真田幸村といえば、生まれ年ははっきりしませんが長野県で生まれて大阪府で最期を迎えた武将として有名です。

戦国武将の戦いにはどの城で戦ったのかが一緒に残されていることが多いですが、幸村にゆかりのある城にはどのようなものがあるのでしょうか。

大河ドラマの題材にもなった「真田丸」や、今も有名なスポットとして残っている「大坂城(大阪城)」を彼がどのように築城して過ごしたのか解説します。

また、幸村ゆかりの城がある地で彼のルーツを辿りながら、その史跡を巡っていきます。

真田幸村が過ごした城や場所について興味がある方は、ぜひ最後まで読んでみてください。

真田幸村ゆかりの城

真田幸村にゆかりのある城といえば、大河ドラマの題材にもなった「真田丸」が有名かと思いますが、それ以外にも最後の戦いの場所となった大坂城や、誕生の地である長野県に建つ上田城もゆかりがある城です。

幸村にゆかりのある城の概要や、どのように幸村が関わったり使用したりしていたのかについて詳しく解説していきたいと思います。

上田城 | 長野県上田市

上田城は、幸村の父昌幸が徳川家康からの援助を受けて1583年(天正11年)に長野県上田市に築城されました。

そもそも最初は徳川家の命を受けて築城が開始された城ですが、豊臣家と対立するために上田城を築城している領地を北条家に譲るようにいわれた昌幸は、これを拒否してその後の築城の援助を上杉家に求めました。

こうして築城されていた上田城ですが、城が完成する前の1585年(天正13年)8月に勃発した第一次上田合戦の際に徳川軍に攻め込まれます

昌幸は、7,000人の軍勢に対してわずか2,000人あまりで徳川軍を迎え討ち、敵を撃退します。その後、9月には上田城は一旦完成しました。

1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発し、上田城は再び徳川秀忠率いる東軍に攻め込まれますが、幸村と父昌幸は敵を本丸におびき寄せ、周囲の川の堤防を壊して行く手を阻むことでまたしても敵を撃退します。

二度に渡り少ない軍勢でありながら敵を撃退した上田城でしたが、関ヶ原の戦いで西軍が敗戦したため、徳川家康の命令で取り壊されてしまいました。

しかし、1622年(元和8年)に信濃当主であった仙石忠政によって再建されて、本丸・櫓・石垣などは現代でもそのまま残されており歴史的価値が高まっています。

真田丸 | 大阪府大阪市天王寺区

真田丸は、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣の際に敵を迎え撃つために幸村が大阪府大阪市天王寺区に築城しましたが、正確には出城のため正式な城ではありません。

真田丸ですが、大坂冬の陣で幸村率いる軍勢の劣勢を覆すために築城され、戦いに使用されました。

次に紹介する大坂城は、豊臣家が大坂の陣の際に籠城したものですが、南側の守りが薄く敵に侵入されやすいという弱点があったため、幸村はこの南側を守るために、周囲を三重柵と堀で囲った半円形の真田丸を作りました。

実際に、大坂冬の陣では真田丸の戦いと呼ばれる幸村が真田丸に入って指揮を執った戦いがありますが、軍勢も有利な徳川軍を城壁までおびき寄せて一斉射撃を浴びせる戦法で敵を迎え撃ち、打撃を与えています

真田幸村の築城技術や戦いぶりを発揮する城となった真田丸でしたが、こちらの城も上田城同様に大坂の陣で敗戦したあとに徳川家康の命令で取り壊されています。

その後は再建などはされず、真田幸村出城跡として碑が立っているようです。

大坂城 | 大阪府大阪市中央区

大坂城は、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築城したもので大阪府大阪市中央区に現在も建っています

当時秀吉が作った遺構はほとんど埋没してしまっており、櫓・石垣などは江戸時代から残存するものは徳川秀忠が修築した当時のものであると調べが付いています。

幸村の最後の戦いとなった大坂の陣の際に使われた城で、豊臣軍の本拠地である大坂城を守るために真田丸を築城しながら最後まで戦い抜きました。

大坂城は、周囲が川や湿地などに囲まれた自然にできた要塞のような城で、城周囲は巨大な塀で囲まれていたため、守備力が高い難攻不落の城とも呼ばれていました。

誰も落とせないといわれていた城でしたが、大坂冬の陣のあとに徳川家康に塀を埋め立てられてしまったため、次の大坂夏の陣では豊臣軍はここで籠城することができず、敗戦してしまいます。

大坂の陣のあとは、徳川家によって一度取り壊されて、徳川家の城として再建され、現代でも日本屈指の観光名所として当時の遺構が残されています。

真田幸村ゆかりの城がある地で史跡を巡る

真田幸村にゆかりのある3つの城をご紹介しましたが、それぞれの城が建つ場所には現代も当時の遺構などが残っています。

幸村が生きていたときにも使われていたとされている場所や、幸村が最期を迎えた場所まで、その史跡を巡ります。

真田家のふるさと | 長野県上田市

真田幸村は、誕生年は正確には不明ですが、長野県で生まれたとされており、そのルーツは父昌幸を含む真田家祖先から続いています。

父昌幸が築城した上田城や、真田家発祥の地と呼ばれる真田町など、幸村にゆかりのある場所をご紹介します。

◆上田駅から約10分の場所にある上田城

長野県上田市にある上田駅は、真田幸村が好きな方が聖地巡礼としてよく訪れる場所になっていますが、まずこちらの駅に降りると馬に乗っている真田幸村をモチーフにした「真田幸村公像」があります。

上田駅から約10分ほど坂道をのぼった先にあるのが、日本夜景遺産や日本100名城にも選ばれている上田城です。

本丸跡は公園として整備されており、堀や土塁は父昌幸が築城した当時のものが残っているため、年間を通して多くの観光客でにぎわいます。

本丸跡には、幸村や歴代の城主を祀る真田神社や、真田家にまつわる展示品などが飾られる上田市立博物館などの観光スポットもあり、毎年4月には上田真田まつりという真田家にゆかりのあるイベントも開催されています。

◆真田家発祥の地【真田町】

上田駅から車で約10分ほど郊外に向かって走れば、真田家発祥の地である真田町があります。

真田幸村発祥の地とされるこの町の入り口には、真田氏記念公園があり真田家発祥の郷という石碑が出迎えてくれます。

公園の中に入ると、真田家いえばこの3人といっても過言ではない幸村・父昌幸・祖父幸隆の3人のレリーフ像が置かれています。こちらは上田市の彫刻家によって作られました。

この石碑やレリーフ像を見るために、真田町を訪れる真田幸村ファンの方が多くいらっしゃいます。

◆幸村も入っていたとされる別所温泉

上田駅から走る鉄道上田電鉄別所線に乗って30分ほどの場所にある終点まで行けば、信州で最も古いとされる別所温泉があります。

別所温泉は、枕草子にも実際に記載されているくらい古くからある温泉地で、かつての武将たちがこちらの湯につかって傷や疲れを癒していたとされています。

戦国時代には真田家を含む武将たちがここを訪れていたといわれており、歴史小説などでは幸村が別所の湯に入って傷を癒すといった描写もよく使われています。

真田幸村 最期の場所 | 大阪府大阪市

真田幸村は、大坂の陣の際にその最期を大阪府大阪市で迎えました

幸村といえば真田丸といっても過言ではないほと現代では有名な城となった真田丸の跡地や、幸村の最期の場所とされている安居神社の現在の様子などについてご紹介します。

◆真田丸の跡地に建つ心眼寺

真田丸は、前述したように幸村が大坂城の弱点を埋めるために築城した城ですが、大坂の陣で敗戦したあとは徳川家康の命によって取り壊されています。

当時真田丸とともに取り壊された豊臣家が作った心眼寺は、1622年(元和8年)に真田家祖先である海野氏が再建し復興されています。

心眼寺は、真田丸の跡地に幸村と息子幸昌を供養するために再建され、寺院の横には真田幸村出丸城跡という石碑も建てられていますので、大阪に立ち寄ることがあればぜひ参拝に訪れてみてください。

◆幸村最期の場所【安居神社】

幸村は、大坂夏の陣で敗戦が分かったあとも、徳川家康の首だけは取りたいと玉砕覚悟で徳川本陣に出陣しています。

一歩及ばず家康の首を取ることが叶わなかった幸村は、傷を負って近くにある安居神社で配下数人とともに体を休めていたところを敵に討ち取られたのが最期といわれています。

幸村が最期を迎えた大阪府大阪市天王寺区にある安居神社は今も建っており、幸村が最期に休んでいた一本松とされる木の2代目「さなだ松」も植えられています。

立膝をついて休む様子を模された真田幸村公之像や、真田幸村戦死跡之碑も建てられているため、幸村ゆかりの史跡を巡った最後にはこちらも訪れてみてはいかがでしょうか