徳川秀忠は徳川家の2代目将軍ですが、初代将軍の徳川家康・3代目将軍の徳川家光と比べると知名度も低く、どのような人物だったのかはあまり知られていません。
今回は、徳川秀忠の性格を中心に、性格にまつわるエピソードや影響などを紹介していきます。
徳川秀忠がどのような性格なのかはさほど知られていないものの、300年近い徳川幕府の礎を築いた人物でもあるのです。
徳川秀忠に関するエピソードから、父・家康との関係性を中心に、どのような人物であったのかを詳しく解説します。
徳川秀忠の基本的な性格
徳川秀忠の基本的な性格は大きく分けて3つあります。
- 真面目で温厚
- 女性に一途
- ここ一番ではポンコツ
地味と言われることの多い徳川秀忠らしい性格もチラホラ見受けられますが、本項目では、上記3つの性格についてまとめました。
真面目で温厚
徳川秀忠は真面目で温厚な性格の持ち主であると言われています。江戸幕府の公式史書である「徳川実記」において、真面目で温厚だったことが記されているためです。
実直な一面を持ち合わせており、父・家康からの教えは忠実に守るなど、徳川幕府になってからも家康の存命中は家康が実権を握っていた中にあって、秀忠は忠誠を誓い続けたのです。
家康が亡くなってからも、家康が大切にしたいことを守り続けてきたのが徳川秀忠です。
自我をあまり出すことなく、徳川幕府のために献身的な振る舞いをし続けられたのは、真面目で温厚な一面があったからと言えるでしょう。
女性に一途
徳川秀忠には1人の側室もおらず、一生涯にわたって、正室・江を愛し続けました。
秀忠が江を正室に迎えたのは秀忠が17歳、江が23歳の時です。江は浅井長政の三女であり、悲劇的な別れを経験したのち、豊臣秀吉に引き取られています。
その後、江は政略結婚を何回か経験するも離別し、秀忠とは3回目の結婚でした。
元々温厚で真面目な秀忠と、政略結婚を幾度も行い既に出産経験もある江との関係性もあってか、秀忠は側室を1人も持つことなく最後まで江を愛し続けたのです。
ここ一番ではポンコツ
徳川秀忠は歴史ドラマなどでポンコツのように描かれることがありますが、ここ一番でやらかしてしまうポンコツな一面を持ってしまうことが大きな要因です。
普段からポンコツだったわけではなく、絶対に負けてはいけないようなところでやらかすことが多かったのが秀忠でした。
関ヶ原の戦いを始め、大坂冬の陣など、徳川家の存亡をかけた戦いにおいて、秀忠は運悪く後手を踏み続け、ことごとく父・家康の不興を買うことになります。
秀忠が名を上げた戦いは乏しかったとされ、徳川実記でも武将としての評価は低く、肝心な場面でやらかすことが多かったと言えるでしょう。
徳川秀忠の性格を示すエピソード
徳川秀忠の基本的な性格で紹介した内容を裏付けるようなエピソードが数多く残されています。
- 天下分け目の戦いで失態を演じ続ける
- 正室の「江」と7人の子供をもうける
- 乱入した牛にも驚かず
- 徳川家康が亡くなった後に見せた成長
どのようなエピソードだったのか、徳川秀忠の性格を象徴するお話をまとめました。
天下分け目の戦いで失態を演じ続ける
徳川秀忠はここ一番でやらかすポンコツのイメージで長年紹介され続けていますが、その最たる例は関ケ原の戦いです。
徳川秀忠にとっての初陣が関ケ原の戦いであり、当時4万人近い軍勢を率いて父・家康がいる地に向かって軍を進めました。
ところが途中の信州上田城において、2,000人程度と少ない軍勢に対して大苦戦し、結果として関ケ原の戦いに間に合わなかったのです。
秀忠にとって運が悪かったのは、家康が命じた上洛命令が大雨による川の氾濫の影響でなかなか秀忠に届かなかったことです。
報せが届いて急いで上洛を目指すも、交通網がズタズタな状況では急ぐに急げず、秀忠の到着を待たずして関ケ原の戦いが始まってしまいました。
その後、大坂の陣では二度と遅れることがないようにと、無理をして大軍を移動させた結果、兵が疲労困憊となり、家康を激怒させる事態にもなっています。
正室の「江」と7人の子供をもうける
徳川秀忠は正室の江との間に7人の子供をもうけています。
正室の江は元々豊臣家の人間であり、豊臣秀吉の駒として政略結婚に付き合わされてきた人物でしたが、温厚で真面目な秀忠は江を心から愛しました。
一方で、4人続けて女の子ばかりが生まれ、秀忠にも江にもプレッシャーが襲い掛かります。そんな中で5番目に生まれたのが家光でした。
家光を巡っては、7番目に生まれた国松との世継ぎ争いが展開され、家光の乳母だった春日局が家康に事情を伝えて家光が世継ぎとなったというエピソードもあります。
なかなか男の子が生まれなかったという事情はあったにせよ、最後まで側室に頼らなかったのが秀忠の実直な部分と言えるでしょう。
乱入した牛にも驚かず
徳川秀忠はどんな場面でも落ち着いていたとされ、ある日講義を受けていた際、部屋に牛が乱入しました。
周囲の人たちは牛の乱入で混乱しますが、徳川秀忠は講義を受け続けていたという話があります。
同じようなエピソードでは、兄弟と能を見ていた際に地震が発生し、周囲の人たちが混乱する中で秀忠は冷静に状況を見て、「動かない方がいい」と落ち着いていたという話もあります。
戦いではポンコツなエピソードが多かった秀忠ですが、決して慌てふためいて弱腰な姿を見せていたわけではないことを垣間見ることができるでしょう。
徳川家康が亡くなった後に見せた成長
さまざまなポンコツエピソードなど、徳川秀忠に対するイメージは悪いものばかりですが、徳川家康が亡くなるとイメージは一変します。
徳川家康の死後に生まれた武家諸法度により、外様大名の動きを封じ、内乱の芽を摘むことに成功し、幕府の安定につなげました。
元々政務に関しては高く評価されていた秀忠は、抜け目なく政務をこなしており、江戸城などの工事を行う際には大名たちに金を出させて、幕府の力を見せつけることに成功します。
家康がやりたかったことを実直に行い続けた面もありましたが、少なくとも政務においてポンコツな一面を見せることは全くなく、実行し続けたと言えます。
徳川秀忠は家康が亡くなってからリーダーシップを発揮するようになったのです。
徳川秀忠の性格による影響
徳川秀忠の性格は、真面目で実直、女性に一途、時にポンコツなどがありました。これらの性格が後世にどんな影響を与えたか気になる方も多いはずです。
本項目では最後に、徳川秀忠の性格による影響について解説します。
戦いは家康に任せ、秀忠は政治に専念
徳川家康が存命中は、早々に征夷大将軍の座を徳川秀忠に明け渡すも、実権は家康が握っているという状態が大坂の陣まで続きました。
家康からすれば、今の政権を長く続けなければならず、そのためには豊臣家など反乱分子となり得る存在を潰していく必要がありました。
一方で、秀忠は戦いこそ不得手であっても、実直な性格も相まって政務に関しては申し分なかったため、「戦いは家康、政務は秀忠」と分けることができたのです。
もしも秀忠の性格が実直で真面目、温厚などでなければ、政務に関しても家康が取り仕切らざるを得なかったかもしれません。
家康が戦いに専念でき、大坂の陣で完全に豊臣家を滅亡させることができたのは、秀忠の存在のおかげと言えるでしょう。
家光がやりやすい形でバトンを渡す
徳川秀忠は、武家諸法度などを徹底して行い、全国各地の大名が持っていた力を削り落としていきました。
秀忠自体は家光の弟を寵愛していたこともあり、家光は祖父の家康を尊敬する姿勢を見せていましたが、決して秀忠のことを憎んでいたわけではありません。
その証拠に、秀忠の死後、家光は秀忠が行ってきた政策を継続して行い続けたのです。普通の親子関係とは言えないものの、秀忠の遺志をしっかりと受け継いだのが家光でした。
家光は参勤交代を制度化し、秀忠が行ってきたことをより強化させ、300年近く続く江戸幕府の礎を築きました。
秀忠は家康から受け取ったバトンをしっかりと握りしめ、決して落とさぬよう確かな手つきで家光に渡すことができたのです。
本当に秀忠がポンコツであれば、秀忠の代で江戸幕府は終わっていたかもしれません。その点において徳川秀忠もまた偉大な将軍だったと言えるのではないでしょうか。