「家紋」とは、古くからある日本特有の文化のひとつで、家柄や地位・血統などを周囲に示すためのものとして使用されています。

大河ドラマや戦国武将ゲームなどを見てみると、武将が身に着けている甲冑や刀などに模されていることが多く、使用している家紋の種類はそれぞれの家系によって異なります。

真田家が使用していた家紋として有名なのが「六文銭」ですが、真田幸村はそれ以外にも合わせて3種類の家紋を使い分けて使用していました。

今回は、それぞれの家紋の特徴と込められた思い、息子が有名な真田家の家紋である六文銭を使用しなかった理由について解説していきたいと思います。

真田幸村が使用した3種類の家紋

家紋 特徴 ルーツ
真田六文銭 ・真田家が主で使用
・真田家により有名になった家紋
祖父幸隆から使用
結び雁金 ・真田家の替紋
・野鳥の雁を図案したもの
滋野・海野家
洲浜 ・真田家の替紋
・慶事に使用
滋野・海野家

真田六文銭(六連銭)

六文銭は、連銭紋のひとつであり、六連銭・六紋連銭と呼ばれることもあります。真田六文銭と呼ばれているのは、真田家が使用することでこの家紋が有名になったからです。

六文銭は、仏教でいうところの六道銭であり、これは死者が三途の川を渡るときの通行料として身に着けるものです。

六道銭を棺に入れて地蔵に供える風習にのっとり、武士にとってふさわしい家紋として、また真田家のルーツである海野家も使用していたことから、この意図を汲むものとしても使用されていたといわれています。

こちらの六文銭が真田幸村が主として使用していた家紋であるといわれており、戦いの際などにはこちらを付けて出陣していたようですが、それ以外にも以下の2種類の家紋も使用していました。

結び雁金

結び雁金は、中心に雁(がん)という鳥が模されていますが、こちらの鳥は「幸せを運ぶ鳥」として昔から有名です。

雁の両方の羽を円形になるようにねじった紋のことを結び雁金紋と呼び、こちらが雁紋の最も典型的な形となります。

陰暦の8月を秋に吹く北風を雁渡していた鳥で、万葉集などでも名が残されています。この鳥にまつわる忠誠心に関するエピソードがあることや、集団で飛ぶ美しさから武家でよく使用される日常紋として残っています。

幸村は、こちらの紋を六文銭を使うのにあまりふさわしくない場面=生活場面などで替紋として使用していたようです。

洲浜

洲浜紋は、川の河口部にできた土砂がたまってできた島状の洲(三角洲と呼ばれるもの)をモチーフにした家紋です。

家紋の元となっているのは、洲浜台といわれる三角州を模したもので、一般的には平安時代から祝賀の際などに使用される縁起のいいものとされています。

洲浜紋は、丸を3つ組み合わせて作られる家紋で、真田家はシンプルに黒の丸3つで作られたものを使用していますが、それ以外にも色々な種類のものが存在します。

江戸時代には婚礼などで使用されていたこともあり、真田家は祝い事など縁起がいいときに使用する家紋としてこちらを替紋にしていたようです。

真田幸村が六文銭の知名度を上げたといわれる理由

幸村を含む真田家が使用していた家紋は、前述したように3種類あるといわれていますが、その中でもやはり有名なのが六文銭といわれています。

こちらの家紋は、歴史に詳しい人物であれば知らない人はいないのではないかとされるくらい有名ですが、真田六文銭と呼ばれるくらいなので、この知名度を上げたのは真田家ではないでしょうか。

真田幸村の最後の戦いとして有名なのが、徳川家康を筆頭とした徳川軍と戦った大坂の陣ですが、この戦いでは敗戦覚悟で家康の首だけを狙って徳川本陣へと突入していきます。

この際、幸村は家紋である六文銭を身に着けていなかったというエピソードがあります。

これは、敵陣に関ヶ原の戦いの際に別れた兄信之がいたからではないかといわれており、そんな配慮ができる義理高さや人情深さが魅力的に感じられたことから、この家紋の知名度が上がったのではとされています。

真田家が六文銭に込めた思いとは

六文銭が持つ意味に関しては前述した通りですが、真田家がなぜこの家紋を使用するようになったのかについては諸説あります。

  • ルーツである海野家が使用していたので正統性を示すため
  • 家臣の夜襲と勘違いさせた永楽通宝を六文銭に変化させた
  • 死を連想させる六文銭を使用することで武田家への忠誠を誓うため

いずれにしても、幸村も父昌幸も命を懸けて戦国時代を戦い抜くという覚悟のもとでこの六文銭を使用していたのではないかといわれています。

また、六文銭=仏教でいう六道銭(三途の川の通行料)であることから、戦国時代を戦い抜いてその最期を迎えたときには、きちんと三途の川を渡って成仏できるようにという思いも込められていたのではないかと推測されているようです。

【番外編】息子守信が六文銭を使用しなかった理由

真田守信は、正室竹林院との間に九度山で誕生した幸村の次男ですが、彼は片倉守信と名前を変えて現代へと真田家の子孫を繁栄させています。

そんな守信ですが、幸村の死後は六文銭は使用していません。なぜ真田家の家紋である六文銭を使用しなかったのでしょうか?

守信は、父の最後の戦いとなった大坂の陣の際に一緒に大坂城に入っていますが、このときまだ4歳であったため戦いには参加していませんでした。

父の死後は、片倉重長に保護されて過ごしますが、幕府から真田家の子孫が残っていると疑われた際に、自分は幼少期に死んだことにして家系を偽装します。

生き延びるために片倉姓に改名した守信は、その後は幸村の子供であるということがバレないように六文銭の使用も控えていたようです。