(秀吉の邸宅)の門にあるいたずら書きが書かれました。「淀殿の子は秀吉の子ではない。たくさんの側室がいるのに急に子ができるのは怪しい」と書かれていたのです。それを見た秀吉は激怒し、門番、落書きをした犯人たち、犯人たちが逃げ込んだ本願寺の僧侶たち、近隣住民など最終的には113人が殺されました。
愛する淀殿とおなかの子に対する無礼であったかもしれませんが、これは行き過ぎでしょう。
豊臣秀吉は「人を見る目」に長けていた
秀吉は農民の出自ですから、先祖代々自分の家に仕える家臣を持っていませんでした。低い身分から始まった武将人生の中で、自ら信頼する家臣を得なければならなかったのです。秀吉は自分の目でこれから自分の役に立ってくれる人、必要な人を探す目に長けていました。
豊臣秀吉は人が持っている「財」また「材」を読む力があったといわれています。財力を持っている人を味方につければ何かと便利です。また材を持っている人が味方になれば、厳しい戦の中で「奇策」を打ち出すときに役立ちます。
豊臣秀吉は知謀の将と呼ばれた「竹中半兵衛」、軍略や外交面に高い才能を持っていた「黒田官兵衛」、さらには智将「石田三成」らを自分の家臣としていました。人の「材」を見事に見抜き、天下統一の力としたのです。
豊臣秀吉は「人たらし」
豊臣秀吉が「人たらし」といわれていたのは、人の心を掴むのが非常にうまかったからです。どんなことをすれば人が自分についてきてくれるのか、何をいえばその人の心に入り込めるのか、秀吉は常に考えて行動していました。豊臣秀吉が「人たらし」といわれるようになった理由を詳しく解説します。
「人たらし」といわれる理由①「上司が苦しいときは助ける」
秀吉は織田信長が亡くなるまで、ずっと信長に仕えていました。信長は秀吉にとって「直属の上司」です。そんな信長がピンチに陥ると、秀吉はどんな困難な仕事でも引き受けます。
暴君と呼ばれた織田信長であっても戦国時代の中で何度かピンチに陥っているのです。1570年「金ヶ崎の戦い」のときには、浅井・朝倉軍の罠にはまりもはやこれで終わりかと思われるほどのピンチに陥りました。
なんとか逃げ延びなければならない信長に対し秀吉は、自分が殿を買って出て「最後尾で敵の追撃を引き受け」信長を逃がしました。上司からしてみればこれほど頼りになる部下がいるでしょうか。献身的な戦いを見せた秀吉を信長は強く信頼するようになったのです。
「人たらし」といわれる理由②「部下のミスを責めない」
豊臣秀吉は部下の失敗に対し責めることはしませんでした。部下が失敗するとあえて「優しい言葉と態度」で慰めていたのです。
小牧長久手の戦いの際、秀吉水軍の指揮にあたった九鬼嘉隆は徳川家康に撃退されました。九鬼嘉隆は秀吉に深く詫びを入れます。怒号を浴びせられるだろうと思っていた九鬼嘉隆に対し秀吉は「あの状況の中でよく帰ってきてくれた、何よりの手柄だ」とほめてくれたのです。
秀吉の言葉に感激した九鬼嘉隆は秀吉に忠誠を誓い、「関ヶ原の戦い」において西軍に加わり参戦し、秀吉を裏切ることなく自害しこの世を去りました。
「人たらし」といわれる理由③「好感度の上げ方」を知っている
豊臣秀吉という武将は権威を示し、自分の好感度を上げるために様々な工夫を凝らした人物です。好感度の上げ方を熟知していたからこそ、人が秀吉に興味を持ち、秀吉のペースに入り込んでいったのです。
秀吉は信長が京都で行った盛大な軍事パレード「馬揃え」に倣い、同じ京都で大茶会「北の大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を開きました。非常に規模の大きな茶会は、豊臣秀吉の権威を十分に世間へ知らしめたのです。
当時世間は空前の「茶湯ブーム」でした。千利休らが茶湯を世にアピールしていた時代です。秀吉はこのブームに乗り、愛好者であれば「身分に関係なく」誰でも参加できる茶会を開きました。この茶会には1000人もの人が参加し大成功を収めます。身分に関係なく・・・というところが実に秀吉らしく、ここでも秀吉の人たらしな性格が見て取れます。
「人たらし」といわれる理由④「接待・接待・また接待」
秀吉は人を掌握するために「接待」もよく利用していました。1588年、毛利家は秀吉の支配下でしたが、毛利家の当主であった輝元は秀吉に心を開きませんでした。相手が自分を警戒しているとなれば、こちらも相手を警戒するものですが、秀吉は輝元を警戒するどころか彼を厚遇したのです。
輝元が上洛した際、秀吉は輝元へ「官位の便宜」を行い、京都や大阪の観光案内をし、角界の著名人が集う社交界の一員として招きました。このような厚遇にすっかり気を良くした輝元は、秀吉に心を開き服従したのです。
「人たらし」といわれる理由⑤「褒美はケチらない!」
秀吉は「佐渡」「生野」「石見」といった主要金山・銀山を直轄地にしており、多大な収益をあげていました。豊臣家は莫大な財産を持っていたのです。秀吉は「お金」もケチることなく、人の心を掴むために大盤振る舞いしています。
秀吉は1598年に聚楽第(秀吉の京都の邸宅)で、自分が持っている金銀などを諸大名や皇族に分配しました。
- 豊臣秀長(弟)に金3,000両と銀20,000両
- 徳川家康に金1,000両と銀10,000両
このように惜しむことなく分配した枚数は金4,900枚、銀21,100枚といわれています。当時金1両は現在の10万以上といわれていますから、とんでもない額を配ったことがわかるでしょう。
臣下への褒美はケチることなく存分に、相手が納得する上を行く額を与えることで、臣下の心をがっちり掌握したのです。
宣教師「ルイス・フロイス」から見た豊臣秀吉
宣教師「ルイス・フロイス」はポルトガル生まれで、戦国時代にイエズス会士として日本にやってきました。当時、織田信長・豊臣秀吉らと会見し、キリスト教布教の許可を得ました。日本語に精通していたルイス・フロイスは「日本史」という本を執筆しています。ここにはルイス・フロイスから見た豊臣秀吉が克明に書かれていました。
豊臣秀吉は「神をも恐れぬ悪魔」
秀吉は織田臣下時代、信長のために必死に働き、命じられたことには真摯に従う臣下でした。しかしフロイスの目から見ると、秀吉は「抜け目のない策略家」であり神をも恐れぬ悪魔の手先と書かれています。
秀吉が次第に権力を持ち、領地や財産がどんどん増えていくたびに、今までにはなかった悪癖や意地悪な性格が見えてきたというのです。その悪癖や意地悪な性格は家臣以外、外部の人に対しても放漫に発揮しており、「嫌われ者・増悪の対象」だったとしています。
フロイスが日本史に書いた秀吉の活写は「関白に就任して以降」のことです。この時の秀吉はキリスト教に対して理解を示していないため、フロイスの言葉が厳しいものとなったのも否めません。しかし秀吉が関白になってからの話は、人たらしで明るくて・・・というイメージからほど遠いものとなっています。
豊臣秀吉は野心家で恩知らずな横暴者
ルイス・フロイスは秀吉の性質について以下のように書いています。
「彼は尋常ではない野心家で、その野望が諸悪の根源となっている。野望が元になり不誠実な欺瞞者(ぎまんしゃ)・虚言者・横着者にしているのだ。彼は日々数々の不義・横暴を働きみんなを驚愕させた。本心を語ることもなく偽ることがうまい人物、悪知恵に長けており人を欺くことを自慢にしていた。」
秀吉の性格は「本能寺の変」で信長が明智に倒されてから大きく変わったといわれています。人懐こく憎めない、人情家だった秀吉は、信長が倒れ「天下」が目の前にぶら下がるようになってから変わってしまったのです。
フロイスは秀吉が抜け目なく天下を狙う様や、この時にもたげてきた醜悪な性質を見抜き、「野心家で恩知らずな横暴者」と本に残しました。
「鳴かぬなら~ホトトギス」の俳句から見る豊臣秀吉の性格
「豊臣秀吉」「織田信長」「徳川家康」という3英傑について、その性格をわかりやすく端的に表した俳句があります。「ホトトギスの句」と呼ばれる俳句です。
- 織田信長
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 - 豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」 - 徳川家康
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
気難しく気性の荒い織田信長は、家臣の言うことなどほぼ聞かず、自分のいうことを聞かないものは容赦なく殺した残虐非道な武将といわれています。信長の俳句は、うつけといわれるほど常人とはかけ離れた行動をとる一般的な信長を、うまくあらわした俳句です。
徳川家康は忍耐強く堅実な性格だったと伝えられています。家康は江戸に幕府を開き、265年という長きにわたり一時代を築きました。幼少期に人質として長く過ごした家康は、着々と実力をつけ辛抱しながら征夷大将軍に上り詰めました。家康の俳句は「辛抱強い」家康をしっかり表しています。
豊臣秀吉の俳句は、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」です。苦境に立たされても、最後まで何か策はないかと知恵を絞り、何とか窮地を脱するなど、秀吉の武将人生を感じさせる俳句です。ホトトギスが鳴かないとき、秀吉なら何かしらの策をひねり、きっと鳴かせてみせるでしょう。
豊臣秀吉は意外にも文化人だった?
武士や大名の子ではなく農民の子だったからなのか、秀吉は無教養ではなかったのかと思っている人も少なくありません。しかし秀吉は勉強家であり、意外にも文化人だったのです。
わび茶といえば千利休が有名ですが、秀吉は当時最先端の飲み方とされていた「吸い茶」をいち早く取り入れ普及させました。
また陶芸家でもあり美食家・書道家としても知られている北王子魯山人は、秀吉の書について「新たに三筆を選べば、秀吉も加えられる」といっています。(三筆は書道に優れた人々を尊重した言葉で、これを新たに作るのであれば、秀吉も入るという意味)
晩年の豊臣秀吉「暴君」と化したのはなぜなのか
豊臣秀吉は天下統一後、性格が変わってしまったといわれています。天下人という立場になり、権威を保ちつつ日本という国を自分が統治していかなければならないと考えれば、誰しも気が休まるときなどないでしょう。
特に晩年、死ぬ間際の秀吉はまさしく「精神錯乱状態」だったのではないかと推察されています。
秀吉の死は梅毒が原因だったとか、認知症だろうなどといわれていますが、いずれも「脳」に障害が起きる病気です。失禁や精神錯乱、下痢なども症状の1つとみていいのかもしれません。しかし本当にこのような病のせいで暴君となっているのでしょうか。
秀頼が生まれ秀次が切腹して以降、秀吉は自分の子「秀頼」が家督を継ぎ国を統治する人間となることを望んでいました。自分の死後、家臣たちが秀頼を裏切るのではないかと気が気ではない状態だったのでしょう。病気と心労が重なり、次第に狂ったような暴君となってしまったのだと想像できます。